[ゆけむり通信 番外1997]

3/24/1997
『エリザベート ELISABETH』

エヴィータを借りてエヴィータを超えたエリザベート

 ウィーン産ミュージカル『エリザベート』の宝塚ヴァージョンが、一路真輝サヨナラ公演として雪組によって東京で演じられたのが昨年6月(宝塚大劇場同年2月)。
 それから1年待たずに、今度は星組による再演が東京にお目見えした(宝塚大劇場昨年11〜12月)。

 時の権力者の妻となり、政治的にもなにがしかの影響を及ぼした実在の女性の半生を、その死から語り始める、という点で、このミュージカルは『エヴィータ EVITA』に実によく似ている。テロリストを狂言回しとして登場させるに至っては、『エヴィータ』から借りたと言う他ない。
 が、『エヴィータ』における起死回生の1曲「Don't Cry for Me Argentina」のような屈指の名曲こそ持たないものの、『エリザベート』は、完成度において『エヴィータ』の上を行っている。
 充分に満足できる仕上がりだ。

 第1幕。
 オーストリア・ハンガリー皇妃エリザベートを刺殺したイタリア人アナーキスト、ルキーニは、事件から100年経った今も、エリザベート殺害の動機を巡って煉獄の法廷で尋問を受けている。彼は言う、皇妃は“死”を愛していたのだ、と。
 その言葉を裏付けるために死者たちが呼び出され、エリザベートの半生が再現される。
 エリザベートが初めて“死”と出会うのは少女の時だ。
 自由闊達な彼女は綱渡りに挑んで失敗し、意識不明となる。エリザベートをそのまま黄泉の国へ連れ去ろうとした“死”=トートは、その生命力にあふれた美しさに魅せられ、命を助ける。そして、いつの日か彼女の愛を得ようと決意する。
 一方、ハプスブルク家では、皇太后ゾフィが若き皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚を画策していた。その相手がエリザベートの姉だったのだが、見合いの席でフランツはエリザベートを見初めてしまう。
 そして、周囲の危惧をよそに二人の結婚式が行われる。
 ハプスブルク家に入ったエリザベートは、伝統と格式を笠に着た姑ゾフィの執拗な干渉に悩まされる。しかも夫のフランツは母に対して優柔不断。
 産んだ子供すら自分で育てられない境遇に悲嘆したエリザベートの前にトートが現れ、誘惑するが、彼女は自分の道を強く生きる覚悟を固める。
 その頃、オーストリア支配下にあったハンガリーでは独立の気運が高まっていた。エリザベートは、自らの美貌によって大衆の心をつかみ、ハンガリー宥和に成功。存在を誇示する。
 しかし、ハンガリーの革命勢力はオーストリア国内に潜入し、相次ぐ戦争で疲弊した市民の不満を煽って、反ハプスブルク感情を高めていく。その中にはなぜかトートの姿も混じっていた。
 宮廷内では、ゾフィとエリザベートとの緊張関係が限界にまで達していた。エリザベートに最後通牒を突きつけられたフランツは、エリザベートに子供の教育権を与えることで、彼女の愛を取り戻そうとするのだった。

 第2幕。
 ハンガリーの自治を認めると同時に自らがハンガリー皇帝として即位するという苦肉の策で独立問題に対処したフランツは、ハンガリーで絶大な人気を得ているエリザベートと共に戴冠式に赴く。
 その頃オーストリアでは、多忙な両親に取り残された息子のルドルフが、孤独な日々を送っていた。そこにトートが現れ、呼んでくれれば“友達”としていつでも来てあげる、と約束する。
 一方、力を失いつつあるゾフィは、エリザベートへの意趣返しに、娼館の女たちを宮殿に引き入れ、フランツを誘惑させる。美貌を保つための過度の運動と節食で倒れたエリザベートに主治医として近づいたトートは、娼婦と共にいるフランツの写真を見せ、彼女に死を迫る。
 しかし、またしてもその誘惑を拒絶したエリザベートは、従者たちを連れて長い旅に出る。
 成長したルドルフは、フランツにハンガリーの真の独立を説くが聞き入れられない。独立勢力と関わっていたルドルフは彼らの後押しでクーデターを謀るが、事前に発覚。フランツの信頼を失ったルドルフは、旅から帰ってきたエリザベートに理解を求めるが、心を閉ざしているエリザベートは彼を受け入れてやることができない。
 絶望したルドルフは、トートに誘われるまま、拳銃で自分の頭を撃ち抜く。
 ルドルフの葬儀の夜、悔やんでも悔やみきれない自分の過ちに、ただ慟哭するエリザベート。現れたトートに、死にたいと言うが、トートは、お前はまだ俺を愛していないと言って去っていく。
 さらに月日は流れ、変わらず旅を続けるエリザベートを、年老いたフランツが訪ねる。戻ってくれと言うフランツに、二人はすれ違うだけだと答えるエリザベート。
 さて、煉獄の法廷も閉廷が間近い。結論を迫る裁判官にルキーニは言う。最後の証人、トート閣下の登場だ、と。
 そして、トートからナイフを受け取るルキーニ。
 レマン湖畔、船に乗るために急ぐエリザベートをルキーニが刺す。すべての苦悩から解き放たれたエリザベートは、自らトートの胸に抱かれ、黄泉へと旅立っていく(『キャッツ CATS』のラストシーンのように)。

 まず、被害者は死にたがっていたんだ、と犯人が主張する。その真偽を確かめるために被害者の半生を追う、という設定がミステリー仕立てで面白い。
 さらに、その黒幕に“死”がいるとなると、被害者がいつ、どうやって“死”に導かれるのか、というサスペンスフルな興味もわく。
 おまけに、家庭内の嫁姑の確執話と、帝国内の独立運動の話が絡み合い、次々に苦難が訪れる果てに息子の死という悲劇が待っている。
 要素としては『風と共に去りぬ GONE WITH THE WIND』に似ていなくもない筋立て。
 本がよくできている、というやつですな。これだけで軽く『エヴィータ』を超えている。

 演出もうまい。

 冒頭、マイケル・ジャクソンの「スリラー」に出てくるゾンビーのように不気味だった死者たちと、生前の華麗な宮廷人との印象の落差。クライマックス前にも同じ演出が繰り返されるが、この変わり具合が、客席と舞台との時間差を実に巧みに埋めている。
 と言うより、観客を一気に舞台の世界へ引き込んで、実に効果的。

 黒子のように漂う黒天使たちの扱いも、生と死の境界線を自由に行き来するトートを見事に表現していて、うまい。
 特に、彼らのダンスは、目立つわけではないが、ミュージカルとしてのこの作品に奥行きを与えている。

 他にも細かいが、結婚式で、この結婚はすべて汝の意志かと聞かれたエリザベートが、はい、と答えると続けて様々な声がこだまのように、はい、はい、はい……と答えたり、ハンガリー皇帝戴冠式で式を司る司祭が実はトートだったりするような、小さくハッとさせるアイディアがいくつかあって、これもうれしい。

 シンプルだが象徴的なセットは必要十分にこの世界を表現しているし、暗い調子のライティングも効果的だ。

 楽曲は、前述したように超名曲はないが、印象に残る曲は多く、水準は高い。まあ、曲調の配分などは、アンドリュー・ロイド・ウェッバーの影響下ではあると思うが。

 さて、役者だ。
 これに関しては、どうしても雪組 (96年6月12日13:00〜東京宝塚劇場)との比較で語らざるを得ない。

 まず、白城あやか。彼女によって、このミュージカルの主役がエリザベートであることが鮮明になった。
 奔放な精神と皇妃という立場の板挟みになりながら自我を貫き通そうとする。考えようによってはかなりエキセントリックな女性を、15歳から62歳までくっきりと演じ通して観客の共感を呼ぶ。エリザベートの物語として一本筋が通った。
 雪組の時は、一路真輝の演じるトートの存在がより大きく、同じストーリーながら、印象としては、エリザベート(花總まり)がトートの手で操られているように見えた。

 そのトートは、麻路さきによって、より人間臭く演じられた。
 一路のトートはまさに魔王のごとく超然としていたが、麻路はエリザベートに魅せられ苦悶する様が生々しく、その結果、白城が浮かび上がったということもある。

 この2役の比重の違いによって、雪と星の『エリザベート』は違う色彩を帯びることになった。
 どちらがどうと言うことはない。トート絶対の従来の宝塚らしい雪組版もよかったし、ウィーン版に近づいたのかとも思えるエリザベート主体の星組版も面白かった。

 これ以上の雪と星の比較は宝塚ファンのみなさんにお任せしたいが、1人だけ、出ずっぱりで難しくはあるが儲け役でもあるルキーニを演じた紫吹淳。
 時に過剰ではあるが、その陰影のある陽気さとでも言うような個性が印象に残った。

 それにしても、こうした舞台でも最後にはラインダンスと大階段で華やかに終わってくれる宝塚の精神。僕は大好きです。

(3/26/1997)

Copyright ©1997 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

previous/next


[HOME]