[ゆけむり通信 番外 2002]

2/5/2002
『異国の丘』

ノリの悪さがつきまとう体質とは

 劇団四季のミュージカルを観ていて、いつも思うのは、なんかノリが悪いな、ということ。
 (参考までに、僕が過去に観たことのある四季ミュージカルを挙げると、以下の通り。オリジナル・ミュージカル=『ユタと不思議な仲間たち』『夢から醒めた夢』『ドリーミング』『李香蘭』『ソング&ダンス』、翻訳ミュージカル=『ジーザス・クライスト・スーパースター JESUS CHRIST SUPERSTAR』『エヴィータ EVITA』『キャッツ CATS』『オペラ座の怪人 THE PHANTOM OF THE OPERA』『アスペクツ・オブ・ラヴ ASPECTS OF LOVE』『クレイジー・フォー・ユー CRAZY FOR YOU』『壁抜け男 LE PASSE-MURAILLE』
 なぜ“ノリが悪い”と感じるのかを分析すると、演技面で言えば、端正でソツがないけれども演じている喜びが感じられない、そして演出面で言えば、英米のノウハウをよく勉強はしているが血肉化出来ていない、ということになる。さらに言うと、ミュージカルを上演すること自体が目的ではなく、ミュージカル上演が何かの手段になっている、そんな印象を受ける。

 昨年秋にオープンしたオリジナル・ミュージカル『異国の丘』。日中戦争の時代を背景にしている点や、実在の人物をモデルにしている点などが、『李香蘭』と共通している。
 この作品でも、やはり前記の“ノリの悪さ”を感じた。

 とりあえず、ストーリー。

 近衛文麿首相の息子、近衛文隆をモデルにした架空の人物、九重秀隆を主人公とする物語は、大きく 2つに分かれる。
 1つは、秀隆のシベリア抑留の話。第 2次大戦最末期にソ連の捕虜になり、極寒の地シベリアで強制労働に従事させられた元日本兵の中にあって、帰国後の親ソ活動を強いるための拷問にも等しい尋問に耐える秀隆の姿が描かれる。
 物語のもう 1つの部分は、抑留以前。秀隆と、蒋介石の姪にして父も中国高官である愛玲との間に芽生えた愛と、彼ら 2人を中心にした、戦乱の中での知られざる日中和平工作の話。
 この 2つの話が交互に出てくるというのが、ミュージカル『異国の丘』の構成。すなわち、戦後 10年近くも抑留され、親ソ活動を拒否し続けたために、帰国許可が下りた日に命を落とすことになる(という話が冒頭ナレーターによって紹介される)秀隆のシベリアでの話の合間に、それ以前の秀隆の愛玲との話が挿入される、ということだ。
 で、結論を先に言うと、どちらの話も謎や意外性がほとんどなく、興味を引かれる展開にならない。と同時に、この 2つの話には絡み合う要素が全くなく、交互に出てくることで新たな何かが見えてくるということもない。意地悪な言い方をすれば、それぞれの話の面白味のなさを、ぶつ切りにして交互に出すことで目立たなくしたようにも見える。

 もう少し具体的に説明しよう。
 抑留の話は、上記のように、最後に秀隆が帰国が許された日に死んでしまうことが明かされてから始まる。なので、死んで終わるんだな、ということが初めからわかる。
 その結末までの間に起こることは、秀隆が、強制労働に耐え、尋問に耐え、仲間を力づける、本質的にはそれだけ。途中、ニューヨーク留学仲間だった神田が、実はソ連に協力する男として秀隆をろう絡するために現れたり(しかし、たいしたことはしない)、捕虜たちが暴動を起こしそうになったり(しかし、たいしたことにはならない)、死を予感した老齢の捕虜が託す日本の家族への遺言を捕虜仲間全員で覚えたり、といったことはあるが、いずれも平坦なエピソードの羅列にすぎず、そこに伏線と呼べるようなものは全くない。
 一方の愛玲との話はこうだ。 1937年のニューヨーク。留学先の大学でゴルフ部の主将を務めていた秀隆は、試合の祝勝パーティで愛玲と出会う。偶然を装って 2人を出会わせたのは、パーティの主催者フォーゲル夫人と秀隆の恩師ワトソン教授。アメリカ情報部とつながりのある彼らは、アメリカの国益のために、秀隆と愛玲を結びつけて日中和平のきっかけを作りだそうと考えていた。この企てが功を奏して、秀隆と愛玲は、母国が敵対しているという障害を超えて惹かれ合う。日本の侵攻により祖母が危険にさらされるという状況下で愛玲が帰国せざるをえなくなったのを機に、アメリカを離れる時には別れ別れになる 2人だが、アメリカ情報部のさらなる工作もあって、戦況がさらに深刻化する中国大陸で再会。今度は、力を合わせて日中の和平のために動こうと誓い合う。秀隆は父を説得して和平のための親書を入手、愛玲の父を通じて蒋介石に渡す手はずを整えるが、達成直前に愛玲の友人の裏切りに遭い、計画は失敗。愛玲は命を落とす。
 一見いろいろ起こるようだが、実際には、最初の段階で結末が読めて意外性はない。なぜなら、日中の和平交渉がうまくいかなかったことは歴史的事実として僕らは知っているし、なにより秀隆がシベリアに囚われていることが失敗の証左だろう。それに、シベリアの秀隆にとって愛玲が記憶の中の存在であることからして、愛玲が死ぬことも予想がつく。最後に裏切る中国側の“悪役”のキャラクターも薄っぺらで、裏切ることが初めから目に見えている。さらに、大きな障害を超えて愛し合う 2人が惹かれ合う動機づけに説得力がない(仕組まれて出会った 2人は伏線もなく当たり前のようにひと目で惹かれ合う)ため、このラヴ・ストーリー自体がお話のためのお話に見え、まるで感情移入出来ない。ハラハラもドキドキもなしなのだ。
 そして、以上の説明から、この 2つの話にまるで有機的なつながりがないこともわかっていただけるだろう。シベリアの話の中に、愛玲との話の中に出てきた謎を解くカギが出てくる、とかっていうことがあっていいように思うのだが(そうすれば少しは興味を引かれるのだが)、そうした重層的なアイディアは全くないし、前述したように、そもそも謎と呼べるものがない。 2つの話は、神田という友人の登場でかろうじて関わりを持つものの、それ以外の点では、別の人物の人生であるかのように接点がないのだ。

 さて、どうしてこんな風になったのか。以下は僕の邪推。
 この『異国の丘』の製作動機は、スターリン時代のソ連による日本人捕虜のシベリア抑留問題を改めて告発することにあったのではないだろうか。そこで、西木正明の書いたノンフィクション「夢顔さんによろしく」に描かれた近衛文隆に目をつけた。そして、上海にもいたことのある近衛文隆に、密かに日中和平を画策させることにした(この時点で近衛文隆は九重秀隆に変わる)。こうすれば、話もふくらむし、『李香蘭』の中にもあった、中国大陸侵略の影に平和を模索する日本人もいたという主張も出来て、一石二鳥。かつ、そこに、中国人女性との悲劇的な恋愛を持ってくれば、ミュージカルとしての見せ場も作りやすい。政治色も薄まるし。――そういうことではないか。
 そうやって出来あがった、ミュージカルの衣を身にまとった政治的プロパガンダ劇。それが僕の『異国の丘』観だ。

 まずプロパガンダありきなので、ストーリーそのものに面白味がない上に、セリフも説明的になる(そう言えば、歌詞も説明的でうんざり)。ショウ場面は、そうした脚本(浅利慶太・湯川裕光・羽鳥三実広)の欠点を埋めるために使われている感が強い。
 そういう意味では、浅利慶太のミュージカル演出は優秀だ。ショウ場面への転換や装置の使い方など、英米作品のアイディアをよく研究していて、適度のハッタリもありつつ、淀みなく進み、芝居部分のつまらなさをかなり紛らわしている。
 しかし、ショウ場面そのものの演出には疑問が多い。例えば、振付(加藤敬二)の質自体はともかく、アメリカを表現するならダンスをつかっておけというのは発想が硬直しているし、『ザウ・シャルト・ノット THOU SHALT NOT』あたりに触発されたとおぼしいセクシャルなダンスを、唐突に必要のないところで採用するのは、生半可な新しがりの振る舞いで、ダンス表現の深みを理解していない証拠。また、第 1幕の最後、別々にアメリカから帰国していく秀隆と愛玲を、それぞれ可動式の船のセットに乗せて、グルグル動かしながら悲しみのデュエットを歌わせるところなど、歌や演技の内容と演出表現の大げささとが全くかけ離れていて、失笑寸前。とにかく、場面のつなぎのスムーズさとは裏腹に、ショウ場面の演出は必然性に乏しく、とりあえずいろんなところから借りてきました、という感じ。
 そうした脚本や演出の下にあっては、役者も、はつらつとしたミュージカル表現など出来るはずがない。自然、ほどほどの演技をすることになるのだろう。

 ミュージカルをやりたくてミュージカルをやっているわけじゃない。何かを言いたくてミュージカルという表現を使っているのだ。そういう印象がどこまでもつきまとう、劇団四季の新作だった。

(3/21/2002)

Copyright ©2002 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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