それゲキ・アンケート篇


第 6回
翻訳ミュージカルの功罪
(中編)

 “翻訳ミュージカルについて考えよう”アンケート回答の中編です。

 ●そらさんの場合。

 [質問 2]

 舞台作品の翻訳は難しい。
 その真意を伝えることができるかどうかは作品の要点をクリアに伝えられるかにかかってる、と思う。文化背景や宗教観の異なる国で作品を上演するというのは、おのずとどこか無理がでてきて、受け取り手が違うわけだから、当然意味あいがずれる。正確さ、の追求は難しい……と思う。
 結局、その作品の本当に伝えたいものが日本語に訳す段階(または場合によっては演出によって)壊れてしまう危険性は高い。だから例えば、舞台ではなく、映画などは字幕スーパーがほとんどなのだと思う(吹き替えより字幕が断然多い!)。
 全部を訳すのではなく、話についていくために必要な程度の要約を観客に与えてあとは役者の芝居に委ねる。
 ミュージカルは譜面が決まっている分、訳すのは映画よりも難しいかもしれない。ならば、なおいっそう字幕スーパーという手もあるのではないか? と思う(オペラでは字幕はよく使われると聞くが……)。
 それは、外国のいい作品を翻訳して上演するのではなく、(金銭的な問題や著作権にからむ難問もあるかもしれないが)アメリカやロンドンからの来日公演を増やし本場の作品を日本の観客にどんどん見せてほしい!という意見につながる。本当に良いものに触れるチャンスを増やしてほしい!!! それも生来の原語で……。
 言葉がわからなくても通じるエネルギーとか“何か”は存在すると思う。下手に訳せばせっかくの素晴らしい作品のよさが半減する事もあるんだから……。
 翻訳上演されなければ、その作品に一生触れることができなかったかもしれない……と考えるとどんな形でもその作品の持つ素晴らしい音楽やストーリーを知る事ができて、幸せってことにもなるのだろうけど、作品が素晴らしいのに翻訳などでその魅力を少し歪ませたような気がするのは……『オペラ座の怪人』
 大好きな作品だし音楽は素晴らしく初めて日本で観た時、感動のあまり、家に帰ってからも暫くあの甘美な音楽が頭をぐるぐる回り、心もオペラ座の地下室から抜け出すには相当時間がかかった。でもブロードウェイ版を見た時に、私が日本で見たのと話が違うと思ってしまった(自分が観た配役の問題もあるでしょうけど……)。
 日本版では怪人が父性愛に近い感情をクリスティーンに対して抱いいて、全体的に優しすぎる。またラウルは若く美しく清い好青年過ぎて、あれでは女性がラウルに魅力を感じ惹かれても全く不思議はない。もっと怪人の哀れみとか、作品や音楽自体がもっているセクシーさを出しても良いのではないかと思った。
 でも日本の舞台ではそんなセクシーさは受け入れられない、と言う考え方ももちろんあるだろうと思う。確かに日本版は全体的にはセクシーさを前面に出さない演出になっている。
 だが、それにもかかわらず、なぜか最後だけ、クリスティーンは「♪今見せてあげる〜♪“女”の心〜」と歌う。変更されて初めて聞いた時は、引いてしまった……(苦笑)。唐突でやりすぎだと思った。その一言で、作品に違和感を生じさせると思った。
 クリスティーンの“女”の部分を感じさせない演出なら(それが作品を正しく紹介する方法かどうかは別として)最後までそれを貫くべきだと思った。中途半端に控えめな訳で作品をキレイに仕上げながら、最後だけクリスティーンの“女”の部分を前面に出したらいやらしい感じが私にはした。
 訳詞が嫌だったなぁ、と思いながら劇場を出るのはやっぱり残念だと私は思う。
 作品のよさが全部生きていないなら翻訳作品の上演は反対!という意見も極端だろう。大切なのは日本語に訳す時に作品のメッセージを歪ませてないかをよく吟味して 考えたうえで上演する事。英語で聞いた時アメリカ人が頭に思い描く「色」と、その同じ歌を日本語で日本人が聞いた時、思い描く「色」が同じであったらいい詞だな……と思う。
 その点では、ディズニー作品の日本語上演は比較的、成功しているかもしれない(が、そこにも変な訳詞が含まれている……)。  その話はまた、別に機会に……(笑)。

 ●まつやまさんの場合。

 [質問 1]

 翻訳ミュージカル――くやしいけれど肯定です。
 四季の『コーラスライン』を観ました。映画でもあるようですが観てません。何の予備知識も無く観た『コーラスライン』は、内容も日本語なのでもちろんよくわかり、歌もダンスも感動しました。でもこれが英語だったら、まず内容は理解できないでしょう。歌とダンスがどんなにすばらしくても内容がわからなかったら、それは舞台の上でのお祭りにすぎなかったと思います。熱気みたいなものが伝わってくるのはわかるでしょうが。そうなるとやはりミュージカルを観た、楽しんだとは言えそうにないです。
 一方、妹の場合は、何人かの方が書いていたように訳詞は“日本語に訳すと興ざめする”そうで、『オペラ座の怪人』『クレイジー・フォー・ユー』『キャッツ CATS』『コーラスライン』他をオリジナル版やブロードウェーキャスト版、ロンドンキャスト版で聴いています。でも内容は日本語で理解してるようです。
 こうする気持ちもとってもよくわかるので、英語がわからない私としては、くやしいけど肯定です。

 ●あゆみさんの場合。

 [質問 1 & 2]

 私は小学生から高校一年まで兵庫県に住んでいたため、宝塚がとても身近で、私のミュージカル好きの基礎は宝塚で培われました。
 宝塚は自作もののほかにたまに海外のミュージカルを翻訳上演しますよね。私が初めて体験した海外ミュージカルは大地真央さんの『ガイズ・アンド・ドールズ GUYS AND DOLLS』だったと思います。それから『ミー・アンド・マイ・ガール ME AND MY GIRL』『キス・ミー・ケイト KISS ME, KATE』など……。
 その頃は子供ながら、いつもの宝塚とは雰囲気の違う、おもしろくてバラエティに富んでいて、ダンスと歌の流れるような展開にわくわくしました。
 ここまでは超肯定的です。

 その後東京へ移り、宝塚と疎遠になるのとほぼ同時に、初めていわゆる本場の引越し公演、招聘ミュージカルとして『ジェローム・ロビンズ・ブロードウェイ JEROME ROBBINS' BROADWAY』を観ました。出演者のパワフルで感情表現豊かな、文字通りの SONG & DANCEに圧倒されました。
 私の第一次転換期です。
 その頃ちょうど NHK衛星放送で、トニー賞に合わせてブロードウエイの特集をやったと思うんですが、それもあって私の目は海外に向けられるようになりました。
 その頃はバブル、優秀な作品が優秀な出演者と共にたくさん来日しましたよね。まだ自由に使えるお金を持っていなかった私も、『グランド・ホテル GRAND HOTEL』『秘密の花園 THE SECRET GARDEN』『ガイズ・アンド・ドールズ』などの本場の舞台を味わい、いつかはロンドンやニューヨークで本物の(この本物の意味合いは曖昧ですが……)ミュージカルを観たい!という夢が膨らんでいきます。
 そしてその頃盛んだったロンドン・ミュージカルは、日本ではことごとく翻訳上演でした。招聘作品にはまっていた私は、「なんで日本人がやっちゃうの! やっちゃったら海外から来ないじゃない!!」なんて憤慨してました。
 少ないお小遣いをミュージカルのオリジナルキャスト CDに費やして、音楽から本場の舞台に思いを馳せていた私もやっぱり舞台が観たい、との思いで、帝劇の『ミス・サイゴン』に行ってみました。
 CDとトニー賞のイメージで思い描いていた舞台とは思いっきりかけ離れていて愕然とした、というのがその時の感想でした。まず歌詞は聞き取れないし、歌はただ一生懸命声を出そうとしていて、ダンスも一生懸命格好良く見せようとしている、その必死さが観ている側に分かってしまう、悲しい悲しい結果でした。
 私の中で先ほども出た「本物のミュージカル」が美化され過ぎていたかもしれません。でも、私はもう翻訳作品は観たくない!という姿勢を決定的にしてしまいました。
 この頃は超否定的です。

 それからバブル崩壊に伴い、招聘作品が極端に減り、来たとしても学生が高いお金を出して観ようとは思えない作品ばかりで、あんまり舞台を見ない日々が続きました。
 大学 2年で祖母とイギリス周遊旅行に行く事になり、最終日2日間のロンドン滞在中に初めて念願の本場ミュージカルを体験しました。
 ロンドンだからロンドン産ミュージカルにしようと思い、本当は『オペラ座の怪人』が観たかったんですがチケットが取れず、第2候補の『レ・ミゼラブル』にしましたが、もうここでは書き表せないほど感動した記憶が残っています。劇場の重厚で芸術的な雰囲気から、ロングランにもかかわらず出演者のレベルが高いこと、元々感激屋の私ではありますが、悲しくて嬉しくて切なくて、その日の夜は旅の疲れはあったであろうに、興奮してなかなか寝付けませんでした。
 そしてとうとう卒業旅行でロンドンに丸々 1週間滞在し、思いっきりミュージカルを満喫しました(本当はその前にウイーンにも寄り、『エリザベート』も観る予定でしたが丁度休演中で観られず……)。全部で 5本観たと思いますが、どれも素晴らしく、毎日こんな作品をいっぱい上演しているロンドンってなんて素晴らしい街なんだろうとつくづくおなかの底から感動し、感心しました。
 本場ミュージカルを経験した私は、一回り成長し(?)、ロンドンで 2回観て、 2回とも感動した『レ・ミゼラブル』の、帝劇での翻訳作品を観てあげましょう、というおこがましくも優しい気持ちになって10周年記念とやらの公演に行くことにしました。そして……感動してしまいました。
 確かに本場の舞台とは違う、違うけれども、違うなりの、日本人ならではの味付けというか、私が日本人だからこそ感じた感動というものがそこにはありました。日本人キャストの技術も『ミス・サイゴン』時代より確実にレベルアップし、作品自体のテーマも日本人に合っていたとは思いますが、ただ本場の作品をなぞる姿勢ではなく、日本人ならではの作品になっていたように思えました。最初の頃を観ていないので、はじめからその姿勢だったのか、 10年かかって作り上げられたものなのかは分かりませんが。
 私の第二次転換期です。

 それからは少しずつではありますが翻訳公演も観てみるようになりました。その頃の姿勢はちょっと否定的という感じです。
 特に印象に残っているもので、肯定的作品としてスイセイの『フェーム FAME』、四季の『ライオン・キング』、否定的作品として翻訳版『レント』です。
 『ライオン・キング』は半分英語でないアフリカの言葉のような歌詞もあり、何と言ってもパフォーマンスが魅力なので、心から楽しめました。
 比べたいのは『フェーム』と翻訳版『レント』です。共に時代は少しずれますが、NYが舞台の若者を取り扱ってます。
 『フェーム』は友人に誘われていったので、劇団についての知識はあまり無いのですが、歌もダンスも一生懸命、ちらほらと日本人っぽさが見え隠れはしたものの、表現したいことがその一生懸命さで伝わってきました。観劇後は自分も一緒になって踊っていたかのような心地よい疲労感さえ覚えました。
 日本のミュージカルに詳しい友人に後から話を聞いて、『フェーム』がその劇団のヒット作品で、何度か再演していたことを知りました。ニューヨークの舞台を夢見る高校生達の役柄を、出演者が役をなぞるのではない、もう一度キャラクターを作り直して自分のものにしていることを、スイセイという、宝塚とも四季とも違う独特の劇団の雰囲気が、妙に納得させてくれたように感じました。
 問題は翻訳版『レント』です。
 『レント』といえばブロードウェイでも社会現象となった超話題作です。もちろん私はオリジナルキャスト CDを手に入れ、トニー賞の映像と共に、感動し舞台に思いを馳せていました。『レント』がトニー賞を取った 1年後、お稽古事の都合でニューヨークに行くことになり、 1つだけミュージカルが観られるといわれ、私は迷わず『レント』を希望しましたがチケットが取れなくてあえなく却下されました。
 その『レント』が翻訳上演される!……、私は何となく嫌な予感がして、見送りました。しかしその次の年、再演するというのです。やっぱり舞台が観たかった私は誘惑に負け、行ってしまいました。
 ……行かなければ良かった……あの素晴らしい作品が……悔しいを通り越して悲しくなりました。『ミス・サイゴン』の悪夢再来です。
 この翻訳版『レント』のスタッフやキャストは、この作品をどう理解して上演しているつもりなのだろう。その公演に熱狂している観客にも腹が立ちました。
 怒りのあまり抽象的な表現しか出てきませんが、とにかく作品の本質はどこかにおいてきて、レント風の格好良さをただただ真似しようとしただけでした。そしてそれをミュージカルだと思っている日本人サイドが悲しくなりました。
 その後『レント』来日公演があり、私の心の中の大切な『レント』が蘇りました。嬉しくてほっとして、救われました。
 その後念願のニューヨーク・ツアーに行ってきたことは、ミソッパさんにご報告した通りです。

 長々と私の翻訳公演に対する今までの体験を綴ってしまいました。私の翻訳公演に対する姿勢がどうしてもこのように消極的なため、いろんな話題作(特に翻訳公演の宝庫、劇団四季はほとんど観ていません)を見逃していて客観的な分析はできませんが、私のこのような体験からまとめてみたいと思います。
 翻訳公演の意義とは、海外の作品を日本人にわかりやすく観てもらうことです。
 海外の作品を別の言語で別の人種が演じる場合、違和感があるのは当たり前です。それを形から入って、まるで日本人がやっていないと思わせるように作り上げることはまったく意味がありません。ただ外国と同じような舞台が作れたら良い、ソングアンドダンスができれば良い、それは作品の力に頼っているだけであり、結局は異なる文化のギャップを露呈するだけなのです。
 作品自体のテーマも関係しますが、作品に対する姿勢が翻訳公演を是とするか否とするかのポイントとなるのです。作品の本質を汲み取り、理解し、それを誠実に舞台で表現し観客に伝えることこそ、一番重要視されねばならないことなのではないでしょうか。
 私が宝塚の翻訳ミュージカルに違和感を感じなかったのは、あの独特の宝塚調はそのままにという、良い意味での開き直りによって、素直に作品を楽しむことができたのだと思います。帝劇の『レ・ミゼラブル』も、同じ舞台装置で同じ音楽、同じストーリーではあるけれども、ロンドンと同じ作品を観たという気分には全くなりませんでした。そして、また別の日本人らしい(抽象的ですいません)温かい感動をおぼえました。
 私自身、日本舞踊をやっており、歌舞伎も好きなので感じることですが、日本人には日本人なりの感情表現があり、それは逆に欧米人には真似のできない特長的で繊細な感覚だと思います。いくら演技巧者のブロードウェイスター俳優でも、歌舞伎を演じることはできないでしょう(^^)。日本人は、特に素養が無くてもそのような感覚は無理なくからだの中に染み込んでいき、自然と心を動かされるのです。翻訳ミュージカルには、敢えてその日本的感情表現を取り入れて良いのではないかとさえ思うのです。
 ミソッパさんやミソッパさんのサイトに登場される皆様、(一応私も入れて頂くと)私のように、本場のミュージカルが大好きで、海外にまで出かけてしまう人はともかく、一般的な方々にとって、翻訳ミュージカルは敷居が低く、行ってみようかな、という気分にさせてくれることは非常に大きな利点だと思います。そのような方々を、ミュージカル好きにするためにも、日本人が素直に感動できる翻訳作品がこれからも作られていって欲しいです。
 ただタレントの人気にあやかっただけの作品や(作る側にとっては観客の入りが保証できる利点はありますが)、技術だけ真似して本場を気取ったような作品は観たくありません。そのような作品を観て、「ミュージカルってわざとらしい、何できゅうに歌うの?踊るの?」と感じ、ミュージカルを敬遠するようになった人はたくさんいると思います。ミュージカル大好き人間にとっては悲しいことこの上ないです。
 結局私のような本場ミュージカル好きにとっては、できればどの作品も招聘してきて!! と思ってしまいますが、それも無理な話だとすると、せめてがっかりする作品だけは上演しないで欲しいです。そして、日本に海外ミュージカルをたくさん招聘させるためにも(?)、良い翻訳作品をたくさん上演してもらって、ミュージカルの底辺を拡大させて欲しいです。そしてその先には、日本のオリジナル・ミュージカルがブロードウェイで上演され、トニー賞を受賞!! なんてことになってくれればこんな素晴らしいことはありません。
 海外ミュージカルも、日本文化も愛しているので、希望的観測から翻訳作品は、肯定 4、否定 6の割合です……今は。

 ●かなかなさんの場合。

 [質問 1]

 海外に行かずして、国内で外国産ミュージカルを観られる点です。
 また、国産作品だけではここまで観客の裾野が広がらなかったと思うので、今まで観客を開拓してきた実績もあると思います。

 [質問 2]

 詞が全く違う内容になってしまうことです。
 外国語から日本語に訳して、音楽に乗せるのは並大抵のことではないと思いますが訳詞家が「作詞」をしてしまうのはいかがなものかと。それで作品の意味さえも全然違ってきてしまいますものね(特にアンドリュー・ロイド・ウェバー Andrew Lloyd Webber 作品にその傾向が強いです)。
 それと翻訳作品上演があまりにも多いですが、もしかしてそのせいで来日プロダクションの公演が少なくなっているのではないでしょうか。

 ●ENOさんの場合。

 [質問 1]

 実際、今まで観たミュージカルのほとんどが、「翻訳公演」で、いろいろ不満はありますが、こうやって私自身がミュージカル好きになったんだから、日本にいて、外国語がストレートにわからない(つまり、ごく普通の)芝居好きにとって、こんなに「翻訳公演」がたくさん観られるのは、ありがたいことです。

 [質問 2]

 で、今までに観たミュージカルで、ひとつだけ、オリジナルと「翻訳公演」の両方を観たのが、『シティ・オブ・エンジェルズ CITY OF ANGELS』でした。 [質問 1] で言ったように、数々の「翻訳公演」には感謝しつつも、私がミュージカルを決定的に好きになったのは、このミュージカルのオリジナルをたまたま観たからです。あの「体験」がなかったら、いまだに「モーストリー・モーツァルト」のオペラ、クラシック好きだったでしょう。
 「翻訳公演」しか観ていなかった時は(しつこく繰り返しますが、数々の「翻訳公演」には感謝しつつも)、「ミュージカルなんて、しょせんオペラまがい」と思ってました。本当の一流の舞台を観る機会を得て、「オペラが、ヨーロッパ文化の産んだ素晴らしい遺産であるのと同等に、ミュージカルは、アメリカ文化の産んだ、いま現在の観客のための最高のパフォーマンスのひとつなのだ」と否応なしに納得させられました。
 オリジナルを観たほぼ 2年後に、松竹の「翻訳公演」を観て、当たり前といえば当たり前ですが、セリフや歌の意味がその場ですぐに理解できて、ストーリーの分からなかった所もスッキリ判明して、感激をあらたにしました。と同時に、この「翻訳公演」だけ観たら、こんなミュージカル好きにはならなかっただろうな、とも思いました。
 ミュージカルにかぎらず、二流以下のものにいくら数多く接しても、一流、特に超一流の「凄さ」を体験しない限り、その「アート」の真価は分かりません。それは私がクラシックのコンサートに通いつめて、いやというほどに実感してきたことです。
 ついでに付け加えると、「翻訳公演」の持つ、いかんともしがたい限界も、 2つの『シティ・オブ・エンジェルズ』を観て感じました。
 劇中、こんなシーンがあります。ハンフリー・ボガートを思わせる探偵が、ある美女の捜索を依頼されて、さて、自室に戻ってみるとベッドがモソモソ動いている。探偵がサッとシーツを剥ぎ取ると、そこには依頼された当の美女が、全裸でうつぶせになって微笑んでいる……。
 ロサンゼルスのシューバート・シアターで観た時には、ここで客席から、「おっ、いい女」「やるなあ、この演出!」という感じの口笛がなって、軽快に舞台はすすんでいきました。日本では………日生劇場の観客はまさに水を打ったようにし〜んとなって、一瞬、劇場内の時間が止まってしまったかのようでした。
 ミソッパさんも確かおっしゃっていたとおり、アメリカ・ミュージカルは、アメリカ文化の中から生まれ育ったもので、それを抜きにしては分からない、味わえない部分があります。逆に、歌舞伎のロサンゼルス公演があったとして、そこでのプレイが銀座の歌舞伎座でのものと寸分たがわなかったとしても、観客や劇場そのものを含めた「体験」としては、別物と言わざるを得ないでしょう。
 「翻訳公演」はむろん、いわゆる「引越し公演」も、厳密に言えば、オリジナルを現地で観るのとは違う「体験」をしているんだということは、(だから駄目、という意味ではなくて)承知しておくべきかと思います。

 ●わくさんの場合。

 [質問 1]

 私のように英語に堪能でない者にとっては、優れた海外の作品を理解し、楽しむには、日本語の翻訳が不可欠です。
 もちろん、正しい翻訳とまともな演出が前提ですが。

 [質問 2]

 企画の貧困から、安易に翻訳ものに走るのは感心しません。
 それに、演出家による独善的な内容の改変は許せません。
 たとえば、『サウンド・オブ・ミュージック THE SOUND OF MUSIC』の宮本亜門のように、劇中曲をアベコベの場面に勝手な歌詞を付けて使ったり、『オズの魔法使い THE WIZARD OF OZ』の鵜山仁のように、見せ場を全てカットするような酷いことを平気でする演出家がいるのは困りますね。

後編に続く
前編はこちら

(6/19/2001)

Copyright ©2001 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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