[ゆけむり通信 番外1997]

10/5/1997
『レ・ミゼラブル LES MISERABLES』

さらば翻訳ミュージカル!

 サッカーの日本代表チームがワールドカップのアジア予選で思うように勝てない。対戦して勝てないのだから、これはもう言い訳のしようもないし、日本の力のほどは、好不調の差はあれ、だいたいのところは誰の目にも明らかになる。
 それについて、バカ野郎! と言う人もいるし、中には、長い目で見てやろうよと言う人もいる。

 じゃあミュージカルの場合はどうだろう。
 日本初演10周年記念公演で盛り上がっている『レ・ミゼラブル』。世界に比べて、どうなんだ?

 って結論を出す前に、サッカーとミュージカルとを同じように語っていいのかって話がある。
 ミュージカルは、サッカーのような対戦勝負じゃないだろ、って。

 ミュージカルが対戦勝負に見えないのは、同じ土地で同じ演目が上演されることがないからで、なぜそうした事態が起きないかと言えば、上演権を持っている人間なり組織なりがそうさせないから。それは不利益になると判断するからだ。
 もし、東京で2つの『レ・ミゼラブル』が演じられるとすれば、これは立派な対戦勝負で、当然観客は面白い方に行き、面白くない方は客を呼べなくなるだろう。

 では、その2つの内の1つがロンドンあるいはブロードウェイのプロダクションだったらどうだろう。東宝のプロダクションは生き残るのだろうか。日本語による上演だという“利点”を生かして。
 もし、生き残ったとして、日本のミュージカルのレベルもここまで来た、と単純に喜んでいいのだろうか。

 ああ、なんて長い前置き。
 でも、今回の話は、僕がこの Webサイトを、と言うか、それ以前のゆけむり通信というプライヴェート・リポートを書いてきた動機に直接つながるので、どうしてもくどくなる。
 僕がこうしたリポートを書き続けているのは、日本製の面白いオリジナル・ミュージカルを観たいからです。海外の作品についてのリポートでは、そこにある援用できそうなアイディアを具体的に書くよう心がけ、国内の舞台については、いいところはとことん称揚しつつ、僭越ながら、ダメな部分については代案を提出しつつ酷評しています。
 日本のミュージカル製作者がこのサイトを見ているとは思えませんが、そうやって僕なりに日本のミュージカルの可能性について考えているわけです。

 なんてことを言いつつ、なにはともあれ、東宝版『レ・ミゼラブル』の感想を。

 『レ・ミゼラブル』という作品を観るのは2度目で、88年5月13日金曜日以来。なんと9年半ぶり。
 最初に観たのはブロードウェイ版。
 当時の上演劇場は、現在のインペリアル劇場ではなく、今『ミス・サイゴン MISS SAIGON』をやっているブロードウェイ劇場。静かなシーンで地下鉄が通過する音が聞こえてきたのを覚えている。
 舞台の印象は、「とてもよく出来ている」、だった。必ずしも好みではなかったが。僕にとっては、洒落っ気がないこと、そして、とにかくダンスがないことがもの足りなかった。
 そんなわけで、その後繰り返し観ることがなかったが、ジャベールが橋から落ちていくシーンは、そのアイディアに驚き、長く記憶に残った。

 さて、帝国劇場。

 なにはともあれ、当日の主な配役を書いておこう。なにしろ、主要な役のほとんどがダブルあるいはトリプル・キャスト、という驚くべきシステムなのだから(カッコ内は同役を演じる他の役者。ご存知だとは思いますが)。

  • ジャン・バルジャン=滝田栄(鹿賀丈史、山口祐一郎)
  • ジャベール=村井国夫(川崎麻世、加納竜)
  • エポニーヌ=島田歌穂(本田美奈子)
  • ファンテーヌ=鈴木ほのか(岩崎宏美)
  • コゼット=純名里沙(早見優)
  • マリウス=石川禅(石井一孝)
  • テナルディエ=斉藤晴彦(山形ユキオ)
  • テナルディエの妻=夏木マリ(森公美子、前田美波里)
  • アンジョルラス=森田浩貴(岡幸二郎)

 見終わっての感想は、9年前と同じように、よく出来ている、だった。
 観ながら次々に記憶がよみがえってきた。あー、確かにこういうミュージカルだった。見事。
 だが、その見事さは、器の見事さだ。
 見事な器の中で、キャストは熱演してなんとか体裁を整えているが、覆いがたく“歌の弱さ”が露呈される。

 幕開きの囚人たちのコーラス第一声を聴いて、いきなり危惧を抱く。声の音圧が低い。歌が前に出てこない。この印象は最後まで続く。
 さらに、主要登場人物の何人かは技術的にも歌がうまくない。
 正直言って、安心して聴いていられたのは、島田歌穂、鈴木ほのか、司教役の林アキラ。それに、声量が確かな村井国夫を加えてもいい。そのぐらいだ(申し訳ないがアンサンブルにまで目が届いていません)。
 オペラ的にセリフを歌で綴るこのミュージカルで“歌が弱い”のは、致命的ではないのか。
 加えて、日本語詞(岩谷時子、青井陽治)がメロディに乗った時の不自然さ。それも、ミュージカル嫌いの人がやってみせる“不自然なミュージカル”の例そのもののような不自然さ。
 それが随所に表れて、居心地が悪くなる。

 にもかかわらず、舞台は最後まで観客を引きつけ、しかもそれなりの感動すら与える。それは、繰り返し言うように、器――つまり、脚本、音楽、照明、装置、衣装、演出が素晴らしいから。
 要するに、オリジナル・プロダクションのスタッフの力が感動を生んでいるのだ。

 ここで初めの仮定に立ち返って、もしロンドン版あるいはブロードウェイ版の『レ・ミゼラブル』が東京で上演された時のことを考える。
 それでも東宝版は生き残るか?

 案外生き残るのかもしれない、と思う。ヴィデオの吹き替え版の需要があるように。
 あるいは、名前も知らない外国の俳優よりも、TV で知っている俳優を生で観たい、という芸術座的観客だっているだろう。そういう意味では、海外版より団体客を動員しやすいし。
 コアなミュージカル・ファンも、一度くらいは観に行くかもしれない。安い席で。
 そして興行として成り立ち、関係者は、日本のミュージカルのレベルもここまで来たと誇らしく宣言するのかもしれない。

 確かに、お膳立て通りとは言え、ここまで緻密に作られたミュージカルの舞台をこなしていくだけの力が、スタッフ陣にはある。キャストも、“歌の弱さ”に目をつぶれば(!!)、大過なく演じているとは言える。
 けれど、それに何の意味があるのか?
 1963年に故・菊田一夫が『マイ・フェア・レディ MY FAIR LADY』を買い付けて翻訳上演した時代と比べて、どれほどの“進歩”なのか。
 むしろ、一般人の海外渡航がままならなかった時代に、(可能な限り)ホンモノに近いミュージカルを日本の観客に見せて、この地に根付かせようという思いがあっただろう昔の方が、志としては高いんじゃないか。

 そもそも、菊田一夫が戦後初めてブロードウェイ・ミュージカルを翻訳上演したのは、オリジナルでは貧弱なものしかできなかったからだろう。
 翻訳上演は、観客にとってもスタッフにとっても刺激的な冒険だったのだ。
 そして、その先には、当然のごとく、素晴らしいオリジナル・ミュージカルへの夢があったはずだ。

 突然話が飛ぶが、昨夜、赤坂ブリッツでザ・ホーボー・キング・バンド(フィーチャリング佐野元春)のライヴ“アルマジロ日和”を観た。
 ウッドストックで録音してきた新しいアルバムの全曲を、発売前にライヴで聴かせるというユニークな試みで、とても親密な雰囲気の楽しいコンサートだったのだが、幸せな気持ちでそのステージを観ながら、思った。
 全くのコピーからスタートし、試行錯誤(今となってはただ笑うしかない“錯誤”が山のようにあったようですが)を繰り返しながらもオリジナリティを求め続け、日本のロック・ミュージックはここまで来た。ここには、様々な影響を海外の音楽から受けながらも(それは音楽の必然だが)、明らかにワン・アンド・オンリーなものがある。そして、それに僕らは感動する。
 それに引き替え……だ。

 それに引き替え、業界最大手の東宝が、多くの人が海外でオリジナル・プロダクションを観られる時代に、脚色ですらないコピーを十年一日のごとくやっていていいのか。なんか違うんじゃないか。これじゃ、いつまで経っても、日本製の充実したオリジナル・ミュージカルが次々に舞台にかかる日なんて訪れないぞ。
 そう思わずにはいられない。

 オリジナルであれば、多少のキャストの弱さぐらいは目をつぶってもいい。その先に可能性があるから。それなら、長い目で見てやろうという気にもなる(あまり長すぎると困るのですが)。
 けれども、オリジナリティのかけらもない日本版『レ・ミゼラブル』には、思わず、バカ野郎! と言ってしまいそうな僕であります。

 ここで言わずもがなのことを勇み足的に言わせていただければ、『レ・ミゼラブル』の様々なキャストの組み合わせを楽しむのは結構。ミュージカルにはそれぞれの楽しみ方があっていい。けれども、その舞台が本当にいいものかどうかはきちんと判断しようじゃありませんか。サッカーと同じように、世界の水準で。
 それが結局は、ミュージカルを作っている人たちに対して観客がとるべき誠意ある態度になるのだと思うのであります。

(10/18/1997)

Copyright ©1997 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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