[ゆけむり通信 番外1999]

4/22/1999
『ソング&ダンス〜ミュージカルの花束〜』

誰のためのショウ?

 僕は、劇団四季の日本ミュージカル史における功績を認めない者でもないし、東宝などと違ってオリジナル・ミュージカルを作り続けていることは評価すべきだと思う。また、継続的な活動を支える経営手腕も見事だとは思う。
 しかし、現時点における、上演している作品のバランス(翻訳ミュージカルの圧倒的多さ)と作り出される舞台の質を見ていると、いったい何を目指して劇団活動を続けているのだろう? という疑問が湧いてくる。
 殊に、翻訳ミュージカル公演の多さ。
 もちろん、様々な事情でニューヨークやロンドンに行かれない人たちにとっては、作家的な偏りがあるとは言え、ロングラン中の人気作を中心に、絶えず数本の海外ミュージカルを日本にいながら観られるのは、うれしいことだろう。人によっては、それが翻訳であることを、さらにプラスの要素として挙げるかもしれない。
 そうしたことは、観客の側からの話としては充分に理解できる。しかし、劇団としてはどうなんだろう。

 1)海外の高度なミュージカルを上演しながら劇団のスタッフ・キャストの力を磨いていく、なんてことが許される時代でもないし、チケット料金の設定もそうした範疇を超えている。
 2)かと言って、四季版で、細部ではなく(装置や扮装やメイクアップやちょっとした振付の違いなどではなく)本質的な解釈において“創造的”と言えるほど独自の演出をしている翻訳ミュージカルが現在あるとは思えない(『ジーザス・クライスト・スーパースター JESUS CHRIST SUPERSTAR』? 見せかけの違いでしょ? 『アスペクツ・オブ・ラヴ ASPECTS OF LOVE』は海外版を観ていないが、その海外版そのものが当たらなかったわけだし、日本版の仕上がりがあれでは、解釈うんぬん以前の話だろう)。
 3)だとすれば、現時点での四季の翻訳ミュージカル上演は、創造性という視点から言えば、“営業”以上のものではない。いくら「劇団四季とディズニーの『ライオン・キング THE LION KING』」と言ってみたところで、作り出したのはディズニーであり、四季はそれを買ってきたにすぎない。

 以上のことからして、翻訳ミュージカル上演はオリジナル・ミュージカルを創造していくための資金作りの活動だ、というのが、劇団四季を創造的集団だと想定した時の、僕の理解だ。

 さて、『ソング&ダンス〜ミュージカルの花束〜』。四季の会会員向け広報誌上で、“『シカゴ CHICAGO』の来日公演より [ずっとずっとフォッシーしてましたよ] ”、と広報担当の安倍寧という人が、身内でありながらまるで第三者のような口調で自画自賛していた四季の歌と踊りのレヴューだが、上記の理解に沿って考えると、実に不可解な作品と言う他ない。
 と言うのは、僕の観た 4月段階では、このショウ、これまで上演してきた海外ミュージカルのナンバーを並べた、劇団四季の翻訳ミュージカル・カタログだったからだ(その後、前半部にオリジナル・ミュージカルのナンバーが加えられたようだが、それについては後述)。

 具体的に言うと、第 1幕に、『アプローズ APPLAUSE』『コーラスライン A CHORUS LINE』『ウェストサイド物語 WEST SIDE STORY』『クレイジー・フォー・ユー CRAZY FOR YOU』『美女と野獣 BEAUTY AND THE BEAST』というブロードウェイ・ミュージカルのナンバーが、第 2幕には、アンドリュー・ロイド・ウェバー Andrew Lloyd Webber の『ジーザス・クライスト・スーパースター』『エヴィータ EVITA』『キャッツ CATS』『スターライト・エクスプレス STARLIGHT EXPRESS』『オペラ座の怪人 THE PHANTOM OF OPERA』『アスペクツ・オブ・ラヴ』『サンセット大通り SUNSET BOULEVARD』『汚れなき瞳 WHISTLE DOWN THE WIND』のナンバーが並ぶ。
 この内、他プロダクションが翻訳上演した『スターライト・エクスプレス』と、比較的新しい『サンセット大通り』『汚れなき瞳』を除いては、すべて四季が翻訳上演したことのあるもので、しかも、『アプローズ』以外は、現在も上演中か、あるいは最近上演し、近い将来再び上演する可能性のある作品だ(『サンセット大通り』『汚れなき瞳』に関しては、海外で失敗しているし、装置に金がかかるなど、リスクが大きいので可能性は低いが、それでも上演しないとは言い切れない)。
 ということは、言い方を変えれば、このショウは劇団四季の翻訳ミュージカルのプロモーションでもあるのだ。
 そもそもが“営業”である翻訳ミュージカルのプロモーション的舞台を新たに作る――って?

 ここではっきりさせておきたいのは、四季の『ソング&ダンス』は振付の加藤敬二の名前を前面に出したショウだが、例えば、ジェローム・ロビンズ Jerome Robbins が自ら振付を手がけたオリジナル作品の名場面を再現した『ジェローム・ロビンズ・ブロードウェイ JEROME ROBBINS' BROADWAY』や、ボブ・フォッシー Bob Fosse の振付作品を後継者たちが再現・再構築してみせた『フォッシー FOSSE』とは、本質的に違うということだ。
 違いの 1つは、もちろん、ロビンズやフォッシーの場合は元の作品を彼ら自身が作ったということであり、もう 1つ違うのは、『ジェローム・ロビンズ・ブロードウェイ』『フォッシー』には、観られる機会の少ない過去の名作をオリジナルに近い形で垣間見ることが出来るという、いわば歴史的意義があったということだ。そして、言うまでもないことだが、そこにはプロモーション的要素などない(逆に『シカゴ CHICAGO』の勢いを借りて『フォッシー』がオープンしたということはあると思うが。ついでに言えば、『ジェローム・ロビンズ・ブロードウェイ』がオープンした年に、その中にナンバーの出てくる『ジプシー GYPSY』がオープンしたが、全く別のプロダクションだった)。
 少なくとも(嫌味に聞こえるのを承知で言えば)ニューヨークでは、上演中だったり最近上演したばかりの作品のナンバーを並べるなどという企画は、小さなクラブのショウか、 100%プロモーションのために行なわれる無料イヴェントでしかあり得ない。劇場で行なうショウとしては、芸術的見地からはもちろん、興行的見地からも意味がないということなのだと思う。

 さて改めて――、そもそもが“営業”である翻訳ミュージカルのプロモーション的舞台を新たに作ることって、そして、それを通常公演並みのチケット料金で見せるって、どういう意味があるんだろう?
 創造的集団という立場から言えば、“営業”自体がより創造的な活動のための資金作りのためであるなら、“営業”のプロモーション的舞台は屋上屋を架すような二重の“営業”活動として退けられるべきものではないだろうか。
 そして、対観客ということで言えば、“営業”のプロモーション的舞台を“けっこうな料金”を取って見せるのは、(そこに新たな振付や演出を施したという主張が通ったとしても)強欲すぎはしないだろうか。
 劇団にすれば、題材は何であれ、創造力にあふれた加藤敬二という振付家を持ってきて新たな舞台を作り出したのだから、これは立派なオリジナル舞台であるというつもりかもしれない。だとすれば僕は、それはエネルギーの無駄遣いだ、と言いたい。
 加藤敬二がいかに優れた振付家であって、豊富な引き出しからアイディアを次々に紡ぎ出したとしても、この種の舞台では創作動機を高い次元で維持しようがない。彼の才能を本当に生かそうとするなら、きちんとしたオリジナル作品を作るべきだ。逆に、こうした既成のミュージカル・ナンバーを、忠実に再現するでもなく、斬新な解釈を加えて新たな物語性を付与するでもないという中途半端な方向の中では、加藤敬二のひらめきも、ただ小器用にしか見えない。

 遅まきながら舞台の感想を申し上げれば――、歌唱が総じて安定しない、ダンスのアンサンブルが乱れる、編曲が薄っぺらい、演じている人たちから演じている喜びが伝わってこない、など、かなり否定的(あ、荒川務の歌は色気があってよかったです。初めて生で観ましたが)。加藤敬二の身体のキレはさすがだったが、劇団の歴史を語るバランス感覚を欠いた噴飯もののナレーションの前に、影が薄くなっていた。

 ところで、その後、前半部に劇団のオリジナル作品のナンバーが加えられた件についてだが(『コーラスライン』『ウェストサイド物語』がそっくり消えたことについては何か裏がありそうな気もするが、それはまあいいや)、それ自体は少なくとも前進だと思うし、加藤敬二のオリジナル振付集的舞台も観たい気がするが、それでも中途半端。やはり四季には、満点を付けられるオリジナル・ミュージカルの創作に全力であたってほしい。『エヴィータ』の焼き直しにすぎない『李香蘭』が最高峰では寂しすぎる。

 最後に、作品の根本を否定しているので、今さらどうでもいいと言えばどうでもいいのですが、オリジナル振付のクレジットを入れなくてもいいんですかね。

(10/12/1999)

Copyright ©1999 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

[ゆけむり通信 番外1999 INDEX]


[HOME]