[ゆけむり通信 番外2000]

8/18&25/2000
『葉っぱのフレディ』

小さいけれど宝石の輝き

 こちらでお話をうかがった島健さんが音楽を手がけたオリジナル・ミュージカル『葉っぱのフレディ』が、東京グローブ座で幕を開けた。 2日目を観に行ったが、予想以上の素晴らしい出来。 1週間後に見直して、やはり同様の感想を持った。

 “予想以上”というのにはわけがあって、もうバラしちゃっても怒られないと思うが(気づいた人もいるかもしれないが)、島さんがインタビューの最後に、「ホントに具体的な作曲はこれからなんですけど。」っておっしゃってる、これが 6月末の話。てことは、約 1か月半の間に楽曲を作って、練習して、舞台を仕上げたことになる。
 米英のミュージカルに比べて日本のミュージカル舞台の完成度が低くなる理由の 1つに、準備・制作期間の短さがあるが、『葉っぱのフレディ』も充分な準備期間は取れていなかったわけだ。だから、正直な話、大きな期待は抱かずに劇場に向かった。
 もう 1つ。
 原作は短い童話。春に誕生したカエデの葉っぱが、夏、秋を経て、冬の訪れとともに枯れて枝を離れるまでの話。それを、擬人化された葉っぱのフレディとその友達の会話で描いていく。内容は、サブタイトルに“いのちの旅”とあるように、生まれて死んでいくことの意味、といった、ある種哲学的なもの。まあ、輪廻転生ってことかな。
 で、どうも僕にはピンと来ない。いかにも東洋思想に憧れる欧米人が書きそうな童話だなあ、などと思ってしまう、ひねくれた僕です(笑)。それもあって、あまり期待を抱くことが出来なかった。
 そうした僕の予断が、いい意味で裏切られたのだ。いつも言うが、舞台は観なくちゃわからない。

 舞台化にあたって、葉っぱたちは脇に回り、主人公はフレディという名の少年に移し替えられた。
 春。原因不明の病気で入院した少年フレディ。ちょっぴりやんちゃで空想好きの彼は、やはり入院している少年ダニエルを話し相手に、退屈な病院生活を明るく乗り切ろうとしている。
 しかし、治療法もわからないまま、しだいに悪くなるフレディの容態。心配する両親や友達。フレディ自身も不安になってくる。
 そんな時にフレディを励まし、慰めてくれたのは、病室の窓から見えるカエデの葉っぱたちだった。自分や友達の名前をつけたその葉っぱたちは、やがてフレディに、繰り返す生命の不思議を教えてくれるようになる。
 冬。 1枚、また 1枚と散り始める葉っぱたち。フレディを力づけてくれていたダニエルも、葉っぱのダニエルとともに、この世を去っていく。そして、クリスマスが過ぎる頃にはフレディも……。

 このストーリー、 1歩間違えると、説教じみた訓話か、ただのお涙ちょうだいになりかねない。それが、きっちりとまとまった気持ちのいい舞台に仕上がった最大の理由は、少年フレディの魅力的なキャラクター。そして、楽曲・音楽のよさ。

 島田歌穂演じるフレディは、白いベッドの上でゲームボーイに夢中になっているという登場シーンから、無邪気さを残した感受性豊かな少年として、観客の心にスッと入り込んでくる。
 しかし、彼が現実世界の少年のイメージをリアルに反映しているかと言えば、必ずしもそうではない。まず、彼の住む世界には悪意というものがほとんど存在しない。両親には充分に愛されているし、その両親の関係もうまくいっている。同世代間のいじめなどというものもない。とても素直に育ってきている。ある種、フィクションの世界ならではの、純粋培養の少年だ。
 けれども、やはり哲学的な内容を持った、音楽座『リトル・プリンス』『星の王子さま』→音楽座ミュージカル『星の王子さま'98』で土居裕子が作り上げてみせた星の王子が、同じように純粋培養の少年でありながら、あくまで象徴的な存在だったのに比べると、フレディには、普通の男の子としての確かな実在感がある。
 その実在感は、目に見えることで言えば、自分の背の低さを気にして友達と並ぶ時にこっそり背伸びしてみたり、ベッドから落ちて眠りこけていて枕にしていた自分の靴の臭さに目を覚ましたり、看護婦に対してワンパターンの返事を繰り返したり、といった、本筋とは関係のない細かい演技の積み重ねが生み出しているのだが、それは突きつめて言えば、島田歌穂の演技力だ。もちろん、演出家・脚本家(忠の仁)との共同作業であるとは思うが、島田歌穂の芸質に沿って作られており、彼女なしには考えられないキャラクターであることは間違いない。
 実際にはいないが「どこにでもいそう」と思わせる、地に足のついた生き生きした人物造形。これが、『葉っぱのフレディ』を成功に導いた第 1要因。

 もう 1つの成功要因が、楽曲・音楽のよさ。
 まず、楽曲について言えば、メロディ(島健)と詞(山川啓介)がよくこなれていて、歌曲として無理がない。当たり前のことだが、このハードルをクリアしている日本のオリジナル・ミュージカルは実に少ない。で、この作品の楽曲はその段階で留まってはいない。
 ことにメロディ。ヴァリエイションの豊かさ(寂しい「あの子のいない夏」と楽しげな「緑のハーモニー」の組み合わせ)、場面に対する効果(陽気なロックンロール「なぎさでパーティー」の終わりの不協和音)、独立した楽曲としての魅力(チャーミングな「あまやどりのラブ・ソング」、美しい「イブのこもりうた」)――ミュージカルの楽曲に必要な要素を、ほぼ完璧に備えている。しかも、日本のオリジナル・ミュージカルにありがちな、感動させようとしすぎる下品さがない。
 ピアノ+弦楽四重奏という編成の可能性を最大限に引き出した(「なぎさでパーティー」のグルーヴ!)編曲と演奏も見事。カーテンコールの後を、感動の余韻を観客の心に焼き付けるように静かなインストゥルメンタルで締める客出しまで(みんな出ないで聴いているが)、この作品の音楽は、素晴らしいのひと言だ。

 帯状に分かれた半透明の幕の使い方がうまい装置(高田一郎)や、その幕の効果を高めて舞台世界に奥行きを与えた照明(雑賀博文)など、スタッフの仕事ぶりも、レヴェルが高く印象的で、とても 2か月足らずで仕上げたとは思えない出来。
 主人公に比べると脚本での描き込みが浅い脇のキャストたちも、日を経て肉付けがなされていっていたから、再演されれば、さらに練り込まれるのだろう。
 が、あえて注文をつけるとすれば、そうした周辺キャラクターの描き方。ことに、フレディに哲学的な示唆を与える役割を負ったダニエルと、フレディに最も愛情を注ぐ存在である両親が、記号的すぎて物足りない。この辺を煮詰めれば、何度でも再演されうる名作になるだろう。

 幕間なしの約 1時間半。小規模だが、ねらいのしっかりした、オリジナリティの高いミュージカル。小さいけれど宝石の輝きを秘めた舞台。
 見逃した方、再演の際は、ぜひ。

(8/29/2000)

Copyright ©2000 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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