[ゆけむり通信 番外1998]

7/23/1998
『はだしのゲン』

手段としてのミュージカル?

 「“○○”の大切さをミュージカルにしてわかりやすく伝えたい」とかっていう記事を新聞で見かけることがある。
 “○○”は“環境”だったり“平和”だったりいろいろだが、あんまり“競馬”だったり“タバコ”だったりはしない(笑)。
 で、まあ、どんな題材でもミュージカルにならないってことはないし、切り口だって多様であってかまわないと思うので、そういう意味では問題ないのだが、一点気になるのは、“ミュージカル”というスタイルが後付けであること。

 ミュージカルってさあ(と突然くだけるが)、非常に極端に言うと、歌ったり踊ったりのショウ場面をやりたいがゆえに作るんだと思うわけですよ。
 なぜショウ場面をやりたいかと言うと――理由は、ない。考えればあるのかもしれないが、それがわかったからってどうってことないんで、理由はないってことにしよう。あえて言えば、人間には“ミュージカル・リビドー”とでも言うべき本能的欲求が備わっている。ミソッパの“ミュージカル・リビドー”説(笑)。
 で、ですね、ミュージカルというのはけっこうやっかいなもので、この“ミュージカル・リビドー”に身を委ねて、寝ても覚めても「ミュージカル、ミュージカル」と唱えながら作らないと出来上がらない。そのくらい考えなくちゃいけないことが多いはず。
 であるからして、手段としてのミュージカル(つまり「ミュージカルにしてわかりやすく伝えたい」とか)って発想は、ミュージカル作りの大変さを理解していない、ミュージカル発展途上国ならではのものなんじゃないか、といつも思っている。

 広島の原爆体験を描いた作品として名高い同名コミックのミュージカル化『はだしのゲン』
 戦争の愚かさを子供の視線でわかりやすく描き出して、ある種の感銘を受けるが、ミュージカル好きとして感じたのは、作者(制作/木山潔、脚本・作詞・演出/木島恭)が“ミュージカル・リビドー”に身を委ねてないなあ、ということ。少なくともミュージカルを作ることが最優先ではない。
 その辺の躊躇するような気持ちが、プログラムに“Play with Music”と書かせたのだろうが、登場人物の歌う楽曲の歌詞が具体的な感情表現になっているという一点だけを見ても、これはミュージカルだ(ちなみに、“Play with Music”というのは、『上海バンスキング』のように、劇中、歌が歌として独立しているスタイルを指す)。
 なんてことを考えながらプログラムを見直していたら、そこに掲載された新聞(YOMIURI AMERICA)の切り抜きの中にこんな文章があった。
 [原作をそのまま舞台化するにはテーマが重すぎるという理由から、ミュージカルとして上演した]
 うーむ、やっぱり。

 太平洋戦争末期の広島。ゲンの家族は、両親、姉、弟。そして、これから生まれてくる弟だか妹だかが母の胎内にいる。貧しくて食事も満足にとれないが、それでも家族 5人、なかよく暮らしている。
 父ははっきりした考えの持ち主で、戦争には反対、日本に強制連行された朝鮮人に対する差別にも嫌悪を示す。だから、ゲンの一家は周囲からは白い目で見られがちだが、中には道理のわかる人もいて助けてくれることもある。
 そうやって毎日を過ごしていた広島、夏、 8月 6日。原子爆弾が落とされる。目も眩むような閃光。破壊。
 父、姉、弟を失い、茫然自失の母を連れて火の手から逃れるゲン。ショックで産気づく母。朝鮮人・朴さんが力を貸してくれ、無事生まれ出たのは妹だった。
 戦争が終わり新しい時代を迎えるが、生活の苦しさは変わらない。亡き弟に生き写しの孤児の少年を家族に加え、新たな気持ちで再出発しようとした矢先、妹が栄養失調で死んでしまう。しかし、その悲しみも乗り越えて力強く生きていこうとするゲンたちだった。

 原爆の悲惨さを戦争のむごさの究極の 1つとして捉え、人間にとっての普遍的問題として伝えていこうとする意図が随所に見え、その努力は一応の成果を結んでいる。また、一面的には語りきれない戦時の複雑に絡み合った要素を、わかりやすく、かつ深く描くという困難な作業に挑んでいる志の高さも、確実に伝わってくる。
 そうしたことを認めた上で、やはりこの舞台も、冒頭に書いた問題を抱えていることを指摘せざるを得ない。

 セリフ芝居と歌との“安易な結合”。ミュージカル好きからすれば、あえてそう苦言を呈したくなる。
 まず、歌部分の質が、歌唱としても楽曲(曲・詞)としても満足の出来るものではない。と同時に、セリフ芝居部分と歌部分との肌触りの違いがはっきりと見える。
 ここにさらに、ミームと呼ばれるフランス流のパントマイムによる表現も加わるのだが、こちらはかなり練り上げられていて、原爆投下後にあらゆる生命体が死に絶えていく場面などは迫力があった。とは言え、やはりセリフ芝居部分との融合という点では違和感は残る。

 思うに、作者は、セリフ芝居だけでは表現しきれない部分を、歌やミームで補おうとしたのではないか。しかし、三者三様にそれぞれが得意な部分を担当していけば全体として優れたものが出来るというわけではないだろう。
 必要なのは、言いたいことをうまく伝えるにはどういう表現手段を用いればいいか、ではなく、具体的な場面からの発想――こんなシーンを作りたいというところから全体像をイメージしていく発想なんじゃないか。
 原爆投下の瞬間の照明による演出と、その後の生々しい現場の再現。ここがポイントだと僕には思えたが、ここをミュージカル的に表現しないのであれば、やはり歌は不要だろう。むしろ、一応の成果を見せつつあるストレート・プレイとミームの融合による新たな表現を深化させることが正解なのではないだろうか。

 ちなみに、この作品は来年の 1月にニューヨーク公演を行なうことになっているらしいが、先に引用したプログラム中の新聞の記事によれば、[来年の NY 公演は「ミュージカル」とは銘打たずあえて「プレイ」(演劇)路線を強く打ち出す] そうだ。
 練り直しつつ今回で 3度目の公演になるというこの作品、おそらく作者は粘り強く統一感のある舞台に仕上げていくことと思う。その過程で中途半端なミュージカルの要素を捨てることに、僕は賛成する。

(9/28/1998)

Copyright ©1998 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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