[ゆけむり通信 番外 2004]

7/24『ミュージカル・イン・ジャパン』
5/31&7/29『ファントム PHANTOM』
8/3『ウエストサイド物語 WEST SIDE STORY』
8/5『マ(ン)マ・ミーア! MAMMA MIA!』
8/12『ピッピ PIPPI』
8/18『ヒムセルフ』
8/25『森は生きている』
8/27『まげもん』

あっちもこっちも翻訳ミュージカル

〜8月(+7月後半)ミュージカル観劇記(上)〜

 8月に観たミュージカルの観劇記。初の月評なので例外的に 7月後半分も含んでいます。
 ただし、ミュージカルではない、新橋演舞場の『七夕名作喜劇まつり』と歌舞伎座の『東海道四谷怪談』は省いてあります。
 では、まず、初めの 4本分から。

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 ミュージカル・カンパニー・オズメイトのプロデュース公演『ミュージカル・イン・ジャパン』は、無料配布されたプログラムによれば、『フォービドゥン・ブロードウェイ FORBIDDEN BROADWAY』に触発されて作られたらしい。それにしては切れ味が鈍い。
 ごぞんじの通り『フォービドゥン・ブロードウェイ』は、劇場を替えながらもオフ・ブロードウェイで長年にわたって上演されてきている“ブロードウェイ・ミュージカルのパロディ・ミュージカル”。パロディとは、元ネタを真似て滑稽に見せる技法。“真似て滑稽に見せる”というのは、対象を理解して批評を加える、ということだ。そして、理解が深く、批評が鋭いほど、滑稽さが増す。切れ味が鈍いのは、理解が浅く批評が鈍いからに他ならない。
 「FORBIDDEN BROADWAY in JAPAN」と題された第 1幕は、 3部構成で、業界の裏話的な内容。第 1部は『マイ・フェア・レディ MY FAIR LADY』のナンバーを使って、大女優のわがままぶりとそれに追随する周囲を揶揄する。第 2部は劇団四季編で、ナンバーは同劇団の翻訳ミュージカル・レパートリーから。第 3部は東宝の『レ・ミゼラブル LES MISERABLE』が対象。「MAN OF LA MANCHA in JAPAN」と題された第 2幕は、ほぼ『ラ・マンチャの男 MAN OF LA MANCHA』にのっとって、閉塞状態にある日本でミュージカルに情熱を燃やし続けることのむずかしさを暗喩の形で表現する(ってことだと思う)。
 切れ味が鈍った理由はいろいろあるが、問題の核心は、日本のミュージカルの現状が輸入翻訳もの主体になっていることに対する疑念が差し挟まれていないことにある。
 そもそも、『フォービドゥン・ブロードウェイ』は、世界最高水準にあるブロードウェイ・オリジナル作品を、お膝元ニューヨークで、その本家本元に劣らない高度なパフォーマンスでからかうから面白いのであって、そうした欧米作品の上演権を買っての翻訳舞台が主流である日本にあっては、元の作品そのものを揶揄することには無理がある。なぜなら、 1つは、当事者(本来の製作者たち)のいないところでとやかく言うのは単なる陰口にすぎず笑えないからであり、もう 1つは、借りた人のことを棚に上げて借りた物にケチをつけるのは筋違いだからだ。かと言って、日本のオリジナル作品を槍玉に挙げようにも、元々数が少ない上に、観客の多くが知っている作品となると、ほとんどないに等しい。となると、もし「FORBIDDEN BROADWAY in JAPAN」をやるのであれば、突っ込みどころは、輸入翻訳ものに頼っている現状、ということにならざるをえない。
 そこを突っ込んでいないので、第 1幕の「FORBIDDEN BROADWAY in JAPAN」は単なる“業界の裏話”にしかならない。
 一方、第 2幕の「MAN OF LA MANCHA in JAPAN」は、パロディと言うより、設定を現代日本に移した『ラ・マンチャの男』の翻案の様相。ただし、作者セルバンテスが語る、という入れ子の外側部分を省いているため、作品が本来持っている自由な表現への希求という本質が薄れてしまった。これなら、全 2幕を使って本格的な翻案にした方がよかったのでは。
 ……というところまで考えて思い当たったのだが、これって、もしかして上演権をクリアしていないからなのか。プログラムに使われたプレイビルのロゴも含め、権利問題が気になった。
 ところで、もう 1つ。
 『フォービドゥン・ブロードウェイ』に準じて、この舞台も男女 2人ずつの 4人によって演じられるのかと思いきや、その他に 8人のアンサンブルが出てくる。しかし、あの舞台(に限らずオフ・ブロードウェイの“あの手”の舞台の多く)は、小人数で入れ替わり立ち替わり、まるで大人数がいるように様々な役を、ある種の早替わりで演じるから面白いのだ。したがって、これは明らかにマイナス。劇団として団員を舞台に出させたいのかもしれないが、それは本末転倒だと思う。
 しかし、こういう小規模な舞台をきちんと作っていこうという製作者、出演者の意欲は、観客としてはうれしい。ピアノ 1台と 4人の出演者がいれば、とてつもなく面白いミュージカルが出来る。『フォービドゥン・ブロードウェイ』から学ぶべき最大のポイントは、そこなのではないだろうか。

 『ファントム』は、宝塚歌劇団宙組の東京公演。
 元になるのは、『ナイン NINE』『グランド・ホテル GRAND HOTEL』(この作品を翻訳上演した縁が今回の上演につながったのか)『タイタニック TITANIC』などのブロードウェイ作品で知られる楽曲作家モーリー・イェストン Maury Yeston による、ガストン・ルルー Gaston Leroux の小説「LE FANTOME DE L'OPERA」のミュージカル化舞台だが、この作品、同題材を扱ったアンドリュー・ロイド・ウェバー Andrew Lloyd Webber 作曲、チャールズ・ハート Charles Hart &リチャード・スティルゴー Richard Stilgoe 作詞の『オペラ座の怪人 THE PHANTOM OF THE OPERA』に先行上演されたこともあり、未だブロードウェイでの上演に到っていない。ただし、 92年録音のプレミア・キャスト盤という CDが出ていて楽曲は聴くことが出来る。
 さて、今回の宝塚宙組版、 5月の末に宝塚まで観に行ったが、その時の簡単な感想はこちらに書いた。繰り返すと――。
 [ストーリー展開と主人公のキャラクター設定にズレがあるように感じたのと、随所にロイド・ウェバー版との視覚的類似が見えるのとが気になった。前者は脚本と演出の練りが足りないということだろう。後者は演出プランに問題あり、なのではないか。  ファントムの周囲に現れるトート・ダンサー(でしたっけ?)のような存在の整合性も、かなり気になる。問題多し。]
 1). [ストーリー展開と主人公のキャラクター設定にズレがある] というのは、神出鬼没で人殺しも厭わない大胆な“怪人”として人々を恐怖に陥れるのにもかかわらず、主人公の素顔が頼りなげで幼児性の強い青年であることを指す。まあ、頼りなげで幼児性の強い青年が人殺しも厭わない大胆な行動に出ることは十分にある得るが、“怪人”は用意周到でもあり、オペラ座の地下を自分の“帝国”に仕立て上げる偏執的な情熱も持っている。そうした、どこか人知を超えた“怪人”ぽさが、主人公から感じられないのだ。
 2). [ロイド・ウェバー版との視覚的類似] の最たるものは、何と言っても、幾本ものロウソクの明かりに照らされた地下湖を行くボートのシーンだろう。原作が同じなればこそ、あえて異なる印象の舞台を作るべきではないだろうか。
 3). [ファントムの周囲に現れるトート・ダンサーのような存在] (宝塚版ではトート・ダンサーではなく黒天使でしたっけ)というのは、主人公の周囲にどこからともなく現れる“従者”たちで、その [整合性] が気になるというのは、彼らがなぜファントムに従うのか、どうやって生存しているのか、といったことが全く説明されないまま(どうやら幻ではなく)現実の存在として登場するのが不可思議に思える、ということだ。
 最大の問題は 1). で、要するに、ロイド・ウェバー版『オペラ座の怪人』に顕著な“あざとい”までのゴシック・ホラー的雰囲気と、主人公を等身大の人間として描こうとするねらいとが、うまく溶け合っていない。これは、宝塚版だからということではなく、元の脚本に内在している問題だろう。
 一方、 2). はともかく、 3). は明らかに宝塚歌劇団ならではの問題。“従者”たちは、明らかに、若手の男役たちの見せ場を作るために誂えられた役だからだ。
 こうしたことに加えて、主役の目線の魅力を強調する宝塚歌劇団にあっては、顔が醜いために仮面をつけて隠すという主人公の設定も半端にせざるを得ないなど、この作品選びが必ずしも的確ではなかったと思われるマイナス点が散見される。
 誤解のないように言うが、別に歌劇団の力が足りないというわけではない。幕開きの 1曲を楽曲作者が新たに書き下ろすなど、宝塚版のための工夫もされているが、根本的なところで、『ファントム』は宝塚歌劇団が本公演で取り上げるのに向いた作品ではなかったということだ。
 ファントム役、和央ようかは、高音を要求される歌唱をよくこなしていた。他には、敵役カルロッタ(出雲綾)の安定した歌唱力が光ったが、ヒロイン、クリスティーヌ(花總まり)よりうまく聴こえるというのは、痛し痒しか。

 1986年以来毎年上演されているという、“プレイゾーン”と題された少年隊のミュージカル・シリーズの新作として登場したのが、レナード・バーンスタイン Leonard Bernstein 作曲、スティーヴン・ソンダイム Stephen Sondheim 作詞の『ウエストサイド物語』
 目当てはマリア役の島田歌穂で、その歌唱には、この役を目指して今年の初めから高音を出すために続けていたという訓練が見事に生きていた。さらに、普通はマリア役は踊らない「Somewhere」のバレエ場面でも東山紀之(トニー役)と共にダンサー陣に交じってセンターで踊るという大活躍。過去の上演を全てを観てきたわけでもないのに、日本のミュージカル史上最高のマリアだと断言したい(笑)。
 おっと、先走りましたか(笑)。
 この舞台で特筆すべきは、装置(松井るみ)。
 舞台上にあるのは天地に長い大きな長方体が 2つだけ。可動式のこの装置、ある面はレンガの壁やハシゴのついたアパートメントの外壁であり、ある面は建物の内部である。建物の内部が見える面は 2階建て構造で、 2階部分はどちらもアパートメントの部屋、 1階部分は一方がマリアとアニタの働くウェディング・ショップ、もう一方がトニーの働くドクの店になっている。で、 1階部分は長方体から抜き出して独立したセットとして使えるようにもなっている。
 詳しく説明するとキリがないが、要するに、この 2つの長方体が様々に組み合わさって(時には舞台袖にはけて)、舞台上が、ビルの谷間のプレイグラウンド、古びたアパートメント、体育館、街角の店、ハイウェイの下、等々に流れるように姿を変えていく。そのスピード感が、過去に観たこの作品に付きまとっていた古臭いもったりした感触を払拭。視覚的にも新鮮だった。
 装置も、基本アイディアは演出家ジョーイ・マクニーリー Joey McKneely のものだろう。見せ所を押さえつつ、テンポのよさも失わない、ダレない『ウエストサイド物語』に仕上がっていた。とにかく、英米の演出家は大芝居をさせないのがいい。ただし、わざわざ 2004年に翻訳上演しなければならない切実さまでは感じられなかったのだが。
 音楽監督、島健のアレンジによる大編成オーケストラの豊かなサウンドが贅沢な気分にしてくれたことも付け加えておく。

 汐留に新しく出来た劇場「海」で上演されている劇団四季の翻訳公演『マ(ン)マ・ミーア!』。タイトルに“(ン)”を付けさせた張本人公演だ(笑)。
 ウェスト・エンド版ブロードウェイ版と観て抱いた感想が、日本語版であることを除けばほぼ完コピ(完全コピー)である四季版で覆るはずもないが、ただ 1つ、ブロードウェイ版観劇記の中に、ここで訂正しておきたい点がある。
 ストーリーの進行状況に当てはまる内容のアバ Abba の楽曲を、前触れの演奏もなしに唐突に歌い始めることについて、 [楽曲の使われ方があまりに強引なので、観ている内に、これはもしかしたら高度なギャグなのかもしれないとさえ思うようになる。] と書いたが、これは僕がわかっていなかった。この楽曲の使い方は、正真正銘のギャグなのだ。
 つまり、前触れなしに聴き馴染みのあるアバの楽曲が歌詞も変えずに歌われる→その内容がとってつけたようにドラマの状況にピタリとはまっていて笑える、そういう構造。そうであれば、アレンジもほとんど変えなかった理由もわかる。その方が、よりおかしいからだ。
 なぜ、それに気づいたかと言うと、翻訳の歌詞では笑えないから。思い出してみると、英米の観客は歌になった瞬間に大笑いしていた。彼らは、劇中で歌われる歌詞がアバが歌っていたものと同じだということを瞬時に理解して面白がったわけだ。ヒアリング能力に限界があり、なおかつアバのレコードなど 1枚も持っていなかったこちとらに、そこまでわかるはずもないのだが、それはともかく、歌詞が日本語になってしまうと、これはもうギャグの構造そのものが崩れるわけで、たとえ観客が英語をよく理解しアバの楽曲に親しんだ人ばかりだとしても、笑いの起こりようがない。
 そういう意味では、日本語版『マ(ン)マ・ミーア!』はサビ抜きの寿司だと言えなくもない。もっとも、元の作品そのものが回転寿司用の寿司なのだが。
 なお、劇団四季独特のセリフ回し“母音法”にまつわる問題については、こちらを読んでみてください。

(10/11/2004)

(下)に続く

Copyright ©2004 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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