[ゆけむり通信Vol.55]

11/2/2003
『ボーイ・フロム・オズ THE BOY FROM OZ』

ザ・ヒュー・ジャックマン・ショウ

 『ボーイ・フロム・オズ』の主人公ピーター・アレン Peter Allen は、ジュディ・ガーランド Judy Garland に見出されたオーストラリア生まれのシンガー・ソングライター。タイトルの“オズ OZ”は、ガーランドの代表作『オズの魔法使い THE WIZARD OF OZ』とオーストラリアの略称 Oz(Ozzie)とのダブル・ミーニングなのだろう。
 ところで、ウェストエンドのミュージカルのプログラムを見ていて気づくのは、キャストやスタッフにオーストラリアの人材がたくさん参加していることだ。人材だけでなく作品の行き来も盛んなようだし、おそらく、イギリスとオーストラリアの芸能サーキットは“同一”と考えていいのだろう。そして、当然のことながら、舞台作品の作風もよく似ている。
 “ロンドン産”ミュージカルに顕著な作風については、以前こちらで書いたが、オーストラリア生まれのこの作品、『ボーイ・フロム・オズ』にも、その“ロンドン産”の特徴の 1つが表れている。すなわち、“モノマネ+コンサート的ノリの伝記的作品”。明らかに、『バディ BUDDY』『ジョルスン JOLSON』と同じ系統のミュージカルだ。
 となると、安直で薄っぺらい、ということになりがちなのだが、結果は違った。あまりお金もかかっていない、本質的には“安直で薄っぺらい”この舞台が、どちらかと言えば温かい、場合によっては感動すら呼ぶものになっているのだ。意外にも。
 その鍵は、作品全体が“自身の半生を語るピーター・アレンのコンサート”という構造になっていることと、ピーター役を演じて開幕直後から観客に親しげに語りかけるオーストラリア出身ヒュー・ジャックマン Hugh Jackman の愛すべきパーソナリティの魅力にある。
 この 2つの要素があいまって、『ボーイ・フロム・オズ』は、“自身の半生を語るピーター・アレン”を演じる“ヒュー・ジャックマンのコンサート”の様相を呈する。つまり、“物語の主人公”として描かれているピーター・アレン(及び彼の書いた楽曲)よりも、演じ手であるヒュー・ジャックマンの存在の方が前に出て、“舞台の主人公”になり、観客を魅了してしまうのだ。結果、“モノマネ+コンサート的ノリの伝記的作品”であることが視野から後退し、“安直で薄っぺらい”部分が(あまり)気にならなくなる。
 スターの効用を最大限に生かした、ってことか。

 物語はほぼ時系列に沿って、次のように進む。

 ピーター・ウールナフ(Woolnough)は、オーストラリアの小さな町で(1944年 2月 10日に)生まれた。子供の頃から地元のホテルでピアノを弾いて歌って踊って大人たちを楽しませていたが、やがてシドニーに出て、クリス・ベル Chris Bell と組み、アレン・ブラザーズと名乗り始める。地元で TVの音楽番組に出演するほどの人気を得た後、興行の旅に出たピーター&クリス・アレンは、香港のホテルのラウンジ・ショウに出演中に、客として来ていたジュディ・ガーランドに認められ、彼女のショウの前座に起用されることになる。そして、ジュディの娘、ライザ・ミネリ Liza Minnelli と出会い、恋に落ち、結婚する。マンハッタンで派手な暮らしをするようになったピーターが同性愛者としての性向を明らかにしていく一方で、ライザはスターへの階段を順調に上り始め、 2人の生活はすれ違い始める。そんな折、ジュディが亡くなり、 1つの時代が終わる。そして、ピーターとライザは、互いを思いやる気持ちを残しながら結婚を解消する。(第 1幕終わり)
 ダウンタウンのクラブでソロ・アーティストとして歌うピーターは、新たな同性の恋人グレッグとめぐり合う。そして、新しいエージェントと契約を結び、コパカバーナからラジオ・シティ・ミュージック・ホールへと進出。ビッグ・ネームになっていく。ところが、そんな成功の最中、グレッグがエイズであることを告白し、やがて亡くなる。そして、友人であり続けるライザの励ましも空しく、病魔はピーターの体も確実に蝕んでいき……。

 さて、この“伝記的作品”の、どこが“モノマネ+コンサート的ノリ”なのか。

 まずは、“モノマネ”。
 想像がつくと思うが、ジュディ・ガーランド(イザベル・キーティング Isabel Keating)とライザ・ミネリ(ステファニー・J・ブロック Stephanie J. Block)の演じられ方が“そっくりショウ”的。ことに、ジュディ役のキーティングの歌は、彼女の履歴の中に“モノマネ”が重要な要素になっているストレート・プレイ『リトル・ヴォイスの栄光と挫折 THE RISE AND FALL OF LITTLE VOICE』(詳しくはこちら)の主役があることからもわかるように、かなり似ていて、喝采を浴びる。また、ブロックは、歌はそれほど似てはいないが、『ライザ・ウィズ・ア“Z” LIZA WITH A "Z"』を思わせるダンス場面でフォッシー Bob Fosse 調の振りを“ライザらしい”迫力で踊ってみせる。
 こうした“そっくりショウ”的な演技は、確かに 1つの芸ではあり、それなりの面白さもある。中でも、ジュディ・ガーランド自身が、彼女の死後にピーターが彼女に捧げて書いたナンバー「Quiet Please, There's a Lady On Stage」を歌う、などという趣向は、“そっくりショウ”でなければありえない。
 しかし、“そっくりショウ”的演技は、例えば、『フォービドゥン・ブロードウェイ FORBIDDEN BROADWAY』のような場でスケッチ的に演じられるのであれば、ある種の批評性を持つという点で、そっくりである意味がはっきり浮かび上がるが、シリアスなドラマの中に置くと、やはりキワモノ感が強いのは否めない。しかも、ジュディ・ガーランドもライザ・ミネリも、チョイ役ではなく準主役なのだ。オフ・ブロードウェイのミュージカルならともかく、高額なチケット代を払って観るブロードウェイの作品であってみれば、再現ドラマ的表現などではなく、演じる役者の優れた個性を生かした上で“らしく”見せるといった高いレヴェルのパフォーマンスを観たいと思うのが人情というもの。
 そういう意味で、この“モノマネ”要素は、残念ながら作品に B級のイメージを与えてしまっている。

 一方の“コンサート的ノリ”。
 “ロンドン産”ミュージカルに顕著な“コンサート的ノリ”ってやつには、わずかな違いではあるが、 2通りある。 1つは、『バディ』『ジョルスン』のような作品での“そっくりショウ”的コンサート場面で、文字通りコンサート的に観客が盛り上がる場合。もう 1つが、『サタデー・ナイト・フィーバー SATURDAY NIGHT FEVER』『マ(ン)マ・ミーア! MAMMA MIA!』のような既存の楽曲を使った作品で、ショウ場面が“カラオケ・ショウ的”に盛り上がる場合。
 では、『ボーイ・フロム・オズ』の“コンサート的ノリ”はどうか。
 基本的には前者のタイプ。ジュディやライザの“そっくりショウ”があるし、ヒュー・ジャックマンの歌う場面(全部で 27あるこの作品のナンバーの内、ジャンクマン参加ナンバーは実に 19もある)も半分以上の 10曲(内 2曲はクリスとのデュオ)が設定上もピーター・アレンの舞台や TVでの演奏シーンとなっているし。
 そこに、後者の“カラオケ・ショウ的”要素も混じる。使われる楽曲が 1曲(オーストラリアを象徴する古い楽曲「Waltzing Matilda」)を除いて全て、アレンが作者として加わった既存のものだから。
 いずれにしても、一流とは言いがたい趣向ではある。

 以上が、この“伝記的作品”の“モノマネ+コンサート的ノリ”。「安直で薄っぺらい、ということになりがち」と書いた理由がおわかりいただけるだろう。

 そんな作品、『ボーイ・フロム・オズ』の中で、“モノマネ+コンサート的ノリ”の要素も含みつつ、しかし、そこに収まりきらないのが、ジャックマンが歌う場面。
 そもそも、ジャックマンの演技は、『バディ』『ジョルスン』の主演者たちのような“モノマネ”ではないのだが、知っている人に言わせるとジャックマンの演じるアレンも歌う時のアクションなどが似ているらしい。しかし、しゃべりや歌には“モノマネ”にありがちな不自然さは全くない。とは言え、設定が舞台や TVでの演奏シーンになっているナンバーには、たとえ“モノマネ”ではなくても、“そっくりショウ”に似た“再現ショウ”の要素が含まれるは事実だ。
 そして、アバ Abba やビージーズ The Bee Gees の楽曲ほど知られていないにしろ、歌われる楽曲がピーター・アレンの書いた既存のものなことは間違いないわけだから、ジャックマンの歌う場面には“カラオケ・ショウ的”要素も含まれる。
 にもかかわらず、ジャックマンの歌は、従来の“モノマネ+コンサート的ノリ”を超えて観客の心をつかみ、安直で薄っぺらい作品で終わりそうな『ボーイ・フロム・オズ』を救う。
 そのあたりを具体的に説明すると――。

 まず、ピーター・アレン役ヒュー・ジャックマンがドラマの主人公でありつつナレーターとして観客に歌いかけるという語り口が、開幕直後、プレイビルに記された構成で言えばプロローグの部分でのピアノ弾き語り(実際には弾いていないが)ナンバー「The Lives Of Me」で提示され、観客は、作品全体が“自身の半生を語るピーター・アレンのコンサート”という構造であることを理解する。
 この時点で、ジャックマンの歌は従来の“モノマネ+コンサート的ノリ”を超える。
 なぜなら――。
 ジャックマンが演じているのは“自身の半生を語る”コンサートを行なっているアレンであり、ということは、『ボーイ・フロム・オズ』という舞台はジャックマンによるヴァーチャルな“アレンのコンサート”であるのだが、観客の目から観ると、現時点におけるアレンとジャックマンの知名度の差もあって、重点はアレンよりジャックマンに移り、“自身の半生を語るピーター・アレン”を演じる“ヒュー・ジャックマンのコンサート”(=ピーター・アレンの半生を題材にしたミュージカル仕立てのヒュー・ジャックマンのコンサート)だという印象を受ける。であるので、ジャックマンの歌が“再現ショウ”かどうか“カラオケ・ショウ的”かどうかといったことは、観客にとっては二の次になる。観客は、そうした芸の趣向を超えて、目の前で芸を披露するジャックマンの“存在”そのものを楽しむからだ。

 観客のそうした姿勢は、例えば舞台上でジャックマンが上半身裸になった時に上がる嬌声などからもうかがえるが、図らずも僕の観た回に、それ以上に象徴的な出来事が起こった。
 舞台も最終盤、ジャックマンが「Once Before I Go」というナンバーを歌い上げる。死を覚悟したアレンがオーストラリアに帰り、心の中で母に別れを告げた後に、死に到る自身の物語に耳を傾けてくれた観客に対しても別れを告げるナンバーで、泣きのツボにもハマってショウストッパーになるのだが、鳴り止まない拍手の中から「もう 1度歌ってくれ!」という声がかかった。それに対して、アレン役のジャックマンは、「明日ね」と答えて笑ったのだ。
 ジャックマンはナレーター役でもあるので、当然、観客に語りかける場面もしばしばある。しかし、ナレーター役=自身の半生を語るピーター・アレンであり、その「明日ね」の瞬間までは 1度もジャックマン自身の立場では観客に接していない。そうした流れを無視して、観客の 1人がジャックマンにリクエストをし、ジャックマンはジャックマンで、それまでの約束事を覆し、「明日ね」と答えて素のジャックマンになった。そんな場面だった。
 ところが、観客である僕らは、そのことに何の違和感も抱かなかったのだ。自身の人生に幕を引く、という、アレンにとって最もドラマティックな場面の直後であるにもかかわらず、だ。自分自身を含め、観客は『ボーイ・フロム・オズ』を“ヒュー・ジャックマンのコンサート”として観ていたのだ、と僕が確信したのは、実はその時だ。

 まあ、そうやってジャックマンの歌は従来の“モノマネ+コンサート的ノリ”を超えた。が、最初に書いたように、親しみを抱かせる彼の愛すべきパーソナリティがなければ、ピーター・アレンの伝記的ミュージカルを“ヒュー・ジャックマンのコンサート”とまでは思わせられなかったに違いない。“モノマネ+コンサート的ノリ”を超えて観客の心をつかんだのは、やはり、素朴さと華やかさとが共存するジャックマンの魅力なのだ。
 ピーター・アレンの伝記的ミュージカルを“ヒュー・ジャックマンのコンサート”だと思わせるにあたっては、もう 1つ、ジャックマンがアレンと同じオーストラリア出身者だということも効果を上げている。オーストラリアの田舎町で生まれた少年がアメリカで成功をつかむというアレンの物語と、現実のジャックマンの境遇とがダブって、アレン=ジャックマンというイメージを観客に抱かせることを容易にするからだ。終盤に用意された、母国に対する愛情を吐露する内容のナンバー、「I Still Call Australia Home」などは、オーストラリア凱旋コンサートという設定で歌われ、いやが上にもアレンとジャックマンの二重映しイメージを強調する仕掛けになっている(もっとも、初演の地オーストラリアでは大受けだったに違いないこのナンバー、ニューヨークではイマイチ観客の反応がニブかったが)。

 ところで、このブロードウェイ版を作るにあたって、ニック・エンライト Nick Enright の書いたオリジナル脚本(オーストラリア版ってことでしょうか)に、マーティン・シャーマン Martin Sherman が手を加えている。楽曲の選曲や並びがオーストラリア版と違っていることはオリジナル・キャスト CDの情報で確認出来るが(しかし、どうやらオーストラリア版 CDは全曲収録というわけではないらしいが)、脚本の変更箇所までは、今のところはわからない。“ヒュー・ジャックマンのコンサート”色を強める方向で手直しされたのではないかと想像されるが、もしオーストラリア版をご覧になるか詳しいデータをお持ちの方がいらしたら、ご教示いただきたい。どう手を加えたか、非常に興味がある。
 ともあれ、ピーター・アレン自身をナレーター役にしたことを除けば時系列に沿って展開するだけの平板な脚本の中で、唯一ヒネリが効いていると言えるのは、アレンの父親に関するエピソードの描き方。

 子供時代のアレンが地元のホテルでピアノを弾いて歌って踊って大人たちを楽しませて、客から小銭を稼ぐ(ここでの、子役ミッチェル・デイヴィッド・フェデラン Mitchel David Federan のアクロバティックな動きと達者なダンスを交えた献身的なパフォーマンスは見事)。喜んで母の元へ帰るピーター。そこに酒浸りの父親が現れ、その金をよこせと言う。まあまあ、と大人のアレンを演じるジャックマンが割って入り、こういう話はとりあえずここまで、とエピソードを中断させるのが、第 1幕第 1景。
 その続きが出てくるのは、もうそんな話も忘れかけていた第 2幕の大詰め、前述の「I Still Call Australia Home」を歌った後。故郷に帰ったことで思い出がよみがえる。小銭を渡そうとしないピーターに苛立った父が母に手を上げるに及んで、どこかへ行ってしまえ、と父に小銭を渡して母をかばうピーター。苦い顔で立ち去る父。と、父の上半身の長い影が舞台上に現れ、銃声と共に自らの頭を撃ち抜く様子が描かれる。後悔の念を含んだ苦しい表情をする大人のピーター。

 ジュディ・ガーランドの死、ライザ・ミネリとの別れ、恋人グレッグの死、自身の病魔……と、それまでにも悲しい出来事は起こっているのだが、いずれも、しんみりとした歌で静かに乗り越えていく。しかし、この父親の自殺の場面は、描かれ方も衝撃的で、かなり悲痛な印象を受ける。少年ピーターを慰める母の歌(「Don't Cry Out Loud」)によってようやく救われた気持ちになるというあたりも、他の場面とは感触が違う。
 まあ、ドラマの描写としては、さほど深みがあるわけではないし、ヒネリと言っても、伏線としての構造は単純。それでも、やはり、このヒネリがなければ、幕引きが締まらないものになったに違いない。
 なにしろ、それまでのドラマの展開も単調で、ナレーションによって強引につないでいるようなところがある。しかし、それとて、 2幕全部を通してではキツい。ナレーターもドラマの主人公もアレン自身、つまり自分で自分の人生を語っているわけだから、ドラマはアレンの中で予定調和となるのは必定。そうした予定調和を食い破って波瀾を生むのは、ナレーターとしてのアレンも思い出したくなかった出来事でなければならない。
 父親のエピソードが、それ自体の描写が上出来とは言えなくても、この作品に欠かせないのは、以上のような理由からだ。

 くどくどと書いてきたが、本質的には“安直で薄っぺらい”『ボーイ・フロム・オズ』がなんとかブロードウェイでも通じる作品に仕上がった理由を、説得力のある形で説明しようとすると、こんなに長くなってしまった(笑)。
 お付き合いありがとうございました。

 と言いつつ、最後に、スタッフとキャストについて少しだけ。

 ロビン・ワグナー Robin Wagner のセットは、限られた予算の中で最も有効な手段を追求した印象。
 背面全体を覆うのが、幅 1メートルぐらいの縦長のボード。ここに様々な背景が仕込まれていて、場面に合わせてスムースに変化する。これが基本で、あとはソファや机やパネルなどの小振りのセットの出し入れがほとんど。
 苦心しているなあと思ったのは、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールでのショウ場面。ジャックマンのバックにロケッツが並んで踊る、という設定だが、そんなにたくさんの女優がいないことはわかっている。どうするのかと思って観ていたら、驚いたことに、板に描かれたロケッツの列が出てきた。まあ、これはシャレって感じで笑えたのだが、続いて女優が 1人ロケッツの衣装で登場し、ジャックマンと 2人で並んで踊り始めた時には、さらに驚いた。シャレで終わらせるつもりじゃないらしい。そこに、垂直に立った鏡張りの三角柱がクルクル回りながら出てきた。なるほど、これで人数を多く見せようというわけか。と、女優の数が増え、それにつれて三角柱の数も増える。都合ロケッツ役の女優は 5人になり、間に回る鏡張り三角柱を置いて、しかも背景も鏡になり、一応は華やかな雰囲気を作り出すところまで持っていった。ブロードウェイとしてはチープなんだけど、ここまでやれば拍手もの、という気がしてくる。
 それに比べると、カーテンコール・ナンバーでのジーグフェルド・フォリーズ Ziegfeld Follies 調の大階段などは、華やかではあるが驚きは少なかった。

 演出/フィリップ・ウィリアム・マッキンリー Philip Wm. McKinley(『スワック THWAK』)、振付/ジョーイ・マックニーリー Joey McKneely。

 母親役ベス・ファウラー Beth Fowler とグレッグ役ジャーロッド・エミック Jarrod Emick の歌は、“そっくりショウ”的でないだけに、ジュディ役やライザ役の歌以上にドラマの上では重要。前述のファウラーの歌う「Don't Cry Out Loud」も説得力があったが、それ以上にエミックによるグレッグの惜別の歌「I Honestly Love You」は心に染みた。

(12/4/2003)

Copyright ©2003 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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