[ゆけむり通信 番外1998]

3/26/1998
『ダル・レークの恋』

古きをたずねて満足する?

 1959年初演。故・菊田一夫が宝塚歌劇団のために書き下ろしたという『ダル・レークの恋』
 初演時はいざ知らず、今の目で観れば、ご都合主義としか言いようのない古臭い脚本。40年を経て再演することに、何か意味があるのだろうか。

 舞台はインド、そしてパリ。
 マハ・ラジャ、チャンドラ・クマールの孫娘カマラは、避暑地で騎兵大尉のラッチマンと恋に落ちるが、身分の違いを理由に祖母から反対され、実らぬ恋と納得してラッチマンに愛想づかしを言い、別れる。
 そこに憲兵が現れ、女たらしの詐欺師ラジエンドラがこの地にいるので逮捕せよという通報がパリの国際警察から入ったと告げる。しかも、その詐欺師はラッチマンである、と。
 カマラとのことがラッチマンの口から漏れてスキャンダルになるのを恐れたクマール家の人々は、ラッチマンを呼び戻し、国外に逃れるように頼む。しかし、ラッチマンは開き直り、自分に消えてほしかったらカマラを一夜差し出せ、と言う。家の名誉のため、と、カマラはラッチマンの要求に従い、愛憎半ばする夜を共に過ごす。
 ダル湖の祭り。そこに現れたカマラとラッチマンは、恋人同士のように寄り添い合う。祭りの踊りの輪に加わった2人は楽しげだったが、村人に身分を知られ、カマラは逃げるように去っていく。
 一方、インドの港では、カマラの妹リタが祖父チャンドラ・クマールに、恋人を紹介して婚約を認めさせようとしている。パリから来たペペルというその男は、人当たりはいいが、どこか曰くありげ。
 リタとペペルを伴って、自分の城のあるハイダラバードに戻ったチャンドラは、偶然ラッチマンに出会い、以前助けてもらったことのある彼にペペルのことを相談する。そのペペルという男には以前会っているはずだ、というラッチマンの言葉に苦い記憶をよみがえらせたチャンドラは、トラブル解決のためにラッチマンを城に招く。
 クマール家の人々との苦々しい再会の後、ラッチマンはペペルと会い、リタとの結婚をあきらめろと迫る。そして、ペペルこそラジエンドラだと言うのだった。

 ここまでが第1幕。
 そして第2幕は、7年前のパリから始まる。

 ナイトクラブで言い争っているのは、ベンガルのマハ・ラジャ、ハリラムとその放蕩息子ラッチマン。跡を継げ、継がない、がその内容。
 そこに逃げ込んできたのがチャンドラ。追ってきたのがペペルことラジエンドラ一味。宝石をめぐる詐欺に遭ったチャンドラが支払いを拒んでいるらしい。
 同じインドのマハ・ラジャのよしみでハリラムが手助けを申し出、代わりにラッチマンが、顔なじみのペペルにサイコロ勝負を挑む。賭けるものは、チャンドラがペペルに渡した証書とラッチマンの命。そして見事にラッチマンが勝つ。華麗なイカサマで。
 再びハイダラバードのチャンドラの城。
 すべてが明らかになり、捕らえられたペペル。嘆くリタを慰めながら、カマラは、これからは自分の心に正直に生きようと誓う。クマール家の人々も掌を返したようにカマラとラッチマンの結婚を望む。
 が、すでに軍籍も捨てたラッチマンは、すべてに絶望したかのようにカマラの前から去っていく。
 何年か後、パリに、ラッチマンを探すカマラの姿があった。それを人影に隠れて見送るラッチマンの姿も。

 フィクションだからウソがあってもいい。と言うか、大きなウソがあって初めて面白くなるということもある。けれども、その時に大事なのは、そのウソを支える細部のリアリティだ。それがあって初めて観客は安心してだまされることができる。
 ところが、この作品の場合、ウソだろ、ってことばかりで困ってしまう。

 まず、重要な2つの要素。身分違いの恋、と、ラッチマンの正体。
 厳格なカースト制のインド社会で、後で結婚を反対されるようなマハ・ラジャの孫娘が、身分違いの男と恋仲になるようなことなんてあるのだろうか。
 そのこととも関連するが、実はマハ・ラジャの息子であるラッチマンの正体がわからないなんてことがあるのか。しかも、憲兵が、身分の確認もせずに現役の軍人を逮捕しようとなんてするだろうか。
 この2つのことだけで充分にガックリくるのだが、さらに追い打ちをかけるように、いい加減な展開が相次ぐ。
 ラッチマンが詐欺師だと知って彼を呼び戻すクマール家の人々?
 ラッチマンの要求を呑んでカマラを差し出すクマール家の人々?
 パリで再会したペペルの正体に気づかないチャンドラ?
 城の前で偶然に出会うチャンドラとラッチマン?
 チャンドラが厚い信頼を寄せているラッチマンの正体をクマール家の人々が知らなかった?
 悪漢に追われてマハ・ラジャであるチャンドラがたった1人でナイトクラブに逃げ込んでくる?
 ラッチマンはなぜ軍人になり、なぜそれを簡単に辞める?
 納得のいかないことだらけだ。

 40年前はそれでよかったのかもしれない。ただ、素人の目で見てもこれだけ穴のある脚本が今の時代に通用すると考えるスタッフの考えがわからない(潤色・演出/酒井澄夫)。
 どうしてもこの題材をよみがえらせたかったのなら、無頼の香りを漂わせた主人公のキャラクターと当時のインドという舞台だけは生かして、細部は徹底的に練り直すべきでしょう。
 それとも、菊田“先生”のご本をそんなにいじくるわけにはいかないというのだろうか。
 だいたいプログラムを見ても、スタッフや旧スタッフが、偉大なる菊田“先生”の業績を讃え、その手になる名作を“先生”ゆかり帝国劇場で再演できる喜びを語る、なんてところばかりが目につく。レヴュー・ルネッサンス――温故知新はいいけれど、古いものの古びているところは新しくしてくれなくちゃ。なんだか、古きをたずねることで自己満足してるように見えてしまうんですが。

 ダル湖のほとりで一夜を共にするラッチマンとカマラの甘美なシーンや、いくつかのダンス・ナンバーなど、観るべきところがあるのは確かだが、僕は製作サイドの姿勢に大きな疑問を抱いて、残念ながらこの舞台、楽しめなかった。

(5/23/1998)

Copyright ©1998 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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