[ゆけむり通信 番外 2003]

9/24/2003
『ピュア・ラヴ』

小池修一郎の限界

 『フレディ』を成功に導いた“作曲家”島健のオリジナル・ミュージカル第 2作、という認識が正しい。『ピュア・ラヴ』の話だ。少なくとも僕は、そう思って期待して観た。
 しかし、オリジナル・ミュージカルにとって最大の課題である楽曲作りという点で(作詞を除けば)かなりの線まで行ったにもかかわらず、『ピュア・ラヴ』は失敗作に終わった。
 そもそも、ミュージカルにとって最も重要な要素は一も二もなく楽曲で(楽曲のないミュージカルはありえない)、だからこそ今でも、アーヴィング・バーリン Irving Berlin やコール・ポーター Cole Porter やガーシュウィン兄弟 George & Ira Gershwin やリチャード・ロジャース Richard Rodgers の名を冠して過去の名作ミュージカルが語られるのだ。いささか乱暴に言えば、楽曲さえあればミュージカルは出来る。ある程度の質の楽曲があれば、その他の要素が大したことがなくても、それほどひどい作品になるということはめったにない。それは、例えば、ただ既成曲を並べただけの『マ(ン)マ・ミーア! MAMMA MIA!』を観てもわかる。にもかかわらず、『ピュア・ラヴ』は、ガックリくるような仕上がりだった。
 その責任は、もっぱら、よけいな出しゃばり方をした脚本(兼作詞)・演出の小池修一郎にある。ことに脚本は、独創性がないだけならまだしも、展開が自然さを欠き、時には整合性すらおぼつかない、というヒドい代物。日本で最も才能のあるミュージカル作曲家の 1人、島健の仕事を、すっかり台無しにしてしまった。
 期待していたミュージカル・ファンとして誇張なしに言うが、小池修一郎の罪は重い。

 『ピュア・ラヴ』の原作はシェイクスピア William Shakespeare の『ロミオとジュリエット ROMEO AND JULIET』だ、とプログラムに書いてある。
 舞台となるのは現代日本の芸能界。日本の芸能界を舞台にした『ロミオとジュリエット』と言われて、素人の僕らがまず思いつくのが、「敵対する芸能プロダクションに所属する若い男女が、恋に落ちて、障害を乗り越えようとし、最後に死ぬ」という展開だが、なんと、『ピュア・ラヴ』のストーリーは、そんな素人の予想を超えない。
 人間関係の設定をざっくりと説明すると――。

 香奈(かな)と征樹(まさき)という元夫婦がそれぞれ運営する 2つの芸能プロダクションがある。学生時代から共に“夢”を追ってイヴェント企画やアーティスト・マネージメントをやってきた 2人だったが、所属タレントの澪(みお)と恋愛関係になった征樹が独立。“裏切り”の罪をワルモノになることで背負うかのように、征樹は“夢”を捨て、汚い手を使ってでも“実”をもぎ取って勢力を伸ばしていく。そして、変わらず“夢”を追う香奈は業界の片隅に追いやられていった。……らしい(こうした事情は登場人物の口から語られる)。
 これが、『ロミオとジュリエット』におけるモンタギュー家とキャピュレット家、ということになるのだろう。
 この 2つのプロダクションには、それぞれに、これから売り出そうとしているダンス・グループがいる。香奈の側のグループがマーク率いるマーキュリーズ、征樹の側がジョー率いるスコーピオ。この 2つのグループには、プロダクションの対立を背景としながらも、少し違った位相での因縁があり、やはり対立している。因縁とは、ジョーがかつてはマーキュリーズにいた、ということ。マークがケガで休んでいる間に、ジョーは“敵”のプロダクションに移って新しいグループを作った。つまり、ジョーはマーキュリーズにとっては“裏切り”者なわけ。
 このグループの対立、極めて表面的に、もう 1つの『ロミオとジュリエット』の変奏、『ウエスト・サイド物語 WEST SIDE STORY』の不良グループ、ジェッツとシャークスを思い出させる。
 主人公の男女の設定も、本家『ロミオとジュリエット』より『ウエスト・サイド物語』のトニーとマリアに似ている。
 ロミオにあたるのは、ヴィジュアル・ジョッキー(映像でクラブなどの場を盛り上げる)の純(じゅん)。純はマーキュリーズと組んで活動しているが、香奈のプロダクションに所属しているわけではない。このあたり、『ウエスト・サイド物語』におけるトニーとジェッツの関係に近い(トニーはジェッツの“元”メンバーといった立場)。
 ジュリエットにあたるのは、征樹のプロダクションに所属するタレント候補生の有希(ゆき)。有希はジョーのいとこ。ごぞんじの通り、『ウエスト・サイド物語』では、マリアはシャークスのリーダーの妹だ。
 そして、グループの対立や主人公の男女の設定が『ウエスト・サイド物語』に似ているのを受けるように、ストーリーも、マーキュリーズとスコーピオが対決することになり、ジョーがマークを刺し、止めに入っていた純がジョーを刺し殺す、という風に、全く『ウエスト・サイド物語』をなぞった展開になる。

 ところで、『ロミオとジュリエット』を下敷きにしたストーリーの脚本を作るにあたって最も重要な点は何か。
 若い男女 2人の突発的で激しい恋心と、その後の死に到る展開を、観客に疑問を抱く隙を与えずに畳み込むように見せていく。これではないだろうか。
 『ロミオとジュリエット』にしても、その変奏である『ウエスト・サイド物語』にしても、主人公の若い 2人は“会ったとたんに一目ぼれ”なわけであって、恋に落ちる段取りが説明されるわけではない。しかし、主人公の人格や状況の設定と雰囲気の醸成とで、突然恋に落ちることを納得させてしまう。そして、死に到るまでの彼らの行動も(後者ではヒロインは死なないが)、逃れがたい状況に取り巻かれて若さゆえの思い込みが急激に燃え上がり、立ち止まる間もなく一気に突き進んでいくので、不自然さを感じる余裕が生まれない。
 つまり、“激しい恋”と“重い枷(かせ)”とを観客に納得させさえすれば(“激しい恋”は“重い枷”に従属して生まれるのだが)、後は、その両者の拮抗そのものが、限られた時間の中で劇的な展開になっていくのだということを、過去の 2作は証明しているのだ。

 ところが、その 2作に倣ったはずの『ピュア・ラヴ』の主人公 2人には、“激しい恋”も“重い枷”もない。いや、作者の小池修一郎はそのつもりで描いているのかもしれないが、枷はまるで重くないし、よって、恋も激しくならない。それは、過去の 2作と比べてみれば明らかだ。
 モンタギュー家とキャピュレット家は、当時の住人の感覚からすれば 1つの国と言ってもいい都市の中で対立する 2大勢力。そして、ロミオとジュリエットは、それぞれの家族の 1員。だから、彼らが両家の対立から逃れて結ばれようとすれば、死を賭した亡命(駆け落ち)という行動に到らざるを得ない。
 ジェッツとシャークスの関係は、表面的には不良グループの対立だが、その背後には、生き抜くために肩を寄せ合って他の人種と争わざるを得ない、遅れてきた移民間の対立がある。どちらのグループも WASP主導の社会の中で激しく抑圧されていて、手を結ぶことなど出来ない相談であり、だからこそ、トニーとマリアは、今以上に過酷な人生になるにもかかわらず、自分の属する移民社会を離れて街を抜け出そうとする。
 これらに比べると、香奈と征樹の芸能プロダクションの対立、マーキュリーズとスコーピオの対立など、どれほどのことでもない。もちろん、香奈や征樹、あるいはマークとジョーといった当事者にとってみれば、意地だの恨みだので引き下がるわけにいかないかもしれない。しかし、それとても極めて個人的な感情にすぎない。当事者以外の関係者がその対立の構図から抜け出せないほどの、のっぴきならないシガラミがあるわけではないのだ。
 そんな中で、対立の当事者とは親子でも兄弟でもなく、緊密な共存関係にもない純や有希であってみれば、枷などないに等しい。 2人の結びつきが最も大切だと思うのなら、そこから出ていけばいいだけの話で、出ていくことに伴うリスクも、『ロミオとジュリエット』『ウエスト・サイド物語』の場合に比べれば、ほとんどないと言っていいだろう。
 となると、純と有希の恋も行動も、観客の目には納得のいくものには映らない。結果、ストーリー全体がギクシャクしたものになる。
 脚本の大きなミスだ。

 実は、先に記した人間関係の設定で触れなかった登場人物の中に、“重要な役割”を演じる京介という男がいる。アメリカ帰りだという、征樹のプロダクションの、“謎”の参謀役だ。
 観客の目には何の仕事をしているのか具体的にはまるで見えないのだが、征樹の口から出てくる言葉によれば、京介は、日本で行き詰まっている征樹の最後の希望である香港市場の開拓を任されているらしい。そうしたコネクションがある、ということで征樹の懐に入り込んだのだろう。その一方で京介は、征樹の妻となっている澪と関係を持ち、征樹から実権を奪うことも考えているようだ。そして、いつも傍にいるボディガードは、おおっぴらに拳銃を携帯している。
 なんとも現実味のない男で、なぜこんな人物が出てくるのか訝しく思っていたのだが、後半になって突然、有希に強い興味を持ち始めるに到って、京介の“重要な役割”がようやくわかる。偏執的なこの男の存在がなければ、純と有希を死に到らしめることが出来ないのだ。やたらに拳銃を見せびらかしていたのも、そこに到る“伏線”だったというわけだ。
 具体的に説明すると、純と有希の間を力づくで裂こうとした京介を、純が、京介の持っていた拳銃で撃ち、 2度目の殺人を犯したことに絶望した若い 2人は心中する。
 根本的な設定を間違えて、枷を負わせられず、主人公たちを追い詰めることが出来なくなった。それをなんとか結末まで運ぶために、現実味のない人物を作り出して無理な行動をさせ、つじつまを合わせようとして、よけいに不自然な話にしてしまった。そんな風に見える。

 なぜ、こんな脚本になってしまったのか。原因の一端は、プログラムから読み取れる。
 『ピュア・ラヴ』の原作はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だ、とプログラムに書いてある――と初めの方で述べた。具体的に言うと、表紙と中表紙に「based on Shakespeare's ROMEO and JULIET」、最後のページに「原作 W・シェイクスピア(『ロミオ&ジュリエット』より)」とはっきり書いてある。ところが、なぜか同じプログラムに載っている文章の中で、脚本・演出の小池修一郎自身が、 [「ロミオとジュリエットの現代版・日本版ミュージカル化」を意図しているのではない] と発言している。
 問題の部分を抜き出すと、こうだ。

 [さて、その類まれな才能の持ち主(ミソッパ注/中川晃教のこと)のために何を創るか? 何度も話し合い幾つもの案が浮かんでは消えていった。師走も押し迫り「ロミオみたいなキャラを見てみたい」と口走ったところ、プロデューサーが乗った。ただしあくまで「みたいなキャラ」なのであって「ロミオとジュリエットの現代版・日本版ミュージカル化」を意図しているのではない。ハムレットが悩める青年の代名詞であるように、ロミオは恋に殉ずる青年の代名詞である。で、現代のロミオ・キャラは一体どんな男の子なのだろう? 私の脳裏をよぎったのは、私の住む兵庫県宝塚市で、夜毎駅構内のショーウィンドウでダンスのレッスンに集う若者たちである。(以下略)]

 [ハムレットが…] 以降の文章が、 [「ロミオとジュリエットの現代版・日本版ミュージカル化」を意図しているのではない] という発言の説明になっていないので困るのだが、思いっきり意を汲んで解釈すると次のようなことを言いたいのではないかと思われる。
 ――私(小池)は、『ピュア・ラヴ』を作るにあたって、『ロミオとジュリエット』のロミオのキャラクターをヒントにして現代の日本に生きるロミオの物語を書こうとはしたが、けっして舞台を現代の日本に移し替えた『ロミオとジュリエット』を書こうとしたわけではない。私(小池)の作品『ピュア・ラヴ』には、『ロミオとジュリエット』の改訂版では終わらない独創性があるのである。――
 ともあれ、実際に僕らの目に前に現れた舞台は、“ほぼ”『ロミオとジュリエット』及びその変奏『ウエスト・サイド物語』の焼き直し。そして、先に検証したように、焼き直しでない、つまり小池修一郎が独創性を発揮しようとしたとおぼしい部分が全体をダメにしている。“よけいな出しゃばり方をした”と書くゆえんだ。

 独創性というのは、単なる思いつきからなど生まれない。『ウエスト・サイド物語』『ロミオとジュリエット』の変奏でありながら見事な独創性を獲得したのは、背景に、当時の(今も、か)ニューヨーク(アメリカと言い換えてもいい)における複雑な民族間の対立についての、作者たちの深い認識があったからだ。
 しかるに、『ピュア・ラヴ』の場合、現代日本の芸能界を舞台にした『ロミオとジュリエット』という設定にもかかわらず、ある程度の歴史観があれば当然話が及ぶはずの、韓国や台湾といった周辺諸国出身者の影すら見えないあたりに、作者の社会認識の浅さが表れている。例えば、純と有希が、それぞれ、中国本土と台湾とに別れた中国人の流れを汲む者だという設定を想像すれば、そこには、『ロミオとジュリエット』を下敷きにした、もう 1つの『香港ラプソディー』の姿が浮かんできはしないか。
 あるいは、そうした“社会性”が嫌なのなら、いっそのこと、親兄弟や裏社会絡みの古いシガラミのドラマに仕立てた方が、破綻がなくてよかったかもしれない。古いシガラミのドラマであっても、ディテールに新しさを盛ってやれば、そこそこは観られる作品になったはずだ。ところが、この“ディテールの新しさ”という点でも、小池修一郎は失敗している。ディテールとは文字通りディテールなのであり、なんとなく新しいものを持ってきてもダメなのだ。『ピュア・ラヴ』には、“渋谷”、“クラブ”、“VJ(ヴィジュアル・ジョッキー)”などといった新しげな要素が取り入れられているが、その 1つ 1つに細かな(つまりディテールの)リアリティがないので、かえって陳腐に見えた。言葉遣い、固有名詞、小道具、仕草といった何気ないところにホンモノ感があって初めて、観客もその新しさを受け入れられるのだが、そうした演出が全くない(そもそも、登場人物が「天使」だの「悪魔」だの「罪」だの口走るような舞台に現代的な現実感など求めようもない、とも思うのだが)。あるのは、通り一遍の“ありがちな”紋切り型の新しさだけ。結果、とってつけたような作為だけが強調されることになった。そういう意味では、小池修一郎には、古い構造を新しく見せるための時代感覚もなかったと言っていいだろう。

 結局、小池修一郎という脚本家・演出家は、宝塚と翻訳ミュージカルという、ある種のエキゾティシズムが支配する世界でしか仕事の出来ない人なのだろうと思う。
 しかし、そういう人が自分の資質を見誤って現代的なミュージカルを作ろうとするのに賛同するプロデューサーって、いったい何を考えているのだろう。

 そんな問題の多い作品であるが、島健の作曲した楽曲は、歌い上げるバラードからヒップ・ホップ、レゲエまで曲調は様々ながら、いずれも借り物感のないオリジナリティの高いもので、細かいニュアンスまで神経の行き届いた編曲とあいまって、現代の息吹を感じさせるイキイキしたものになっていた。このままではあまりにもったいないので、別の詞をつけて別の作品で使われるのを聴いてみたいと、僕などは思ってしまう。
 が、そんな貧乏性の観客の心配をよそに、きっと島健は、次の作品ではまた新たな優れた楽曲を聴かせてくれるのだろう。

 こういう惨い失敗作で役者のことを語るのはあまり意味がないが、とりあえず、主演の中川晃教(あきのり)の健闘は称えておこう。演技はともかく、ハイトーンと声量を生かした力強い歌いっぷりで、何はともあれ舞台を支えた。
 しかし、これだけ歌わなければならない舞台なのに、公演が短期間とはいえ連日 2公演というのは、あまりにも出演者の体調を無視したスケジューリングだろう。有希に抜擢された経験のない新人・大和田美帆ともども、ノドは強いと思われる中川も、かなり声が苦しくなっていた。これもプロデューサーの責任だと思う。

(3/13/2004)

Copyright ©2004 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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