[ゆけむり通信 番外 2008]

10/29
『シカゴ CHICAGO』

ギャグが伝わらない翻訳上演って?

 翻訳上演を行なう意味ってのは、やる側からすれば、いろいろあるのだろうけれど、観る側からすると、そんなに多くはない。
 個人的には、独自の解釈や演出によりオリジナル版とは“ひと味”違う日本版を作る、ということにしか意味はないと思うのだが、あえて、もう 1つ挙げれば、すでに本国では観られなくなっているから、だろう。さらに、無理やり付け加えれば、どうしても字幕なしで日本語で理解したい、ということになる(ここに、海外に行かないと観られないので翻訳公演でも観たい、というのを加えるかどうかは、僕としては微妙)。
 ま、そんなわけで、ブロードウェイ・リヴァイヴァル版『シカゴ』 10周年記念 CD+ DVDのブックレットに、「2008年に日本語で上演される」という記述があったのを見た時、首をひねった。
 なぜなら、 10周年記念 CD+ DVDのブックレットに書かれているということは、その日本版はブロードウェイ・リヴァイヴァル版に則った上演ということで、つまり、“独自の解釈や演出”はないということだから。さらに、本国では続演中だし、来日公演も複数回行なわれている。となると、その翻訳上演を観る理由は、“どうしても字幕なしで日本語で理解したい”から、ということになる。
 ここで、ぶっちゃけて言ってしまえば、今回の公演、観客の多くは『シカゴ』という演目を目当てに行っているわけではない。少なくとも、それが第一義ではない。その目的は、和央ようかが、米倉涼子が、河村隆一が、『シカゴ』という有名なブロードウェイ・ミュージカルに出演するのを観る、というところにある。そういう意味では、興行的には大当たりの企画ということになる。なので、これから書く意見は、多くの人にとっては瑣末的なことかもしれない、ということをお断りしておく。
 それにしても、元宝塚歌劇のトップスターの動員力と演技力に頼った公演の多いこと多いこと。ま、和央ようかは、その両面で立派に期待に応えていましたが。

 さて、『シカゴ』。競馬で言えば昨日の天皇賞のように最初から最後まで一瞬の隙もない、ダンスと歌とギャグがギュウギュウに詰まって出来上がったミュージカル。
 その内のギャグ部分に最大の問題があった。“どうしても字幕なしで日本語で理解したい”という公演であったとすれば、だが。

 まず、翻訳。
 いろいろある。が、中でも、どう訳すのか一番興味があったのが、ヴェルマの歌「I Can't Do It Alone」に出てくる、「What state's Chicago in?」「Ill!」というやりとり。妹と 2人で舞台に出ていたヴェルマのネタで、妹の「シカゴは何州にある?」という問いかけにヴェルマが「イリノイ州」と答えるのだが、これには二重の意味があり、「シカゴはどんな具合?」「病気!」とも取れる。そういうギャグ。僕の聞いていた限りでは、これ、別のギャグへの振り替えもなしに見事にスルーしていた。
 まあ、この種のギャグの翻訳は、例えば小説であってもむずかしいところだろうし、そこにメロディが付いて限られた語数で対応しなければならない歌詞となると至難の業なのは理解出来る。それに、権利の問題もあって、勝手に他のギャグに振り替えるわけにもいかないのかもしれない。でも、だとすれば日本語で上演する意味って? と思ってしまう。原語で聴き、字幕で意味を捉えたほうがいいのでは? と。
 そもそも歌詞を日本語にする時点で、楽曲作者たちがベストだと考えた語感が崩されているわけで、本当なら、語感と意味、両方の再構築が必要なところなのだ。その点、『クレイジー・フォー・ユー CRAZY FOR YOU』における和田誠の訳詞は実に優れていた。そうした丁寧な仕事に比べると、今回の『シカゴ』の訳詞、並びにセリフの翻訳の仕事は充分とは言えない。

 そして、ギャグに対する演技。
 とにかく、ダンスと歌とがギュウギュウに詰まっているので役者に余裕がなくなっている。なので、ギャグにまで神経が(あるいは練習が)充分に行っていない。キャスティングにおいても、歌って踊れることが第一なので、ギャグ・センスについては二の次だったろう。しかし、この作品における不謹慎なまでのギャグは、ダンスや歌と同等に重要な要素なのだ。そこにも配慮がほしかった。
 ことに、主要 4役の 1つ、ビリー・フリンについてはそうだ。演じた河村隆一は、ミュージカルは初。歌はさすがのうまさで(「We Both Reached For The Gun」での声の長伸ばしもちゃんとこなしていた)、善戦と言っていいだろうが、競馬と違って賭けた馬だけが走ればいいわけではないのが舞台。発声がよく発音も明瞭だが、一本調子のセリフ回しでは、とてもギャグどころではない。日本での最初の翻訳上演で、なぜビリー・フリン役が植木等だったか、製作サイドは理解しているのだろうか。“三百代言”と呼ぶに相応しい、この、どこまでもいい加減で冷徹で貪欲な人物は、『シカゴ』世界を体現しているのであり、その役を演じるには、河村隆一は裏のない好人物(に見え)すぎる。
 とにかく、キャスト全体が、ギャグに対しての反射神経が鋭くない演技だったと言えるだろう。まあ、その背景には翻訳の問題もあり、演出の問題もあるのだが。

 というわけで、幾分、なんだかなあ、な公演ではあったのだが、和央ようかに関しては、観てよかった。
 正直、裸一貫な感じの緊張感がある分、宝塚時代よりいいかも、と思わせた。なにしろ、ヴェルマは、出番が多い上に、 2回のソロ場面(「I Can't Do It Alone」「When Velma Takes The Stand」)の 2回共が全く誤魔化しの利かない、体力と体のキレと激しく動きながら歌う心肺能力とを要求される役だから、並みの覚悟と鍛錬ではこなせないはず。この公演を乗り切った和央ようかは、おそらくワンランク上のミュージカル女優になるだろう。
 ここまで書いてロキシーに触れないのは不自然なので、一応――。一方のロキシーは、ちゃんとやろうとすると、これまた大変な役なのだが、メラニー・グリフィス Melanie Griffith 版が存在したことからもわかるように、実は振付で誤魔化しの余地がある。今回の米倉涼子に関しても、やはりダンス・シーンは若干楽になっていたように見えた。もっとも、メラニー・グリフィスの時ほどではなかったことを、彼女の名誉のために証言しておく。客として、それで満足するわけにはいかないが、善戦の部類だと言っていいだろう。……甘いですか(笑)。

(11/3/2008)

Copyright ©2008 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

[ゆけむり通信 番外2008 INDEX]


[HOME]