[ゆけむり通信 番外1998]

9/24/1998
『ブッダ』

ケレン+カラクリ絵巻

 もちろんこの“音楽劇”『ブッダ』を観に行ったのは、「島田歌穂の出演するステージは可能な限りこれを観なければならない」というミュージカル憲章の定めによるが、脚本/佐藤信、演出/栗山民也というクレジットや、新国立劇場という新しいコヤにも興味がないではなかった。
 そう言えば、つい先日、TVでやってましたね、この舞台。チラッと観ただけなのでわからないけれども、あれで現場の雰囲気がどのくらい伝わるのだろう。あの贅沢とも言える、人と装置の使いっぷり。「さすが“国立”」、という揶揄を含んだ評判も聞こえたが、観客としては大歓迎。ケレンとカラクリのたくさんある舞台は楽しい。
 話はよくわからなかったけれども(笑)。

 新国立“中”劇場のステージは円形。中央は回り舞台になっていて、上下するセリもいくつかある。
 客席に張り出しているステージ前方の弧に沿って、堀のようにオーケストラボックスがあり、それを跨ぐ橋のように左右 2か所に通路が架かっている。ステージの左右の端には廃材のような木で低い櫓が組まれていて、天井からは蔓のようなものが数本垂れ下がり、舞台奥は――。
 なにしろ舞台奥、だ。本来ならホリゾントのある部分の向こうにズドーンと空間が開けていて、河(という字を使いたくなる水量!)が流れているのだ。しかも、そこを舟が流れ、牛が流れ、死体が流れ、ザアザアと雨が降る。

 もうこの装置(美術/堀尾幸男)だけで、大カラクリ、大ケレン。そこに 60人近い役者が登場して、踊り、歌い、演じるわけだから、これは豪華。
 さばく栗山民也の手腕は鮮やかで、ゆったりしたインド風音楽の流れる中、若い女性がロウソクを手に歌舞伎の所作のような動きで現れる思わせぶりな冒頭シーンから、すっかり劇世界に引き込まれる。特に群衆シーンは見応えがあり、不気味にうごめく下層の人々の群れから、殺気あふれる狩りのダンス、様式的だが力強い戦闘シーンまで、充実していた(振付/前田清実、殺陣/渥美博)。
 戦闘シーンで両袖に置かれたドラム缶をパーカッションとして使うアイディアは、音楽担当者(仙波清彦、金子飛鳥)のものだろうか。舞台上に、血を求める祝祭のような気分が立ちこめて面白かった(音楽の質は楽曲の出来も含めて、とても高い)。

 ストーリー書かずにここまで来たけれど、ご理解いただけているでありましょうか(笑)。
 古代インドにシャカ族の王子として生まれたシッダルタの解脱の物語。
 ごくごく簡単に説明すると、そういうことになるのだが(笑)、話がわかりにくくなっている理由は――。
 1)話の中心が主人公の“解脱”なので、抽象的な会話による筋運びが多くなっている。
 2)それを補うために、神の使い= 3匹のサルが狂言回しとして登場するが、彼らの語っていること自体が、これまた抽象的、と言うか暗示的で、理解しにくい。
 3)女盗賊ミゲーラ、下層の男タッタの 2人が中心になるサブストーリーと、シッダルタの話とのつながりが見えにくい。
 等々。
 まあ、ブッダや仏教、インドに関するこちらの知識が決定的に乏しいというのが、それ以前にあるのだけれども。

 それはそれとしてなぜ観ていられたかと言うと、視覚的な面白さももちろんなのだが、前述した女盗賊ミゲーラ(島田歌穂)と下層の男タッタ(手塚とおる)のサブストーリーがせつなくて、気持ちが入り込んだからだ。
 カースト制の最下層にいる夢も希望も持てない 2人が、奇妙な運命のいたずらから出会い、一瞬、愛のようなものを交わし合い。そして、救いを求めるように地平の彼方に消えていく。
 役者 2人の身体の動きが素晴らしく、小手先でない演技に感動した。
 このへん、僕が島田歌穂ファンだからと割り引いて読まないでくださいね(笑)。

 その島田歌穂について言えば、今さらだが、歌のうまさが圧倒的。比べて悪いが、共演の土居裕子とはレヴェルが違った。
 土居裕子は、『マドモアゼル・モーツァルト』『星の王子さま』のような、性別のハッキリしない子供っぽい役でしか生きないのかもしれない。改めてそう思った。

 最後に、アンサンブルの人たちの動きが(ダンスも含めて)非常によかったことを付け加えておく。

 帰り道、プロデューサーがキャメロン・マッキントッシュ Cameron Mackintosh だったら、もっとスペクタクルな要素を強調して大型エンタテインメント・ミュージカルに仕上げるだろうなあ、なんてことをチラッと考えました。それを、やるかやらないかの境って何なんでしょうね。

(2/27/1999)

Copyright ©1999 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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