[ゆけむり通信 番外 2007]

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『ヘイズ・コード』

新しくも鋭くもないが、軽快で、楽しい

 4年前に宝塚歌劇についてのアンケートを行なった。で、みなさんからていねいなご回答をいただきながら、問いかけをした僕自身は答えない、という失礼なことになったままだったので、遅まきながら、ここで答えさせていただきます。

 まず、初めて観た宝塚歌劇の公演は 1993年 4月の『グランドホテル GRAND HOTEL』『ブロードウェイ・ボーイズ』。東京ではなく宝塚大劇場で観ている。
 実は、この観劇、申し訳ないことに業務だった。当時、ビッグコミックスピリッツという雑誌の編集部に在籍していて、「コミック作家が一番会いたい人に会い、対談をした上で、関連した題材の読み切りマンガを描く」という企画を出し、その一環で、コミック作家の高橋留美子さんと一緒に、雪組トップお披露目公演準備中の一路真輝さんに会いに宝塚に行った(ちなみに、この取材の結果、「宝塚への招待」というコミック作品が生まれた)。その時に歌劇団のご厚意でチケットを確保していただいたのが、公演中だった月組の上記舞台だったのだ。
 実は、それ以前にも個人的に宝塚歌劇を観ようと思ったことはあり、例えば、前年の『柴禁城の落日』は実際に東京公演のチケットを取ろうとした。が、ダメだった。まあ、事情がよくわかっていない人間には宝塚歌劇のチケットは入手が大変なのは今も昔も同じなのだろう。それにしても、と今になって思う。当時は全く認識していなかったが、『グランドホテル GRAND HOTEL』『ブロードウェイ・ボーイズ』は涼風真世のサヨナラ公演であり、それを観ることの出来た僕の宝塚歌劇初観劇は非常にラッキーだったわけだ。
 その公演は、舞台の出来もよかったのだが、それ以上に印象に残っているのが終演後の出来事。舞台上に月組全員が勢揃いして修学旅行の女子高生たちと対面している姿を、広報の方の案内で舞台袖から見せていただいたのだが、対話の後、センターにいた涼風真世が女子高生たちに、あの凛とした声で「ありがとうございました」と言った途端、生徒(役者)全員(つまり、天海祐希も久世星佳も)が一糸乱れず、それに唱和したのだ。これが宝塚のトップスターか、と思ったものだ。

 これまでに宝塚歌劇を何本ぐらい観ているか
 『グランドホテル』『ブロードウェイ・ボーイズ』の後、もちろん、一路真輝トップお披露目の東京公演は観た。その次が、安寿ミラ不在で真矢みきが主演した『ブラック・ジャック』東京公演か。その後、真矢みきがトップになった花組を中心に頻繁に観始め、やがて、東京公演は、東京宝塚劇場のみならず、時には日本青年館公演も観るようになって今日に到る。と言うことは、以前は東京公演が少なめだったことを考えに入れ、 1部+ 2部= 1公演と数えたとしても、 50公演ぐらいは観ているのではないでしょうか。

 宝塚歌劇団の公演作品の魅力とは? その魅力が最もよく表れている作品は?
 歌舞伎を背景に抱えた日本の歌謡ショウ的大衆演劇と欧米のミュージカルの模倣との間を、題材においても手法においても、自在に行ったり来たりしている。それが宝塚歌劇についての僕の認識だ。欧米ミュージカル至上主義的な目で観ると、どっちつかずで野暮ったい、と見えるかもしれないが、その“振れ幅の大きさ”=“懐の深さ”こそが、僕の目には宝塚歌劇のなによりの魅力として映る。
 もちろん、他ではめったに観ることの出来ない大人数による華やかなショウとか、役者(生徒)たちの徹底したサーヴィス精神とか、いろいろと挙げるべき点は他にもあるが、やはり宝塚歌劇の魅力の根本は、どんな素材でも独自のやり方で消化して宝塚色に染め上げてしまう強靭な胃袋にあると思う。ちなみに、宝塚色のキーワードは“エキゾティシズム”。“和モノ”の場合でさえ日本ではない“どこか”にしてしまう“異国情緒”が宝塚歌劇のカラーだ(その辺りにも、どこの国のどの時代かなんてことを気にしない歌舞伎との共通点が見える気がする)。
 そういう意味での代表作として、すぐに思い浮かぶのは、『ノバ・ボサ・ノバ』

 宝塚歌劇団の公演作品の欠点とは? その欠点が最も露わになった作品は?
 宝塚歌劇の最大の弱点は、作家システムにあると思う。“先生”と呼ばれる専属の作家陣によるローテーション執筆の限界。プラス、脚本作家自身が演出を手がけること。
 具体的な役者を念頭に置いて脚本を書くことの出来る専属作家が複数いるのは、もちろん、いいことなのだが、逆に、“先生”たちが“生徒”と呼ばれる役者の魅力に頼った底の浅い脚本を書いてしまうという事態が往々にして起こる。しかも、どんなにひどい本でも“生徒”たちががんばって、それなりの舞台に仕上げてしまうので、大きな問題にならずにすんでしまう。これを解決するには、ダメな脚本を演出でごまかすことのないよう、とりあえずは、脚本家と演出家を別にして厳しい脚本チェックを入れることだと思うが、そうしたことの出来る体質なのかどうか……。
 脚本と演出が同一であることで最悪の出来になったと思うのは、最近では、 2004年 6月に東京宝塚劇場で観た『スサノオ〜創国の魁〜。と言うか、いつも生半可な主張を未消化なままセリフに入れ込む木村信司には、宝塚歌劇座付き作者ならではの甘えを感じて腹が立つ。

 ――と、ここまでが前振り。

 そんなわけで、僕にとっては、時に野暮ったくも見える“振れ幅の大きさ”=“懐の深さ”が宝塚歌劇の魅力なのだが、そう言った舌の根も乾かぬ内に、『ヘイズ・コード』について、「まれに見る洗練ぶりで楽しかった」と書くのをお許しいただきたい(笑)。

 『ヘイズ・コード』の“よき洗練ぶり”のポイントは 2つ。
 1つは、説明しすぎていないこと。もう 1つは、ショウ場面への入り方。

 まずは前者、説明しすぎていないこと、から。
 そもそも、作品タイトルになっているヘイズ・コードについて、劇中では、あまり詳しく説明されない。
 これは、共和党の政治家であり、アメリカ映画制作者配給者協会の会長を 1922年から 1945年にかけて務めたウィリアム・ハリソン・ヘイズ William Harrison Hays(通称ウィル・ヘイズ)が、映画の公序良俗化を目的に 1930年代半ばに設けたキリスト教原理主義の色濃い映画制作倫理規定のことで、同協会内にある映画制作倫理規定管理局が検閲に当たり、その許可を得ない限り同協会に加盟している(つまり主要な)スタジオ系列の映画館での上映が適わなかった。この規定はヘイズ退任後も長くアメリカ映画界に影響を及ぼした。映画に関する本には、“悪名高い”と形容されて出てくることも多い、ある種の悪法だ。
 主人公は、その倫理規定管理局から派遣された検閲のオブザーヴァという設定になっているのだが、にもかかわらず、この倫理規定の政治的・思想的背景についての突っ込んだ説明はない。そういう制度があり、検閲の一例を挙げれば「3秒以上のキス・シーンは NG」であり、この規定に違反すると映画館での上映も NGである、ということがわかるだけだ。
 さらに言えば、主人公が、こうした嫌われ者的な職に就いた理由の 1つが、かつて関わったニューディール期の革新的演劇運動フェデラル・シアター・プロジェクト(ミュージカル『クレイドル・ウィル・ロック CRADLE WILL ROCK』を生んだ。その経緯は同名映画で詳しく描かれている)の頓挫にあった、という設定になっているのだが、これにもチラッとしか触れない。その背後にある、主人公の兄も絡んだ共和党と民主党のせめぎ合いについても詳細は語られない。
 また、ヒロインがブロードウェイのショウ『ジーグフェルド・フォリーズ ZIEGFELD FOLLIES』に常雇いで出ていたジーグフェルド・ガールズの 1人であり、ショウが休みの間、映画会社にまとめて貸し出されている、なんてこともサラッと会話の中に出てくるだけ。
 物語の背景となる、こうした事情を、わかる人にだけわかればいいという風にしか表現しないのは一見乱暴なようにも思えるが、実は、説明されなければ話がわからないという類の設定ではないので、それはそれでかまわない。逆に、詳しく説明しようとすると、例えば、植田紳爾作品にありがちな、脇役たちが突然その場にいない主人公たちについて滔々と語ってしまうような無粋なシーンが生まれかねない。というのも、実は、登場人物たちのプロフィールは劇場で売っているプログラムに書いてあるのだが、それを読んでも、予備知識なしには、そのプロフィールの意味するところがわかるかどうかは怪しい、といった内容だったりするからだ。
 では、最初から、そんな面倒くさい設定にしなければいいかというと、そういうわけでもない。こうした設定があることで、明らかに、人物像に厚みが出来、作品世界に奥行きが生まれている。ことに、荒唐無稽になりがちな宝塚歌劇のコメディの場合、かなり具体的な、ある種の枷(かせ)をこしらえておくことは、ご都合主義に陥らないためにも大切だ。こうした設定がなかったとしたら、ストーリー上重要な役割を果たす、牧師の催眠術なんてものが、ただただバカバカしく思えてしまったに違いない。
 その辺の塩梅が、実にうまくいっていた舞台だった。もっとも、これも、小劇場公演ならではの 2幕通しての作品だからこそなのだが(大劇場公演で通常行なわれる第 1部で完結させなければならない作りでは、ここまでの余裕がないことは想像に難くない)。

 そして、ショウ場面への入り方。
 これは、設定のうまさともつながっているのだが、巧妙で、ワクワクさせられた。
 例えば、主人公が、オブザーヴァを務めている撮影所の役者たちのダンス・パーティに連れてこられて、無理に踊らされるシーン。堅物で、とても踊れないだろう、と思われていた主人公が、挑発されて、やむなくタップシューズでリズムを取り始める。そのリズムを取り始める前に、ちょっと間を置くのが効果を発揮する。
 なにしろ、こっち(観客)は、設定は明かされていないが(直後に説明されるが)、主人公(トップスター)が踊れるのはわかっているわけで、“その時”を今や遅しと待っている。さあダンスが始まるぞ、というミュージカル・ファンとしての気持ちと、周りのみんな(主人公以外)を驚かせてやれ、という感情移入した観客の気持ちの両方に、その“間”が軽くフェイントをかける。そのために、踊り始めた時のワクワク感が増す。
 そうした、オーソドックスながらも効果的なアイディアが随所に見られ、それらがダンス・シーンを楽しいものにしていた。そういう意味では、シャレっ気も含めて、かなり“ブロードウェイ・マナー”に則った作品だった、とも言える。

 というわけで、安蘭けいの、大劇場トップお披露目直前の、実質トップお披露目となる小劇場公演(脚本・演出/大野拓史)は、新しくも鋭くもないが、宝塚歌劇としては、まれに見る洗練ぶりで、軽快で、実に楽しかった。

(9/17/2007)

Copyright ©2007 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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