[ゆけむり通信 番外1998]

6/11/1998
『ウエストサイド物語 WEST SIDE STORY』

弱点をカヴァーした振付の妙味

 『ウエストサイド物語』のダンスは非常にむずかしい。ニューヨーク・シティ・バレエに、このミュージカルのダンス・シーンばかりを集めた『ウエストサイド物語組曲 WEST SIDE STORY SUITE』というレパートリーがあるが、誰も楽々とは踊っていない。
 それを、宝塚がやるという。劇団四季が手放したものを 30年振りに取り戻した形だ。四季版も観たことがあるが、ダンサーたちは苦しそうだったし、動きのアンサンブルも完璧とは言えなかった。はたして宝塚のダンス力やいかに。僕の関心はそこにあった。

 結論を先に言えば、ダンス力の限界は明らかに見えた。だが、全体としては四季版よりずっと自然な印象を受けた。
 だからと言って、この作品を宝塚が上演することに積極的な意味は見出せない。あえて言えば、難易度の高い作品を演じることで歌劇団が鍛えられるということだろうが、それは観客を無視している。
 そうではあるのだが、この公演自体には悪い感情を抱かなかった。それが、いいことなのか悪いことなのか。
 宝塚の魅力と問題点はここにある。

 この物語の舞台となった“west side”は、今リンカーン・センターのあるあたりだと言われている。
 1957年のニューヨーク。2組のストリート・ギャングが対立していた。1組はジェッツ。ポーランド系移民のニューヨーク生まれの息子たち。もう1組はシャークス。プエルトリコからやって来た若者たちだ。
 小競り合いを繰り返していた2つのグループは、体育館でダンス・パーティのあった夜、縄張り争いに決着をつけるための決闘をすることになる。ところが、そのパーティで、シャークスのリーダー、ベルナルドの妹マリアと、かつてジェッツのリーダー格だったトニーが、赤い糸で結ばれていたかのように恋に落ちる。
 その夜、マリアに頼まれ決闘を止めに行ったトニーは、ベルナルドのナイフが弟分リフの腹に刺さるのを見て逆上し、ベルナルドを刺してしまう。
 その事件を聞いたマリアの元にトニーが現れて自首すると告げるが、マリアは止め、熱情に駆られた2人は激しく抱き合う。
 ベルナルドの恋人でマリアが姉のように慕うアニタは、2人の間に起こったことに気づき、マリアを叱責する。が、マリアの純情にほだされたアニタは、警官が事情聴取に来たために動きのとれなくなったマリアの伝言を持って、2人が落ち合う約束をしたドクの店に出向く。
 しかし、そこにはジェッツの連中がたむろしていて、アニタの言うことに耳を貸さず逆になぶりものにする。怒ったアニタは、マリアがベルナルドの弟分チノに撃たれて死んだと言い捨て、店を去る。
 それを聞いたトニーは自暴自棄になり、通りに出て、自分をつけ狙っているチノを呼び求める。そこにマリアが現れ、トニーは誤りに気づくが、時すでに遅く、駆けつけたチノの銃弾によって倒れる。
 悲しみ、怒るマリアの姿を見て、若者たちはようやく自分たちの愚かさを思い知る。

 今の感覚からするとやや長すぎる前奏曲が終わって幕が上がると、舞台上にはジェッツのメンバー数人が立っている。背後に流れるピーンと張りつめたオーケストラの音がピクッと動くのにシンクロして、中央にいるリフ役の肩が動く。
 それを観た瞬間、鈍い、と思った。体の切れのことだ。
 演じていたのは初風緑だが、彼女の技量の問題と言うより、振付が、宝塚で鍛えた女性の筋肉ではついていけないほどの鋭さを求めているのだと思う。
 そんなわけで、出だしでいきなりダンス力の限界がはっきりわかる。

 ところが、不思議なことに、それがしだいに気にならなくなる。
 その理由は、限界を見極めた上で特長を生かそうとする振付(アラン・ジョンソン Alan Johnson)の妙味にある。
 具体的に言うと、多人数によるアンサンブルの美しさを強調することだ。
 ジェッツもシャークスも、芝居部分では脚本通りの人数だが、ダンスになると若手が加わって集団が大きくなる。それも、初めから人数の多い体育館でのパーティのような場面ばかりでなく、途中で舞台袖から何人か現れて増えていくという場合もある。その“途中参加”のしかたまでを組み込んで自然にアレンジされた振付は、オリジナルのイメージを抱かせつつ、シャープさを、数をそろえた動きの美しさに振り替えていく。
 それは“ごまかし”なのだが、大人数の群舞というものがある種のぜいたくさを醸し出すのも事実で、いらだつこともなく観ていってしまうことになる。
 目の前にある素材から最上の効果を引き出す、こうした振付術は、さすがと言う他ない。

 四季版より自然に見えた理由は、こうした振付の技の他にもう1つある。場面転換だ。
 四季版はとにかく、暗転→転換→暗転→転換の繰り返しで、しかも時間がかかった。今回の宝塚版では、そこがかなり改善されていた。
 とは言え、この作品。名作ではあるが、古びてきている部分がある。内容のことはさておいて、今触れた場面転換を含めた運びのテンポが緩く感じられるのだ。
 名作であるがゆえに大胆な改変がしにくいのではないか。特に、レナード・バーンスタイン Leonard Bernstein の音楽の素晴らしさが、逆に枷になっている気がするのだが。

 『ウエストサイド物語』はダンスだけでなく歌の難易度も高い。むしろ、こちらの方が宝塚にとってはハードルが高かったかもしれない。
 特に主役の2人、トニー役・真琴つばさ、マリア役・風花舞は共に苦しげな箇所があった。
 でも、それって、やる前からわかってたことだと思うんだけどなあ。なのに、なぜ彼らにそういう役を振るんだろう。

 というのが大半の宝塚ファンの反応なんじゃないだろうか。
 いや、宝塚ファンならずとも、宝塚のシステムを知っている者なら誰もがそう思うだろう。そこに宝塚の人気のからくり(笑)がある。
 なんかちょっと違うぞ、という“先生”たちのやり方の下で、“生徒”たちが健気にがんばっている。だから、いろいろ問題はあっても応援してしまう。舞台の出来は別にして。
 役者に入れ込むということのない僕でさえ、この問題の多い『ウエストサイド物語』を観て、最後には健闘を讃えたい気持ちになるのだから、熱心なファンのみなさんの気持ちは推して知るべしだ。
 まあ、製作サイドはそんなファンの心理と役者のがんばりにおんぶしているわけで、これが高じてくれば、中には自分の力を過信する役者も出てきかねない。
 観客はあくまで観客として、内部事情はともかく、舞台の出来にはきちんとした評価を下すことが大切なのではないだろうか。その上で、役者を応援する。それが宝塚歌劇団のためにいちばんいいことだと思うのだが。

 どうでもいいことですが、ベルナルド役・紫吹淳が半分ぐらいマイケル・ジャクソンとダブって見えたのは僕だけでしょうか。

(7/16/1998)

Copyright ©1998 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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