[ゆけむり通信 番外1997]

6/15/1997
『青空 川畑文子物語』

失望を超えて再び期待したい

 期待してたんですが、そんなに簡単に面白い舞台ができるはずないよね。

 そもそも、『青空 川畑文子物語』のことは、ニフティサーブのシアターフォーラムに特別会議室が開設されたことで知った。

 作・脚本は乗越たかお、とその会議室では告知されていた。
 この人が出した「ダンシング・オールライフ 中川三郎物語」は、昨年ミュージカル好きの間で話題になった本だ。戦前渡米してブロードウェイでの成功を果たし、帰国後も第一線で活躍し続けたタップ・ダンサー中川三郎の評伝的小説で、実によく調べてある。ステージ・パフォーマンスに対する人一倍の愛情や理解も伝わってきて、とても楽しく読んだ(乗越氏自身ダンスをやっていた、という記事も見た)。

 そして今度は、川畑文子だ。
 期待して当然だろう。

 以下、この舞台の監修者でもある瀬川昌久著「舶来音楽芸能史 ジャズで踊って」(サイマル出版)によるが――。

 川畑文子。
 1916(大正5)年ハワイ生まれの日系3世。歌と踊りで人気を得、RKOの専属ダンサーとなってアメリカの一流劇場を公演して回る。
 1932(昭和7)年母親と共に来日。レコード録音、劇場公演(日劇こけら落とし公演を含む)、映画出演など、多方面で活躍する。
 1935(昭和10)年一旦アメリカに帰国した後、38(昭和13)年再来日。日劇で帰朝公演を行ない、満州や朝鮮に公演に出るが、39(昭和14)年結婚引退。45(昭和20)年の終戦と共にアメリカに帰った。

 『青空 川畑文子物語』は、この戦前・戦中にセンセーショナルな活躍を見せた希代のエンタテイナーの歩みを、フィクションを交えながらも評伝的に描いたミュージカルなのだろう。
 悪くても『ジョルスン ザ・ミュージカル JOLSON The Musical』、うまく行けば『上海バンスキング』並の作品だってあり得るかも(規模ではなく面白さで)。

 「期待は失望の母」(from NIAGARA)。胸をふくらませた分、落胆も大きかった。
 オープンまで1か月を切った5月15日、ニフティ会議室で乗越氏自ら、脚本のクレジットから外れる、と発言しているのを見た時に、イヤな予感はあったのだが。

 この舞台の問題はいくつかあると思うが、大きいのは脚本とキャスティングだ。

 脚本(Mr. & Mrs. Nakamura =演出・振付の中村龍史&中村留美子)は、ねらいが絞り切れていない。
 ねらいって、別にテーマがどうのという話ではなく、観客をどう導くのかということ。川畑文子の人生という素材から、何を縦糸として引っぱり出して観客の興味を引くのか。

  •  小さな女の子が世界を股にかけて大活躍するようになるまでのスター誕生物語か。
  •  日系米人であるがゆえにアメリカでも日本でもよそ者扱いされた芸能少女の苦悩の物語か。
  •  一度は捨てた自分の夢を娘に託して、夫と別れ、人種の壁を乗り越えて突き進んだ、ヴァイタリティ豊かな文子の“ママ”の物語か。
  •  はたまた、1930年代の日米ショウ・ビジネス世界の風俗を、川畑文子を軸に再現するレヴューか。

 ここで欲張りすぎ、結局、芯のない、平板な印象の舞台になった。
 とにかく、エピソードの描き方がみんな中途半端。それらが絡み合って別の効果を生み出すということもない。
 特に人種的偏見の部分など(アメリカにおいても日本においても)、取って付けたとしか言いようがないほど説明的でアイディアがない。
 ステージ・ママぶりを発揮して文子をスターダムにのし上げる母、という要素もやはり説明的にセリフで表現される。

 猛烈な母とその娘の葛藤を含んだ二人三脚、そして登場しない夫=父。僕は、この人間関係で押せば面白かったと思う。『ジプシー GYPSY』という偉大な先例を待つまでもなく、こうした感情移入しやすい人間ドラマこそが、舞台を支える柱になる。
 第2幕に、夫の訃報を日本で聞いた“ママ”が思い出のラヴソングを1人歌うという、この作品で唯一と言っていい、しっとりした情感をたたえたシーンがある。
 例えば、第1幕で夫を置いてニューヨークへ出ていくところなど、“ママ”の気持ちを夫に対する独白で表現しているが、これを文子に向かって小心者の父を蔑むという形で見せ、その後も父を思い出す文子をとことん叱るという描き方をしておけば、このラヴソングのシーンは名場面になり得たと思う。
 ってことは、思い出のラヴソングの思い出たるゆえんの伏線を、“ママ”が歌手をあきらめるエピソードと絡めて前もって描いておくとさらに効果的になるぞ、という風にふくらんでいく。

 もちろん、これは様々に考えられるアイディアの1つにすぎない。だが、こうして一旦ねらいを絞らないと、脚本は、ふくらむのではなく拡散していく。
 プロの方には釈迦に説法だろうが、取材した多くの情報を、いかに効果的な視点で切り取っていくか。それが大事なんじゃないでしょうか。

 さて、もう一方に、川畑文子を軸にした1930年代のショウ・ビジネス世界の再現、というねらいのつけ方がある。そして、それは試みられている。
 ただし、予算の関係で大がかりな舞台や大勢のアンサンブルは使えない。つまり、豪華さの再現はできない。
 では、どうすればいいか。
 出演者の“芸”を豪華にする。それしかない。なにしろ6人しか出ないのだから。
 ここでキャスティングの問題が出てくる

 川畑文子役の土居裕子。
 元音楽座メイトにして彼女の舞台に魅せられてきた者としてはっきり言うが、ジャズ・ソングが全然歌えていない。それが証拠に、彼女が歌い終えてもスッと反射的には拍手が起きない。ビート感が違う。声もあまり前に出ていない。
 踊りは一生懸命だが、歌と踊りで売り出した主人公を演じる役者としては力が足りない。
 快活な負けず嫌いのキャラクターは生かされたとしても、文子の“芸”の部分で感動させられないとなれば、根本的なミスキャストと言うしかない。

 モト冬樹。小林時夫というダンサーをメインに多数の脇役を演じる。
 初舞台だそうだが、コメディリリーフとして起用したのか。
 全く踊れない。ジャズ・ソングはダメ。
 TVの人なのだと思う。

 安心して観ていられるのは、“ママ”役、諏訪マリーの歌と、文子のダンス・パートナーになる白原石蔵役、本間仁のダンスだけ。
 田中ちなみ(千波ゆう)、岡千絵の熱演も、わずか6人で支えるミュージカルにあっては、やはり物足りないと感じてしまう。

 6人しかいないのなら、6人とも歌って踊れる。それを最低限と考えるのは厳しすぎますか。
 キャストの選択肢は少ないのかもしれない。だとしたら、企画を先送りにする。その間にトレーニングをするのでもいい。
 それが誠意あるプロの態度じゃないですか。
 劇場もキャストも押さえてある。とにかく時間がない。それは作る側の事情。観る側には何の関係もない。

 僕、怒ってますねえ。
 それなりに期待してましたからねえ。
 それに、自分の中の感動の基準を下げちゃったら、ミュージカル好きとしての自分が終わっちゃいますから。

 怒りついでに言いますが、パンフレットに書いてあった脚本家の1人、中村留美子氏の主張は観客に甘えてませんか。
 [観客参加型ミュージカル]は観客への迎合などではなく、[お金を払ったことに対して精一杯のサービス]であり、[一緒に舞台を創るということ]だ、という。
 観客参加型ミュージカルというのは、今回の例で言えば、舞台上の指示に従って観客が劇中のファンや記者を演じる、そういうミュージカルのこと。
 OK、[個人の趣味]を超えて、そういうタイプのミュージカルの存在を認めてもいい。事実、僕も旗を振ったし、歓声(勧声ではなく)も上げた。そこでおたずねしたい。
 観客が具体的に参加していない部分の舞台の不出来は誰の責任になるのだろう。
 [舞台とは、同じ時間、空間、空気をお客様と共有して創り上げるエンターテインメント・娯楽だ]という主張は正しいが、観客に共有感を与えるのは舞台上で演じられているものの力なんじゃないですか。

 フォローするわけではないが、スタッフも出演者も、レヴューやミュージカルに対して大いなる愛情を抱いている人たちだと思う。でなければ、こうした題材を採りあげるはずがない。
 僕自身も、この時代のこうした舞台人たちに興味があり、いろいろな本を読みながら、これをミュージカルにすればどんなに楽しいだろうと思っていた。
 それだけに、今回の仕上がりにはがっかりしたのだ。

 せっかくのジャズ・バンド。せっかくの題材。
 そんなことは不可能なのかもしれないが、じっくり時間をかけて練り直し、再び舞台に登場させてほしい。でなければ、ここまで書いたかいがない。

(6/18/1997)

Copyright ©1997 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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