[ゆけむり通信 番外2000]

6/10/2000
『オケピ!』

日本産ミュージカルの大きな一歩

 「人生で起こることは全てここでも起こる」という、『バンド・ワゴン THE BAND WAGON』の「That's Entertainment」と同じフレーズを持つタイトル曲を作ってしまった、三谷幸喜(脚本・作詞・演出)の『オケピ!』。期待を裏切らない出来で、日本のオリジナル・ミュージカルの可能性を大きく広げた。
 以下、ネタバレあり。まだご覧になってない方は要注意。

 あるミュージカル公演のオーケストラ・ピットで起こる、楽団員たちの、てんやわんやの物語。
 ――簡単に言えばそういうことになる『オケピ!』のよさは、いろいろある。ミュージカル上演時間中のオーケストラ・ピットという限定された空間を舞台にするという設定。細かいギャグやアイディアのつまった脚本。個性豊かで実力のある役者……。
 しかし、なにはともあれ、日本のオリジナル・ミュージカルにとって重要な“ミュージカルに対する批評性”を、『オケピ!』がしっかりと持っていることについて語りたい。

 “ミュージカルに対する批評性”。これは、日本のオリジナル・ミュージカルにとって不可欠な要素だ。
 なぜなら、日本のミュージカルは模倣から始まっていて、なおかつその域を脱していないから。どんな分野でも、模倣から出発して独自性を獲得するまでの間には、必ず模倣したものに対する批評精神が必要になる。
 劇団四季や東宝のオリジナル・ミュージカルがいつまでも欧米の作品の焼き直しでしかありえないのは、よりうまく模倣しようとするだけで批評精神に乏しいからであり、宝塚が作品によってはそれなりに独自性を生み出しているのは、劇団の特殊性が必然的に“スタイルの改変”を求めるからだ。今回の東宝『エリザベート ELISABETH』を観て、そのことを再確認したという話は、またそちらで。

 さて、『オケピ!』の“ミュージカルに対する批評性”には次の 2通りがある。

 1). ミュージカルという表現形態に対する批評性。
 2). 日本のミュージカルの現状に対する批評性。

 1). の典型的な例は、トランペッター役の歌う「くたばれミュージカル」というナンバー。
 タイトル通りミュージカルが嫌いという内容の歌をミュージカルの中で歌う。ミュージカル内ミュージカル批判。
 これ自体は目新しいことではなく、例えば、 1993年 1月にオフ・ブロードウェイで観たミュージカル『ルースレス! RUTHLESS!』の中には、ズバリ「I Hate Musicals」というナンバーがあった。 3代にわたるミュージカル女優一家の物語をミステリ・コメディに仕立てたこの作品は、『オケピ!』同様ある種のバックステージもので、「I Hate Musicals」は、主人公一家と親しいベテラン演劇評論家(女性)によって歌われるミュージカルこきおろしの歌だ。この評論家のミュージカル嫌いは徹底していて、ある名ミュージカル女優を酷評の末、自殺に追い込んだという過去を持つ(笑)。
 別にタモリに言われるまでもなく、ミュージカルというのは不自然な表現なのであり、中には、歌って踊ってという行為に意味がないと思う人もいる。日本のみならず、本場アメリカでも、そう感じる人は感じるということを、「I Hate Musicals」は示している(だからタモリの発言にいちいち目くじらを立てることはないのですよ)。
 しかし、ここで重要なのは、この日米 2つの反ミュージカル讃歌が、どちらもオーソドックスなミュージカル・ナンバーのスタイルを採っているということ。批判するために自らが批判するスタイルを借りる、という自己矛盾を抱えた反ミュージカル讃歌は、倒錯してはいるが実は紛れもないミュージカル讃歌であり、歌詞であげつらうミュージカル表現の不自然さこそが実はミュージカルの魅力なのだと、反語的に主張しているに等しい(オフの名物『フォービドゥン・ブロードウェイ FORBIDDEN BROADWAY』シリーズにも、そうした裏返しの主張がある)。
 こうした反語的主張という手法は、ミュージカルという表現形態に対する批評なしには生まれない。なぜ歌い、なぜ踊るのか。あるいは、どう歌い、どう踊るのか。それに自覚的な者だけが、「変だけど素晴らしい」という言い方をすることが出来る。
 逆に、表現形態についての批評なしに作られるミュージカルは、過去の作品の表現を“無自覚に”模倣するしかない。
 例えば、劇団四季『李香蘭』の「月月火水木金金」というナンバー。日本の軍部が台頭していくのを抽象的に表現するために用意されたのは、能天気な軍歌をバックにした、バズビー・バークリー Busby Berkeley ばりの集団ダンス・シーン!! 念のため断っておくが、ギャグじゃない。
 独創的だと言えなくもないが(笑)、歌ったり踊ったりすることに自覚的であれば生まれようのない、ズレた発想だ。
 話を『オケピ!』に戻せば、表現形態への意識は、歌=モノローグという形で表れる。先の「くたばれミュージカル」はじめショウ・ナンバーの大半が、通常の会話から自然に歌に移るというスタイルを採らず、歌う人物のモノローグとして書かれているのだ。
 その初期的な理由は、会話→歌という表現に対する違和感だったと思うが、ここで作者はさらに 1歩踏み込み、モノローグ=歌というヘタをすれば消極的になりかねない手法を、攻撃的にエスカレートさせる。モノローグ=歌による別世界を作りだした上で、その(歌い手の)個人的な世界に、コーラスやダンスという形で別の登場人物を入り込ませていくのだ。
 例えば、「くたばれミュージカル」の場合、“くたばれ”というのはミュージカルに対して斜に構えたトランペッターの個人的な見解にすぎないのだが、そう主張するモノローグ(歌)に、なぜか、意見の違う他の楽団員たちが加わったりする。モノローグそのものが舞台における嘘なのだから、歌によるモノローグは輪をかけた嘘。それに他人が歌や踊りで参加するとなれば、これはもう大嘘。
 こうした手法もこれまでにないわけではなく、ミュージカルの不自然さを逆手にとったギャグとして、コミカルなナンバーで使われてきた。しかし、『オケピ!』では、この大嘘のミュージカル的表現が徹底的に使われる。
 と言うのは、コメディとしての『オケピ!』の面白さが現実ドラマとモノローグ(つまり表面と本音)との落差にあるからで、モノローグ部分をミュージカル的表現によって際立たせるのは、作劇上、充分に意味のあることなのだ。モノローグを大嘘のミュージカル的表現にしたことで、より面白さが増したと言ってもいいだろう。
 『オケピ!』のミュージカル表現に“借りもの感”がないのは、実にこうした理由による。
 ミュージカルという表現形態に対する批評性を持って臨んだ結果獲得した、効果的で意味のあるミュージカル表現。オリジナル・ミュージカル『オケピ!』の、最大の成果はここにある。

 2). の“日本のミュージカルの現状に対する批評性”は、次のように表れる。
 批評性と言うより、はっきり言って批判なのだが、まずは、冒頭に登場する指揮者(=狂言回し)が観客に向かって軽く前振りする。
 この指揮者、元々グチっぽいのだが、翻訳もの中心の日本の現状について語っている内に自分の職場に対するグチになり、このオケピの“上の舞台”で上演されているのは、翻訳ものの中でも最低の部類に属する不出来な作品だとクサす。なぜこんなものを高い金を出して買ってくるのかわからない、とまで言ってしまう。
 ドラマが進むにつれ、その背後には、主演女優の人気にオンブした興行主体の行き当たりばったりで優柔不断な体質があることがわかってくる。同時に、その犠牲になっているのがオケピに陣取るミュージシャンたちだ、という構図も見えてくる。
 アーティストであるにもかかわらず、表舞台に出られず、女優のわがままにつきあわされて大変な思いをする。しかし、不満を口にしながらも、最終的には妥協せざるをえない楽団員たち。
 そんな彼らの姿に、この日エキストラで入ったパーカッションの学生は幻滅を感じ、憧れていたミュージカルの現場に疑問を抱く。それが高じて演奏ミスを犯す。
 それを慰め、諭すようにベテラン・メンバーたちが毅然として歌うナンバーが、「俺たちはサルじゃない」。前述の「くたばれミュージカル」と対をなす、自己批評を含んだ、この作品の核になる楽曲だ。
 タイトルは開幕前や幕間にオケピをのぞく観客に対する楽団員の抗議の言葉で(幕間の後だけによけい笑える)、この場所は自分たちの神聖な職場であって動物園の猿山ではない、自分たちは見せ物になる猿じゃないんだ、という意味の歌詞を持つ。これを、『レ・ミゼラブル LES MISERABLES』の革命の歌のように高らかに歌うのがおかしいのだが、そのおかしさの裏に、どんな状況にあっても誇りを失うなと学生に教えながら、自分たち自身をも鼓舞している、楽団員たちの屈折した自尊心が透けて見える。そしてもちろん、その先に、彼らを屈折させる日本のミュージカルの現状に対する婉曲的(でもないか?)な批判がある。
 ミュージカルなればこその重層的表現だが、『オケピ!』における日本ミュージカル批判の視線は、必ずこうして具体的な現場(=オケピのミュージシャン)に置かれている。そこが見事なところだ。
 理想とはほど遠い状況にあって、忸怩たる思いで現実と折り合いをつけながらも、ミュージカルに対する夢を捨てきれずに現場に留まるミュージシャン。そんな連中の口から出る批判は、的確なものばかりではなく、時には自分のことを棚に上げた筋が通らないものだったり、ほとんどグチに等しい情けないものだったりもするが、根拠はわかるし、その裏に愛情を感じるので、観客は思わず納得してしまう。そうした様々なレヴェルの、細かい批判の総体が、実は『オケピ!』の“日本のミュージカルの現状に対する批評性”を形作っていて、ひと言で言えないがゆえの説得力を持って観客の胸に浸透していく。
 で、最後に観客はこう思う。
 「いやあ、いろいろ問題を抱えながらも、この連中(オケピのミュージシャンたち)、よくやったよ。こんなに素晴らしいミュージカルを作ったじゃない!」
 劇中ミュージカルと現実のミュージカル(『オケピ!』)とが、観客の心の中で 1つになるのだ。
 実際、(スタッフも含めて)彼らはよくやった。間違いなく、日本のオリジナル・ミュージカルがこれまで越えられないで来たハードルを 1つ乗り越えた。
 そして、乗り越えるために、作品内で日本ミュージカル批判をすることが必要だったのだと僕は考える。観客に考えさせるだけでなく、関わる人々の創作動機を束ねるための具体的な日本ミュージカル批判。不満の表明ではなく、建設的な目標を持った現状分析。それをギャグの形で脚本に書くことで、三谷幸喜はキャストやスタッフに自覚させ、それを乗り越える志を持たせた。もちろん話し合いも行なったと思うが、それ以上に、演じながらギャグとして批判するという、ひとひねりした行為が、このカンパニーに強い批評精神を植えつけ、乗り越えるべき問題の意識化を促したはずだ。

 深読みしすぎでしょうか(笑)。
 ともあれ、『オケピ!』のカンパニーは、ミュージカルという表現形態に対する批評性によって手法の壁を突破し、日本のミュージカルの現状に対する批評性によって高い志を獲得した。

 長くなったが(笑)、役者のことには簡単に触れておきたい。
 栄光のオリジナル・キャストを担ったのは次の 13人(プログラムのビリング順)。
 真田広之(指揮)、松たか子(ハープ)、川平慈英(ギター)、戸田恵子(ヴァイオリン)、伊原剛志(トランペット)、白井晃(サックス他)、小日向文世(ピアノ)、北川潤(ファゴット)、山本耕史(パーカッション)、宮地雅子(チェロ)、小林隆(ヴィオラ)、菊池均也(ドラムス)、布施明(オーボエ)。
 当て書きしたとおぼしく、みんな適役だが、中でやはり、真田広之が素晴らしい。全ての役者が彼のように肉体を鍛えたら、日本の演劇世界のレヴェルが 1段上がるだろう。『コンタクト CONTACT』の第 3部に出たら、間違いなくボイド・ゲインズ Boyd Gaines を凌ぐ。
 松たか子も、最初に『ラ・マンチャの男 MAN OF LA MANCHA』に出た頃に比べると格段の進歩。歌もうまくなり、女優としての幅も広がった。これまでのイメージを逆利用しているだけに、彼女でなければ成功しなかった役。
 そして、布施明。カッコいいんだか悪いんだかわからない役ながら、結局は錨(いかり)のように、歌のうまさで舞台全体を支えていた。

 さて最後に、絶賛であることを前提に、いくつか注文を書いておく。

 1). 楽曲の整理。
 何曲かカットしないと、ミュージカル・コメディとしては上演時間が長すぎる。あと、最後の「サバの缶詰」から「ただひとつの歌」のあたりは、一気呵成になだれ込んでフィニッシュしてくれると、もっと気持ちいい。
 2). 詞の練り直し。
 意味だけでなく、音としても面白い詞を目指してほしい。
 3). 振付の徹底。
 川平慈英が興奮して“上の舞台”に上がった時の動きにアイディアがほしい。それとは別の場面で、“上の舞台”の動きとのシンクロが見られたが、これにもさらなるアイディアを。

 ――とまあ書いて、火曜日にもう 1度観ます。印象が変わるかどうか、楽しみ。
 前回、 7列目のセンターというベスト・ポジションだったにもかかわらず、音響がよくなかった。改善されててほしいですね。

(6/25/2000)

Copyright ©2000 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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