[ゆけむり通信 番外 2002]
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[ゆけむり通信Vol.60]

10/24/2002 & 11/21/2004
『太平洋序曲 PACIFIC OVERTURES』

日本語版の再々演を望む

 2000年秋の新国立劇場日本初演以来、 2002年夏のリンカーン・センター公演、同年秋の新国立劇場再演、そして今回のブロードウェイでの限定公演と、宮本亜門演出によるスティーヴン・ソンダイム Stephen Sondheim ×ジョン・ワイドマン John Weidman のミュージカル『太平洋序曲』のリヴァイヴァル公演を追いかけてきたが、この刺激的な試みは、まだその円環を閉じていない。このプロジェクトは、日本語版のさらなる再演をもって、ようやく、ひとまずの目的を遂げるはずだ。少なくとも僕の妄想の中では。

 僕の妄想。それは――、

 『太平洋序曲』日本語翻訳版は、「ブロードウェイ初演版の“ズレ”を意識的に残すことで、アメリカ人の目を通して描き出された日本人の歴史物語を、日本人観客の前に、問題をはらんだ“新たなフィクション”として提出した」ミュージカルなのではないか。

 ――ということ。
 その妄想にのっとった上で――、

 黎明期から今日まで変わらず続いている日本ミュージカルの英米崇拝“本物志向”の堂々巡りの中にあっては、「“ホンモノ”である初演版の“ズレ”を意識的に残して新たな意味を生み出した」ように見える『太平洋序曲』日本語版は、明らかに異質で、面白い。

 ――という風に、僕はこの作品を観てきた。
 そんなわけで、僕にとっては、アメリカ人の役者が英語で演じることになったブロードウェイでの限定公演は、言ってみれば“オマケ”のようなものだった。だがら、宮本亜門が“東洋人初のブロードウェイ演出家”となる、なんてことには、まるで関心が湧かなかったし、さらに言えば、ブロードウェイ・リヴァイヴァル版開幕にあたって催されたという“宮本亜門を励ます会”なるものに米国大統領ブッシュの茶坊主的日本国首相小泉が出席した、なんて話は、『太平洋序曲』の出来の悪いパロディとしか思えなかった。
 が、まあいいや。そういったことは、舞台を作った人たちとは関わりのない話だ。
 むしろ、ここでは、“オマケ”とはいえ、ブロードウェイでの原語版リヴァイヴァルが日本語版と基本的には変わらない宮本亜門の演出プランで上演された、ということに積極的な意味を見出す方向で論を進めたい。そのことの意味が日本語版に再び返ってくる、というのが僕の妄想の進展であり、その結果が、日本語版の再々演を望む、という、この観劇記のタイトルに到るはずだ。

 さて、まずは、リンカーン・センター公演後の新国立劇場再演について。
 2002年秋に新国立の小劇場で再び日本人観客を前に演じられた『太平洋序曲』日本語版の演出は、その年の夏にニューヨークのリンカーン・センターでの公演(次いで行なわれたワシントン公演は未見)と基本的には同じで、 2年前の日本初演版を若干改訂した(最も大きな改訂は、主人公の 1人、香山の妻たまてが自害するくだり――たまては、香山が黒船との交渉にあたるよう命じられた時点で、任務に失敗して香山が命を落とすことを覚悟し、自ら命を絶つ――をわかりやすくしたこと)ものだった。
 ところで、これはあくまで“僕にとっては”ということだが、通算 3度目の観劇となった日本再演の舞台は、直前に観たニューヨーク公演の劇場が大きかったこともあって、同じ新国立の小劇場でありながら初演の時より空間がさらに小さく見え、手の届くところで演じられていると感じられる、親密な印象のものとなった。
 そのせいもあってか、あるいは実際にアメリカ・ツアーを経て自信を得た結果なのか、役者たちの演技が、これまで以上に確信に満ちたものになっているように見えた。
 同時に、ハイライト・ナンバーである「Poems」「Someone In A Tree」「A Bowler Hat」での訳詞(橋本邦彦)のよさが、改めて、くっきりと表れた。

 ところで、『太平洋序曲』のハイライト・ナンバーのあり方は、少し変わっている。上に挙げた 3つのナンバーは、いずれも、本筋からややハズレたところで歌われる印象があるのだ(もっとも、これら 3曲が“ハイライト・ナンバー”であることに異論があれば、また別の話だが)。
 具体的に言うと――。
 「Poems」は、ペリーを浦賀から帰すことにとりあえず成功した 2人の主人公、香山とジョン万次郎とが、香山の家へと帰っていく道々やりとりする“連歌”を楽曲化したもの。ストーリー上では、ドタバタの黒船との交渉と、この後に待つ、たまての悲劇的な死との間に訪れる、ひと時の平穏、といった場面。淡々とした歌のやりとりが、香山と万次郎との静かな心の交流を表す。
 終盤に出てくる「A Bowler Hat」も、やはり香山と万次郎との関係性の変化を暗示している。香山が、すでに入国している外国人との交渉にあたっていく中で、しだいに欧米の文化に親しんでいく心の様子を、自分の着衣や性格様式の変化として歌う楽曲で、一方で洋行帰り(?)の万次郎が国粋主義化していくのが様式的な動きで表現され、 2人が皮肉な訣別へと向かっていく予感が生まれる。そういう意味では本筋ど真ん中の印象であっても不思議はないのだが、香山の歌は、直情的な心情吐露ではなく、またナレーション的説明でもなく、客観的な事実描写に近い内容を淡々と語るもので、ダイナミックに動いていくストーリーの中にあっては、非常に静的な印象を受ける。
 もう 1曲の「Someone In A Tree」は、ストーリー上、ほとんど、あってもなくてもいい楽曲で、しかも、主要登場人物も絡まない。黒船の乗員を迎えて海辺の仮設の建物内で行なわれた日米交渉を少年の頃に近くの木の上から見ていたという“とある老人”と、警護のために床下に潜んで話を聴いたという“とある侍”とが、その時に見聞きしたことを証言する、という内容だが、証言の中身は、「見ていた」「聴いていた」というばかりで、具体的な会談の様子は全く見えてこない。にもかかわらず、歴史の転換点を庶民の視点で捉えたという点で、印象としては作品全体の要になるような、実に不思議な楽曲。
 これらの楽曲が本筋からややハズレたところで歌われる印象があることと、日本初演観劇記で指摘した次の事実、――あくまで歴史主体で描こうとした『太平洋序曲』にあっては、主人公たちすら、歴史のある瞬間にいあわせた人たち、という印象になる――、ということとは、表裏一体をなすと言っていいだろう。
 そして、もう 1つ。これらの楽曲に共通する“静的な印象”の根源は、スティーヴン・ソンダイムが短歌や俳句を意識して書いたことにある。そのことに改めて気づいたのはブロードウェイでの英語版を観たからで、日本語版では脚本の訳も手がけた橋本邦彦の、これらの楽曲における訳詩が素晴らしく、ハイライト・ナンバーとして一際輝いていたのだが、それは原曲のニュアンスを――単に意味を巧みに翻訳したということではなく――音楽的にも効果的に日本語に移し替えたゆえだったのだということを、原語での歌を聴いて確信した。しかも、元々は日本の文化である短歌や俳句が一旦アメリカ人楽曲作者の意識を通過して英語的に表現されたものを再び日本人の意識で日本語に戻す、という経過をたどっているために、あらかじめ“翻訳調”であったものを翻訳し直した二重の“翻訳調”という複雑なニュアンスをまとい、それが結果的に、文化衝突の中で翻弄される日本人の心情を反映しているように聴こえるという、製作者たちが意図した以上の効果を生んでいるのだ。
 そういう意味でも、『太平洋序曲』の日本語版は、日米のミュージカル製作に携わる人たちが、約四半世紀の時と太平洋を隔てて(さらに言えば、一世紀半に及ぶ日米間の歴史を隔てて)不思議に“交感”した結果、成立した舞台のように思える。

 ともあれ、そのように、新国立劇場再演の舞台は、 2年前の初演に負けず劣らず充実していた。
 とは言いながら、この時点で、「ブロードウェイ初演版の“ズレ”を意識的に残すことで、アメリカ人の目を通して描き出された日本人の歴史物語を、日本人観客の前に、問題をはらんだ“新たなフィクション”として提出した」というのが僕の妄想に過ぎないことは、すでに実感していた。それは、公演の合間に新国立劇場小劇場で開かれた、宮本亜門と松井るみ(装置)によるニューヨーク公演報告会(正式のタイトルは別にあったと思うが)での彼らの発言を聞いていても、わかった。彼らは、“ズレ”を意識的に残すと言うよりも、かなりストレートに原典を尊重して日本語版を作っている。そう思った。もっとも、そこには契約上の問題もあったとは思うが。
 しかし、まあ、それはそれでいい。無意識の内に作られたにせよ、そうした妄想を抱かせるだけの“何か”が日本語版にはあった。それは間違いない。「日本とアメリカという歪みのある合わせ鏡の間を様々なカルチャー・ギャップが乱反射するような刺激的な舞台」という評価は変わらないのだ。

 そして、英語版に変更してのブロードウェイ公演
 前述したように、僕の妄想の中身から言って、ブロードウェイの劇場でアメリカ人観客を相手に英語で上演される『太平洋序曲』には、期待すべきことはほとんどなかった。
 ただ、上演場所のスタジオ 54は、キット・カット・クラブ KIT KAT CLUB(=ヘンリー・ミラーズ劇場 HENRY MILLER'S THEATRE)から引っ越した『キャバレー CABARET』上演用の劇場として改造されたところで、 1階前方がテーブル席であり、 2階席がかなり前方まで張り出しているため、客席中央に設置した花道で芝居をし、天井に星条旗をはためかせる宮本亜門版『太平洋序曲』にふさわしいとは言いがたい。ゆえに、もしかしたら、演出になにがしかの変更が施されるかもしれない。観る前には、そんなことを考えていた。

 結論を言えば、装置が変わらなかったので、演出はほとんど変わらなかった(ブロードウェイ公演終了後に世田谷パブリックシアターで行われた、宮本、松井、それにドラマターグとして公演に参加した小嶋麻倫子による報告会によれば、松井は花道をあきらめて、 2階客席下になって天井が見えない 1階席後方部分をつぶすという新たな美術プランも考えたそうだが、そこまでの改造予算が立たず、最終的には花道の規模を小さくしただけに終わったという)。変わったのは、リンカーン・センター公演と日本版再演で改訂された、たまて自害のくだりが元に戻されたぐらい(ジョン・ワイドマンの要望だそうだ。宮本が前述の報告会で語っていた)。
 しかし、見た目には変化があった。まず、衣装がワダエミからコシノ・ジュンコに替わって(報告会情報によれば、ブロードウェイでの上演がギリギリまで決まらなかったためにワダエミはやむなく降板したという)、柔らかで華やかな感じになった。同時に、ワダの担当していた面(ペリーたち“外人”の被り物)を松井が担当することになり、若干、奇怪さが薄らいだ。これらの変化は、日本語版に比べて全体の印象をなめらかにし、“神国”ニッポンに“異形”の者が突如現れて混乱が起こるという文化衝突の“おかしさ”を和らげる結果をもたらした。
 さらに、音楽的にも変化があった。編曲が変わっていたのだ。長くソンダイム作品を手がけてきた現地スタッフ主導の改変のようだが(逆に言えば、必ずしも日本側スタッフの希望ではなかったようだが)、これについては、こちらで、こう書いた。
 [精密な編曲・演奏による楽曲のよさが(日本語翻訳詞は極めて優れていたのだが、そのこととは別に)オリジナル英語詞の韻律と相まって、際立った。]
 この変化も、楽曲のよさを示す効果はあったが、その結果、楽曲の流麗さばかりが際立って、ソンダイム作品を聴くということに観客の主眼が移り、日本語版にあった新たな視点によるリヴァイヴァルの面白さという側面を後退させることになった。
 準備の期間が短かった。それが、こうした変化が起こらざるをえなかった理由の 1つであることは間違いないだろう。しかし、実は、全てが必然の結果なのではないだろうか。
 オリジナル版の“誤解”を意図的に残したかのような様相で成立していた日本語版を、作品の故郷であるアメリカで現地スタッフと共に原語版に作り直そうとした途端に起こった“必然”の文化衝突。その衝突のエネルギーを有効な方向に生かせないまま、ブロードウェイ版は日本語版にあった刺激的な“何か”を失い、(それなりの完成度は見せながらも)中途半端な印象の舞台になってしまった。
 僕の目には、そう映った。

 宮本版『太平洋序曲』の 2度に及ぶ太平洋往復は、そもそもは作者であるソンダイムとワイドマンが日本語版初演を観て感銘を受けたところから始まったという。彼らは日本語版の“何”に感銘を受けたのか。
 ここで、新国立劇場日本初演の観劇記で引用した大平和登「ブロードウェイ」(作品社)掲載のオリジナル・ブロードウェイ版初演評から再び引く。
 [台本と演出と衣裳は、(中略)いわゆる「日本的」なもの――俳句から茶の道具、琴からチャンバラに至るまで、全てを劇画的とでもいいたいように、意識的(?)にとり入れていて、かえってはなはだ浅薄な感じを与えているのは、日本が他国文化の模倣をやらかす場合と大差がなく、ご愛きょうではあるが。整理されたイメージがもうひとつしぼられたら、プリンスの知的意図がより輝かしいものになったにちがいないと惜しまれるのだが、半ばエキゾチシズムによる大衆への興味をつながねばならなかったところに問題が残るのである。]
 こうした「日本的」なイメージが、宮本版では“整理され”、“しぼられ”ている、と、ソンダイムとワイドマンの目に映っただろうということは想像に難くない。能舞台を思わせるセット、歌舞伎や能や文楽や殺陣を巧みに取り入れた演出――それらは、彼らには、かなり“ホンモノ”に見えたはずだ。
 しかし、彼らに、“カルチャー・ギャップの乱反射”が見えたかどうか。日本語版の製作スタッフにも必ずしも見えていなかった日本語版の発する“カルチャー・ギャップの乱反射”は、オリジナル・プロダクションの中心スタッフであるとはいえ、アメリカで活動するアメリカ人である彼らには見えていなかったのではないか。あるいは、ペリーをはじめとする来航者を“異形の者”とする日本人ならではの視点などには刺激を受けたかもしれない。しかし、“ホンモノ”に見える「日本的」なイメージが実は日本にあってもけっして“ホンモノ”ではなく、歌舞伎や能といった“伝統芸能”を通過したヴァーチャルな様式であることや、日本人がミュージカルを上演する時に覚えるアメリカ=“ホンモノ”という潜在的なコンプレックス、さらには、幕末の日米関係が第二次大戦後の占領を経て今日に到る日米関係と二重写しになって見えることなどは、アメリカ人には実感としてはわからなかったはずだ。“カルチャー・ギャップの乱反射”は、政治的にも文化的にもアメリカの強い影響下にある日本で生まれ育った観客だからこそ感じとることの出来る事象なのではないか。そのぐらいには、演劇に対する理解は、時代と地域を限定するものだろう。
 最終的に、アメリカ側の日本語版『太平洋序曲』に対するプラスの評価は、ソンダイムとワイドマンが感銘を受けたと思しい、「日本的」なイメージがかなり“ホンモノ”に見えた、というあたりに留まったのだと思う。だからこそ、宮本亜門演出日本語版を英語版に戻してアメリカ人俳優でブロードウェイで上演するという安易なアイディアが生まれたのだし、そうであってみれば、その結果が日本語版以上の実を結ばなかったのは必然と言う他ない。

 そうした日米の認識のすれ違いが如実に表れたのが、役者においてだった。
 こちらでも書いたように、劇中で日本人役の役者は“外人”のことを“野蛮人(barbarian)”と呼ぶのだが、前述の報告会でのスタッフの発言によれば、主役と呼ぶべきナレーターを演じた B・ D・ウォング B.D.Wong はアメリカ人観客の目の前でアメリカ人を「バーバリアン」と呼ぶことに抵抗を感じていたという。それはそうだろうと思う。中国系アメリカ人であるウォングは、 2つの理由で抵抗を覚えたはずだ。
 1つは、中国系アメリカ人がアメリカ合衆国ではマイノリティである、ということ。そして、もう 1つは、ウォングが過去の日本と中国の関係を歴史的事実として知っているであろう、ということ。
 同じアメリカ人ではあっても積極的に社会に溶け込んでいく必要のあるアジア系移民の子孫であるウォングが、劇中のこととはいえ、西欧白人系のアメリカ人が多数を占めるブロードウェイの観客の前で、明らかに“彼らの”祖先であるアメリカ人や西欧人を「バーバリアン」と呼ぶのは、微妙に過激な行為ではあるだろう。まだニューヨークだから許されるのであって、これが中西部の劇場だったらどうか……、というぐらいには過激だ。
 しかも、そうしたセリフをウォングは日本人として言うことになる。ラスト・ナンバーの「Next」でも歌われるように、西欧列強に開国を迫られた後、急速な近代化を図った日本は、当時すでに西欧列強の植民地化していた中国をはじめとするアジア諸国を、やがて西欧諸国に替わり、その支配下に収めていく。が、第二次大戦に敗れた日本はアメリカ及び中国を含む連合国の占領下に置かれる。支配、被支配が交錯する中国、日本、アメリカの複雑な関係の中で、ほとんどずっと被支配国であった中国を出自のルーツとする自分が、なぜここに来て、日本人としてアメリカ人に対する過激な発言をすることになるのか。それも、自分の立場を危うくしてまで。そんな葛藤がウォングの中であったとしてもおかしくない。
 もちろん、プロの役者であるウォングは、ブロードウェイ・ミュージカルの主演という機会を逃しはしないし、最終的には何事もなかったように脚本通りに演技し、その水準も高いのだが、しかしながら、同種の葛藤やとまどいが、日本人を演じた多くのアジア系アメリカ人俳優にあったのではないだろうか。そうした役者の心理の、演出家の意図との微妙な“ズレ”が、ブロードウェイ版の舞台全体に表れているように思えてならなかった。

 と、まあ、僕の目には、そのように映ったブロードウェイでの宮本亜門版『太平洋序曲』だが、改めて言うまでもなく、ブロードウェイ版の“失敗”(と、あえて言うが)は、日本語版の価値をいささかも貶めるものではない。むしろ、性急に作られたブロードウェイ版の失敗の理由の中にこそ、日本語版の意義深さが表れていると言ってもいい。
 となれば、だ。“オマケ”であるブロードウェイ公演で見えた、日本語版でなければ表現し得なかった“カルチャー・ギャップの乱反射”する『太平洋序曲』の面白さを、作り手たちも、舞台上で再び、僕ら日本人観客と共に確認してほしいと思うのだ。そうすることで、宮本亜門版『太平洋序曲』は、ようやく、ひとまずの円環を閉じ、日本のミュージカル界の様々な問題に対する大いなる回答として、その存在を歴史に刻むことになるだろう。
 そして、その存在を支えられるのは、マスコミのお門違いの喧伝に惑わされることなく虚心に舞台を観る、僕らミュージカル・ファンの目であることもお忘れなく。

(5/30/2005)

Copyright ©2005 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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