[ゆけむり通信 番外1997]

5/11/1997
『オオクニヌシ』

軽みを増した演出が冴える

 澤瀉屋、市川猿之助のスーパー歌舞伎第6弾。

 心配だった。
 山口宏子という人の書いた新聞評(5月6日朝日夕刊)に、[スペクタクルは一幕に集中し、二、三幕は重厚なせりふ劇となる]とあったからだ。

 しかし、覚悟して行ったのがかえってよかった。
 なあに、ちっとも[重厚なせりふ劇]なんかじゃない。多少くどいが、さすがの捌き。絵画的な舞台も、シンプルだが美しい。同じ作者(梅原猛)の過去のスーパー歌舞伎作品('86年『ヤマトタケル』、'91年『オグリ』)より“スッキリ”楽しんだ。

 第1幕は再生と成長の章。

 大和の国の従者オオナムチ(後のオオクニヌシ)は、身分も低く、争いを好まぬ性格ゆえに臆病者として蔑まれていたが、出雲の国の女王ヤガミヒメに見初められ、その婿となる。
 それを快く思わないのが、大和の覇者エウタリの弟オトウタリ。2度にわたってオオナムチを殺害するが、1度目は育ての親である沼の婆、2度目は高天原の女神カミムスビの願いがオオナムチを救う。
 カミムスビに力を貸したのは最高位の神アメノミナカヌシ。実はこの2人がオオナムチの実の父母であり、公に出来ない仲であるがゆえに我が子を沼の婆に託したのだった。
 オトウタリの目を逃れて黄泉の国を訪れたオオナムチは、最強の王であるスサノオノミコトに命を狙われるが、これを退け、王の娘スセリヒメと共に地上に戻る。
 この試練で力を付けたオオナムチは、兄エウタリまでも亡き者にして大和を暴力で支配しようとしていたオトウタリを倒し、平和な国造りの第1歩を踏み出すのだった。

 第2幕は別れの章。

 大和の王となって30年。平穏で豊かな国を造り上げたオオナムチは、民衆からオオクニヌシと呼ばれるようになっていた。
 そんな折、オオクニヌシは、オトウタリの出雲侵略で殺されたと思っていたヤガミヒメと再会する。だが、ヤガミヒメは精神を病んでおり、オオクニヌシを見分けられないまま去ってしまう。
 オオクニヌシとの間に4人の子を儲けたスセリヒメも、父スサノオノミコトの病を知り、再び地上に戻ることのかなわぬ黄泉の国へ去っていく。
 そして、漢から漂着した知恵者スクナヒコナ。オオクニヌシの片腕として国家建設に寄与したこの人物も、自分の役目は終わったと、いとま乞いをして1人南海に小舟を漕ぎ出していく。
 そのころ高天原では、天界から降りた筑紫の王ニニギノミコトに日本全土を支配させるべく、オオクニヌシ追い落としの謀略が図られていた。そして、関係を公に出来ないがゆえに、実母カミムスビも実父アメノミナカヌシも、その謀略を黙認することになる。

 第3幕は滅びの章。

 各地に将軍として赴いていたオオクニヌシの息子たちは筑紫軍の急襲を受ける。
 まず安芸で三男タケオサケビが殺され、次いで讃岐で、息子として育てたエウタリの遺児ウタリヒコとその妻になった娘オオヒメが自害に追い込まれる。
 筑紫軍は大和も制圧。オオクニヌシに王の座を降りることを迫る。
 その知らせを受けた出雲の長男コトシロヌシは争いを避けて海に身を投げ、兄弟中唯一戦闘的なタケミナカタは信濃から帰還するが、筑紫の将軍タケミカヅチに一対一の勝負を挑み敗れる。
 もとより戦を好まぬオオクニヌシは、無用な血を流すべきではないと、筑紫軍に言われるまま巨大新宮の用意された出雲に退く。
 しかし、その新宮に住まうことは、筑紫の、ひいては神々の悪辣なやり方に屈服することになる。それを潔しとしないオオクニヌシは、ただ1人残った血族コトシロヌシの子コナムチに、生き延びて自分たちの高い志を後世に伝えていくよう諭し、海中へと去る。

 確かに、スペクタクルは第1幕。

 まず、オオナムチがオトウタリに殺される2つのシーン。
 最初は転がり落ちてくる焼けた大岩に押し潰される。これが、インディ・ジョーンズ風と言うかビッグ・サンダー・マウンテン洞窟風というか、そういう仕掛け。
 次は大木に挟まれる。オトウタリの秘術で大木が真っ二つに裂け、そこにオオナムチを挟む形で元通りに合わさる。
 この辺は人との絡みがほとんどない、装置のみの面白さ。

 黄泉の国でスサノオノミコトに襲われるシーンは怪獣編。
 最初の大ムカデは装置だが、大グモと大ヘビは着ぐるみで、オオナムチとの格闘がある。特にヘビとの絡みは、歌舞伎のルーティンだろうが、なかなか楽しい。

 唯一の宙乗りがオオナムチとスセリヒメの黄泉脱出の道行き、というのも異色。
 マグマの異変に乗じて地上に脱け出すのだが、暗闇の中、昇っていく2人を彩るように場内数箇所から赤いスポットライトと共にキラキラ光るテープが発射され(マグマの噴出)、美しい。馬の宙吊りのような大掛かりな印象はないものの、それがむしろ新鮮で、よかった。

 そして第1幕最後にして最大の見せ場、オトウタリ軍団とオオナムチとの戦闘シーン。
 立ち回りと回り舞台と屋台崩しとを見事に結びつけて、ここはスーパー歌舞伎アクションの集大成的場面だ。

 さて、問題の第2、3幕だが、ここにもスペクタクル的要素が実はある。

 第2幕では、場面転換での上がり下がり。

 オオクニヌシの実子4人と実の子として育てるウタリヒコの子役たちが、舞台やや奥で横に並んでポーズを決めると(見栄を切るというほどじゃない)、彼らは奈落へ下り始める。それと入れ替わるように、少し前のほうから成人した5人の子供が同じようにポーズを決めてせり上がってくる。
 これで20年が経過する。

 スセリヒメが去るところから第2幕終わりまでの連続した登退場の動きは、静的な場面の多いこの幕にメリハリを与えると同時に、立体的な物語の構造を明らかにしている。
 まず、スセリヒメが去る(奈落へ)とオオクニヌシが舞台奥へ移動し、入れ替わるように5人の神々が中央にせり上がってくる。
 神々は、かなりの高さまで上がってから舞台面まで下がり、そこでオオクニヌシ追い落としの評議を行なった後、再び上がっていく。それにシンクロしてオオクニヌシが舞台前方に奈落から登場。オオクニヌシの背後に幕が下り、神々が消える。
 幕前芝居があってから幕が上がると、そこは海岸で、別れの芝居の後スクナヒコナが小船で花道へ去ると、再び神々が背後の高みに登場。神々が、消える直前と同じやりとり(オオクニヌシ排除を決定する)を繰り返すと、袖から筑紫の兵士たちが登場し、威圧するようにオオクニヌシの背後に並んで、幕。

 第3幕の印象はさらに静的だが、芝居としては第2幕より動きがある。
 まず、攻め入る筑紫軍兵士ずらりとそろうのが視覚的にアクセントになっている。
 また、死んでいく子供たち1人1人の見せ場があり、退屈しない。
 中で、ウタリヒコとオオヒメの自害シーンで、オオヒメがウタリヒコの手を取って自らの胸を刺させた瞬間、背後の簾が落ち、夜空に月が浮かび出る、という演出が印象的。
 そして最後に。
 身を投げた海の底でオオクニヌシが、再会した妻や子たちと共に華やかに舞う。この振付が鮮やか。気分としては宝塚のフィナーレ。

 重苦しい舞台になってもおかしくないこの話、軽やかと言ってもいいほどの演出で見事なエンタテインメントに仕上げられた。
 まあ、入水前のオオクニヌシの長口上など、多少うんざりもするが、がまんできないほどではない。

 役者では、スセリヒメを演じた市川春猿。積極的で筋の通った、さばさばしたキャラクターが鮮やかだった。
 いちばん目立ったのは3役を演じた市川團蔵。エキセントリックなオトウタリと、神の1人でとぼけたクニトコタチの、はっきりと過剰な演技が、名演とは言いがたいが面白い。
 同じく3役を演じた市川右近。むずかしいだろう長男コトシロヌシを無難に演じたが、それより策謀家の神タカギノカミの憎めない悪役ぶりが印象に残った。
 市川段四郎の懐の深い演技は相変わらずだが、いつも楽しませてくれる猿弥が一本調子でイマイチだったのは残念。
 そして猿之助は。発言などを聞いていると意識的なのかどうかわからないが、演出同様、演技も軽みが増してきているように思う。スーパー歌舞伎が洗練されてきているということだろう。うれしいことだ。

 鮮やかな衣装と装置デザインは毛利臣男。

 それにしても、このオオクニヌシ、ジョン・レノン John Lennonの「Imagine」を体現したような人だなあ。

(5/13/1997)

Copyright ©1997 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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