[ゆけむり通信 番外1997]

4/ 8/1997
『バロンの末裔』『グランド・ベル・フォリー』

がんばれ、宝塚オリジナル・ミュージカル

 月組、久世星佳のサヨナラ公演。

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 第1部は、宝塚スタイルで言えば"正塚晴彦作・演出、ミュージカル・ロマン『バロンの末裔』全18場"。

 うーん、宝塚がオリジナル・ミュージカルを作りつづける姿勢には敬意を払うし、ぜひそうあってほしいと思うのだが、一方で例えば先月の『エリザベート ELISABETH』のような非常によく出来た翻訳ものを上演しているわけだから、観ている側は、オリジナル作品にもそれなりの完成度を求めてしまうわけですよ。
 そうした基準で観ると、脚本、演出、楽曲、どれも弱い。
 新しい時代を迎えるイギリス貴族階級の矜持、という線でもっと絞り込んで全体のトーンを統一すれば、好き嫌いは別にして、作品としてはかっちりしたものに仕上がる可能性はあったのだが、欲張りすぎたのか、やや散漫になった。
 それでも楽しく観ていられたのは、久世星佳をはじめとする出演者のキャラクターの賜だ。

 20世紀初頭のスコットランド。
 ボールトン男爵家の当主ローレンス(久世星佳)は絶望的な気分で手紙を書きながら、華やかだった日々を思い返していた。
 その手紙を受け取ったのは、ローレンスの双子の弟で軍人のエドワード(久世星佳二役)。
 兄が病に倒れたという知らせに急ぎ帰郷しようとするエドワードを捕まえて借金を申し込むのは、ホテルのオーナーになりたいという夢を抱く親友のリチャード(真琴つばさ)。
 緑に囲まれた美しい谷間にある我が家で、エドワードは、執事をはじめとする忠実な召し使いたちと、兄の婚約者で幼なじみのキャサリン(風花舞)に温かく迎えられる。が、床に臥すローレンスから聞いたのは、穀物相場への投機に失敗してボールトン家が破産状態だという事実だった。
 エドワードは、世間知らずな兄をののしりながらも、領地差し押さえの期限延長を求めて銀行へ向かうが、父親から業務を引き継いだばかりの若き頭取ウィリアム(姿月あさと)から、猶予は10日と宣告される。
 帰宅したエドワードを待っていたのは、婚約者と共に借金の直談判にきたリチャード。
 そこに執事たちが顔を出し、ローレンスの投機は会計士ローバックの口車に乗ってのことで、しかもローバックはウィリアムの銀行に出入りしているのだ、と告げる。事情を知ったリチャードは、真相究明の協力を申し出る。
 気晴らしにキジ撃ちに出かけたエドワードは、馬で追ってきたキャサリンに、破産したローレンスとの婚約は破棄するよう説得するが、ローレンスを見捨てるわけにはいかないと言うキャサリン。
 言い争いながらも、秘め続けた恋心を抑え切れず、思わず抱き合ってしまう2人。激情に駆られたキャサリンは、駆け落ちも辞さないと言うが、ローレンスを、そしてキャサリンの将来を慮るエドワードは、お互いを愛しながらもこれまで通りに生きていこうと諭す。
 そこに突然の通り雨。雨宿りに訪ねた家で、かつて屋敷の庭師だったジェラルドに再会したエドワードは、先代当主だった父が家族には黙って村人に与えたという、敷地内に存在する石炭の採掘権の証書を見せられる。
 一方ウィリアムも、石炭の存在を知った自分の父がローバックと組んでボールトン家の土地を手に入れるために画策したことを知り、エドワードに資産の再評価を申し出る。
 事態を理解したエドワードは、ウィリアムに、採掘権を担保に自分のアイディアに投資してくれるよう頼む。
 石炭開発で土地が荒らされるのを恐れたエドワードが考えたアイディアとは、リチャードを支配人に、ボールトン家をホテルとして開放することだった。
 華やかなホテル開業の日、その立役者エドワードはキャサリンに別れを告げ、1人故郷を去っていく。

 見た通りに追っていくと、あらすじはこうなる。
 宝塚の場合、男役のトップ(久世)をメインに、2番手、3番手(真琴、姿月)、娘役トップ(風花)、それぞれにこうして見せ場を作らなくてはならないから、本を書くのにも別の苦労があるだろう。
 ましてや、第2部がレヴューの場合、当然第1部の時間は限られてくる。その中で大人数の出演する1本のミュージカルを、それなりに盛り上げて完結させるのは、考えてみれば至難の業だ。
 したがって、兄の婚約者との道ならぬ恋、と、先祖伝来の土地を守る、という2つのネタを破綻なく1つにまとめた手腕は賞賛されるべきかもしれない。
 しかし、だ。僕はそれでは満足できない。
 恋の方は切実さに乏しかったし、土地の方は説明的すぎた。

 恋の話のポイントは、久世星佳が二役(その必要あり?)で演じたローレンスの描き方にある。
 おそらくは、エドワードとキャサリンとの三角関係という生臭さを消すためだろう、作者は、ローレンスを、やや芝居がかった浮世離れした人間にして、存在感を薄めた。
 おかげで舞台から重苦しさは消えたが、主人公に対する感情移入の手がかりも薄れた。
 ここはやはり、ローレンスを、悪い人間ではないがエドワードに対してあくまで家の当主として権威主義的に振る舞う、という憎まれ役にするべきだろう。そして、彼が、エドワードとキャサリンの秘めた思いを知っていることは、もっと表に出す。
 そんな兄の心の奥を理解して、損な役回りを毅然と引き受ける双子の弟。
 と来れば、誰もが心からエドワードを応援するはず。
 キャサリンがエドワードに突然抱きついても、そうだそうだ!駆け落ちしちゃえ! と無条件に思います。おまけとして、最後の最後に、ローレンスがエドワードに心からの謝罪と感謝をしてみせれば、胸のすくこと請け合い。

 土地の話は、姿月あさとの見せ場を作るためだから多少まどろっこしくても仕方がないが、それでも、エドワードに"偶然"石炭のことを知る機会を与えた割には、解決話はウィリアムの方から持ち込まれる、というのは物足りない。
 だいたいエドワードは、一度ウィリアムに会いに行っただけで、他には何も行動していない。だからよけいに説明的な印象になる。
 税理士のオフィスに忍び込むとか、ウィリアムの父の浮気現場を押さえて自白させるといったアクションがほしかったところだ。

 以上、脚本の話。

 演出――。
 歌も踊りもちょっと唐突。観ている側の感情の流れをコントロールしてほしい。特にこういうオーソドックスな構成の場合は、芝居の途中で急に歌い(踊り)だす、という印象を受けがち。
 ウディ・アレン Woody Allenの新作映画『EVERYONE SAYS I LOVE YOU』のように唐突さをギャグにしてしまうならともかく(これは非常に有効)、ショウ場面への入り方の手法は、ミュージカルにとっての最重要課題の一つでしょう。
 振付にも、もっとアイディアがほしい。

 楽曲――。
 日本のオリジナル・ミュージカルにとっての最大のネックが作曲・作詞の人材不足にあるのでしょうから、多くは望みません。
 だた、せっかくスコットランドなのだから、それらしいメロディや楽器を使う、といった工夫があってもよかったのでは。そうしたことだけでも、ずいぶん作品がふくらむと思う。

 と、ここまで書いてきて、朝日新聞の夕刊(4月14日)を見たら、天野道映という人が、この舞台を[純文学派の作者が書いた良質で、辛口の娯楽作品]として、脚本も音楽も絶賛している。
 人の好みは十人十色〜ォ(from NIAGARA)ってことですな。

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 第2部は『グランド・ベル・フォリー』。パリ・スタイルのレヴューだ。

 ちなみに、天野氏の評は、[伝統にも、新しい感覚にも徹しきれず、端正ではあるが、平板な印象はぬぐいがたい]。
 うーん。確かに新しくはないが、別に平板ってほどじゃなかったけどなあ。
 ただ、場面転換にシャープさが足りなかった、とは思う。"レヴューは場面転換が命"というのが僕の見解。
 作・演出、酒井澄夫。

 でも、宝塚のレヴューは、やってくれるだけでうれしいです。はい。

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 久世星佳。

 さほど熱心な宝塚ファンではない僕が初めて観た宝塚の生の舞台が、ちょうど5年前、93年4月の宝塚大劇場、月組の『グランドホテル GRAND HOTEL The Musical』だった。
 トップ・スターの涼風真世が、オリジナルでは脇役(とは言え演じたマイケル・ジェッター Michael Jeter はトニー賞受賞)にすぎなかったオットーを主役として演じきって見事な舞台に仕上げていたが、そこで印象に残ったのが、当時3番手だった久世星佳のフェリックス。
 もうけ役と言えなくもないが、絶望的な日々の中で小さな幸せの種を見つけたとたんに朽ち果てるように死んでいく没落貴族(男爵!)を、渋く、せつなく演じて光った。
 宝塚、やるじゃないか、そう思わせた。

 宝塚のトップ・スターとしてどういう評価が残るのかは門外漢にはわからないが、あなたの姿は僕の中に深く刻み込まれています(って、ここに書いてどうする)。
 お元気で(だから、ここに書いてどうする?)。

(4/14/1997)

Copyright ©1997 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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