[ゆけむり通信Vol.55 & 56]

11/1/2003 & 1/7/2004
『ネヴァ・ゴナ・ダンス NEVER GONNA DANCE』

アステア=ロジャース世界の再現なるか

 『ネヴァ・ゴナ・ダンス』の、始まって(10月 27日)間もないプレヴューを、とにもかくにも観に行ったのは、とっとと終わっちゃうかも、と心配したから。
 映画『有頂天時代 SWING TIME』を元にした新作舞台ミュージカルがブロードウェイに登場予定、というニュースがプレイビル・オンラインで流れたのが今年の 6月。楽曲は、『有頂天時代』で使われたものを中心に、ジェローム・カーン Jerome Kern 作曲作品で統一するらしい。
 オッ、と、うれしく思うと同時に、不安も頭をよぎった。なにしろ、『有頂天時代』(DVDの解説によれば、戦後の再公開時には『スイング・タイム』の邦題だったようだが)と言えば、フレッド・アステア Fred Astaire とジンジャー・ロジャース Ginger Rogers という伝説的コンビの黄金期に作られた古い(1936年)作品。“アステアの幻”を求めて(詳しくはこちら)ブロードウェイに通い始めた僕ではあるが、昔の映画を昔の楽曲を使って舞台化するという企画に、まず、安易さを感じた。それに加えて、誰がどんな風に演じ、どんな風に脚色されるにしろ、観る側がアステア=ロジャースの幻と比べてしまうのは必定なので、よほどの出来でない限り、評価が厳しくなるだろうな、とも思った。こうした不安は、そのまま、早々にクローズするのでは、という心配に変わる。で、プレヴュー開始早々にもかかわらず観に行ったというわけだ。
 観に行った動機がそんな風だったので、観終わって、ずいぶんホッとした。主演の 2人に華やかさが欠けるものの、まずまずの仕上がりだったからだ。なにより、肝心のダンスで観応えのあるシーンが 1つあったのがうれしい。
 と言っても、まだプレヴューだし、これからさらに練り上げられるだろうという期待も込めての「ホッ」だが。

 ところで、映画『有頂天時代』のストーリー(脚本/ハワード・リンゼイ Howard Lindsay、アラン・スコット Allan Scott)は、かなりいい加減なご都合主義。今の目で観ると緩〜いコメディだが、まあ、当時の観客にしてみれば、まずはアステア&ロジャースのダンスありきで、そこに大不況などなかったかのような華やかなシチュエイションが加われば、それで満足。穴だらけのストーリーなど気にもしなかったのだろう。
 細部に違いはあるものの、ほぼ、それにのっとって作られている『ネヴァ・ゴナ・ダンス』のストーリー(脚本/ジェフリー・ハッチャー Jeffrey Hatcher)も、かなり都合よく展開する。

 時は 1936年。所はペンシルヴェニア。ヴォードヴィルのダンサー、ラッキー・ガーネットは、資産家の娘マーガレットとの結婚式に遅れる。式は流れ、怒るマーガレットとその父。詫びるラッキーは、ギャンブル好きの本性を出して、 2万 5000ドル稼いだら結婚を許すという賭けにマーガレットの父を乗せる。ただし、ダンスには頼らないで、という条件つきで。
 ひとやま当てるためにニューヨークに向かったラッキーは、ダンス教室の雇われ教師ペニー・キャロルと出会い、ひと目惚れする。そこで見せたプロ並み(?)のダンス力を買われて、ペニーと組んで、あるアマチュア・ダンス・コンテストに出ることを勧められたラッキーは、賞金に惹かれ、出場することにする。しかし、アマチュアのコンテストだから本当は出場しちゃあいけないわけだし、だいたいダンスで稼ぐのは約束違反だし、さらには、ひと目惚れした相手と一緒に踊る目的が結婚するための金稼ぎってのもバレたら大変だし……、と問題山積みのところに恋のライヴァルとダンスのライヴァルも登場して、さて、ラッキーの恋とお金の冒険、いったいどうなる!?

 ここで、やはり都合よくストーリーが展開する『クレイジー・フォー・ユー CRAZY FOR YOU』のことを持ち出さないわけにはいかないだろう。
 『クレイジー・フォー・ユー』には、『ネヴァ・ゴナ・ダンス』との類似点が多い。

 1). ストーリーが都合よく展開するハッピーエンドのコメディである。
 2). 1930年代の作品(『ガール・クレイジー GIRL CRAZY』 1930年)を元にした新作として登場している。
 3). その元になる作品で使われた楽曲を中心に、同一の作者(アイラ&ジョージ・ガーシュウィン Ira & George Gershwin)による楽曲で構成されている。
 4). 主役の男女を中心にしたダンスが主体のミュージカルである。

 2). 3). の要素から、オープン当初は“過去のものを包装し直した”と言われたりもした『クレイジー・フォー・ユー』。 1). のご都合主義のストーリーも、『ネヴァ・ゴナ・ダンス』同様、往年のミュージカル・コメディを元にした作品ならでは、とも言える。
 そんなわけで、ヘタをすれば過去のヒット作の古臭い焼き直しになりかねなかったのだが、それがトニー賞作品賞を受賞するヒット作に仕上がった要因は、スーザン・ストロマン Susan Stroman 振付によるアイディア満載のダンスはもちろんだが、マイク・オクレント Mike Ockrent の快調な演出を引き出したケン・ラドウィグ Ken Ludwig によるギャグ連発の巧みな脚本の功績も大きい。
 ことに、ストーリーについては、ご都合主義はご都合主義なりに周到に伏線を張ってあるので、展開に不自然さが感じられない(周到に伏線が張ってあれば“ご都合主義”とは言わないのかもしれないが、まあ、次々に都合よく展開していく話、という風に理解してください)。特に、こういう古い題材を扱う場合は、脚本や演出に現代的な緻密さやスピード感がないと古臭さが際立ってしまう危険性があるから、こうした周到さは重要になってくる。

 具体的に見てみよう。
 『クレイジー・フォー・ユー』は、1930年代、ニューヨークで銀行を経営する母親の元にあってダンサーへの夢を捨て切れず、ブロードウェイの大プロデューサー、ザングラーに売り込みを繰り返している不肖の息子ボビーが、母親の命を受けてネヴァダ州のちっぽけな町デッドロックにある古い劇場を差し押さえに行き、劇場の所有者の娘ポリーに恋してしまう、という話で、大半(全 2幕 17景中 14景)がデッドロックで展開されるのだが、ボビーの後からデッドロックにやって来るニューヨーク関係者全員――テス率いる踊り子集団ザングラー・ガールズ、ザングラー、ボビーの婚約者アイリーン、ボビーの母――を、ボビーがニューヨークを離れるまでの第 1幕第 1〜 2景で登場させ、しかも、その間に、伏線となる人間関係をギャグの畳みかけの中で手短に説明してしまう。
 伏線となる人間関係とは、例えば、 a). テス率いるガールズはボビーを友達として応援している、 b). アイリーンはボビーにしつこく結婚を迫っている、 c). ザングラーは妻帯者だがテスと結婚したがっている、 d). ボビーにはダンスの才能があるがザングラーは歯牙にもかけない、 e). 強力な母親に頭を押さえられているボビーは自分の力で何かを達成したいと思っている、等々。こうした伏線があるので、その後の次のような展開が、観客には自然に受け入れられる。
 デッドロックで、ボビーはポリーの劇場を救うために変装してザングラーになりすましてショウを作ることにするのだが、 a). ボビーの願いに応じてやって来た派手なガールズが大挙して現れるので、ボビーの変装がバレずにすむ。そこに、 b). ボビーの正体を知るアイリーンがやって来てハラハラする。さらに、 c). テスを追ってホンモノのザングラーがやって来るので、ついにボビーの変装はバレる。そして、 d). ザングラーがボビーの才能に気づいて一度は失敗したショウをプロデュースしようと申し出る。 e). ショウが失敗に終わってニューヨークの母の元に帰ったボビーはもう 1度やり直そうとデッドロックに戻る。
 実は、ボビーがザングラーになりすます、というのは、かなりバカバカしい設定。しかし、それをバカバカしいと感じさせないのは――あるいは、バカバカしいけれども笑って許せるのは――ザングラーになりすます時に、ザングラー・ガールズが華やかに現れて、田舎町デッドロックを楽しいミュージカル的混乱に陥れるからで、しかも、そのガールズの出現が、観客にとって驚きではあるが、伏線があるので唐突ではない、つまり、それなりに納得出来ることだからでもある。その後の展開についても、それは同様だ。

 では、『ネヴァ・ゴナ・ダンス』の場合はどうか。
 残念ながら、その辺が弱い、と言わざるを得ない。“その辺”とは、つまり、伏線の張り方。
 まず、これは伏線ってわけじゃないけど、発端の、結婚式に遅れる、婚約者の父親と 2万 5000ドルの賭けをしてニューヨークに行くことになる、というエピソードからして、『クレイジー・フォー・ユー』の周到さと比べると、必然性に欠け、唐突に映る。『クレイジー・フォー・ユー』の場合、ボビーのデッドロック行きには、銀行家である母親から抵当物件の差し押さえを命じられるという筋の通った理由があり、さらに、その背景に、ザングラーにダンスを認められられずにがっかりしていたことと、しつこく結婚を迫るアイリーンから逃げたいという事情もある。いきなりの展開も、二重三重に納得出来るように作られているのだ。
 もっとも、『ネヴァ・ゴナ・ダンス』の展開も納得出来ないというわけではない。笑える話になっているし、軽い主人公だから、そういうこともあるかな、とは思わせる。ただ、緩いのだ。
 例えば、重要な脇役として主人公ラッキーの協力者になるホームレスが登場する。映画『有頂天時代』に登場するヴィクター・ムーア Victor Moore 扮する手品師に相当する役で、ある意味ラッキーの運命を左右する人物なのだが、そのホームレスや、実はラッキー同様プロだったことが後でわかるライヴァルのカップルなども、ほとんど伏線なく描かれるので、展開に厚みがなくなる。まあ、全体に楽しいので、観ている時はそれほど気になるわけでもないのだが、最終的には作品が薄味な印象になってしまうのは否めない。
 逆に言うと、『クレイジー・フォー・ユー』の脚本は、笑って観ている時には気づかないが、実はアイディアにあふれた凝った作りになっていて、それが、観終わった後の満腹感の一端を担っていたのだと思う。ダンスの見事さだけでは、あそこまで楽しくはならない。

 そんな風に、脚本に関しては甘さの残る『ネヴァ・ゴナ・ダンス』だが、売り物のダンス・シーンは、さすがにしっかり作られている。それも、小道具使いのうまかった『クレイジー・フォー・ユー』とはひと味違う、かなり正攻法で押した振付になっている(振付/ジェリー・ミッチェル Jerry Mitchell)。
 最大の見せ場は、第 1幕最後の「The Way You Look Tonight」。ラッキー(ノア・レイシー Noah Racey)とペニー(ナンシー・レメネイジャー Nancy Lemenager)が、建設中の高層ビルの屋上に登って、剥き出しの鉄骨の上で踊るシーン。屋上と言っても実際の高さは舞台の少し上でしかないが、足場が交錯した幅の狭い鉄骨を模したバーの上であるのは間違いない。そんなバーの上を 2人で跳び渡りながら舞う様(さま)は、アクロバティックでスリリングであるにもかかわらず、危なっかしさのかけらもなく、流麗で美しい。このナンバーのためだけにこの作品を観ても損はない、と思わせる出色の出来。
 ラッキーがニューヨークに到着した時のグランドセントラルステーションでのナンバー「I Won't Dance」も序盤の見せ場。ここでは小道具も使ってビートを強調。大人数が入り乱れて踊るコミカルな群舞になっていて楽しい(飲み終わったコーヒーの紙コップをラッキーがゴミカゴに蹴り入れるアクションは、毎回うまくいっているのだろうか)。
 主人公たちとは趣の違うライヴァルのカップルのダンスも、第 1幕、第 2幕のそれぞれでアクセントとなっている。演じるのは、ユージン・フレミング Eugene Fleming、ディードリ・グッドウィン Deidre Goodwin という、最近のブロードウェイのダンス物では主役級をこなす 2人。前述したようにドラマ的には芝居のしようのない役柄だが、ダンスのしなやかさ、ダイナミックさは素晴らしい。
 ペニーの姉貴分的役で登場するのは、ごぞんじカレン・ジエンバ Karen Ziemba。ダンサー出身のトニー賞女優らしいソロ・ダンスの見せ場が用意されていて、舞台を引き締める。もっとも、こうした作品に出演する彼女を喜んで観に来るだろうファンに対するサーヴィス場面、と思えなくもない。そして、ファンである僕はもちろんうれしい(笑)。が、(以下、余談だが)キャラクター的には『クレイジー・フォー・ユー』の 2代目ポリーを演じたこの人がペニー役でもいいんだけどなあと思うと、改めてダンサーにとって加齢は厳しい現実として立ち塞がるんだなと感じた(アニー・オークリーをバーナデット・ピータース Bernadette Peters があの年齢で演じられたのは、ダンサーの役ではなかったからだろう)。
 と、まあ、あの手この手でダンスを見せ、最後には全員揃っての“これでもか”な群舞があり(この趣向も思わず『クレイジー・フォー・ユー』と比べたくなって困るのだが)、その点では、『ネヴァ・ゴナ・ダンス』がブロードウェイにふさわしい本格的なダンス・ミュージカルに仕上がっていることは間違いない。

 ただ、初めに書いたように、主役の 2人が華やかさに欠ける気がした。
 それが、プレヴュー開始直後の余裕のなさから来ているのか、それとも彼ら自身にスター性がないのか……その辺は、 2度目の観劇で確かめてきたい。

 演出は『レント RENT』のマイケル・グリーフ Michael Greif。装置のロビン・ワグナー Robin Wagner、衣装のウィリアム・アイヴィ・ロング William Ivey Long、照明のポール・ギャロ Paul Gallo というデザイナー陣は、 3人とも『クレイジー・フォー・ユー』にも携わっている。

(1/7/2004)


 12月 4日に無事オープンした『ネヴァ・ゴナ・ダンス』。前回観て以降、順調に練り上がったようで、展開は淀みなく快調になり、それなりに楽しい舞台に仕上がっていた。ラッキーの蹴った紙コップは、全く危なげなくゴミカゴに入っていたし。
 目についた変更はと言えば、ラッキーがペンシルヴェニアからニューヨークに向かうところで見せていた、列車を模した男性アンサンブルのダンスがなくなったことで、これは、次がダンスの見せ場(グランドセントラルステーション)であることを考えれば、この省略は正解だろう。もう 1つ、第 2幕に、カレン・ジエンバがセントラル・パークでペニーを諭すシーンがあり、ここでジエンバがソロで踊った気がしていたのだが、ほとんど歌だけになっていた。これは僕の記憶違いかもしれないが、どちらにしても、上記のジエンバに関する記述の内、 [ソロ・ダンスの見せ場が用意されて] という箇所は、 [カンパニーをリードして踊るダンスの見せ場が用意されて] と訂正しておく。
 と、まあ、流れはよくなっていたものの、主演の 2人、ノア・レイシーとナンシー・レメネイジャーに華が足りないのは動かしがたく、これが 10年前のハリー・グローナー Harry Groener とカレン・ジエンバだったら、と思わずにいられなかった。
 もっとも、それも、脚本にアイディアが詰まってさえいれば、あまり気にしないで観ていられたのかもしれない。が、いかんせん、場のつなぎを、コメディ・リリーフ(ホームレス役ピーター・ゲレティ Peter Gerety や恋敵のバンド・リーダー役デイヴィッド・ピートゥ David Pittu)の個人技に頼らざるを得ない、という展開の中では、いろんなアラが目立ってしまうのだろう(コーラス・ボーイ 3人を引き連れて随所に現れ、怪しげな英語でコミカルに歌うピートゥの奮闘ぶりは“怪演”と呼びたくなるほどで、とりあえずは大受けだが、お寒い脚本の裏返しだと思うと痛々しく見えたりもする)。
 そんなわけで、『ネヴァ・ゴナ・ダンス』、トニー賞まで持ちこたえるかどうか微妙。興味のある方はお早めに。

(1/19/2004)

Copyright ©2004 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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