[ゆけむり通信Vol.53 & 54]

5/10/2003 & 8/4/2003
『ジプシー GYPSY』

ローズの抱えるアメリカの闇

 オーソドックスな語り口のミュージカル・コメディ。それが僕の抱いていた『ジプシー』の印象だ。
 バーレスクのスター、ジプシー・ローズ・リー Gypsy Rose Lee の自伝を元に作られたミュージカル『ジプシー』のブロードウェイ上演は、初演 59年(主演エセル・マーマン Ethel Merman)、最初のリヴァイヴァル 74年(主演アンジェラ・ランズベリー Angela Lansbury)と来て、僕が初めて出会ったのは、 89年オープンの 2度目のブロードウェイ・リヴァイヴァル版(主演タイン・デイリー Tyne Daly)。演出を、同作の脚本家であるアーサー・ローレンツ Arthur Laurents 自身が 74年版に続いて手がけていた。
 その観劇記に書いたあらすじを再録すると、次の通り。

 [典型的なステージ・ママが、自分の娘(姉妹の妹)をスターにしようと、脇役の男の子たちをスカウトして旅興行をする。ところが、思春期になった娘は男の子の 1人と駆け落ち。めげずに母親は、脇役だった引っ込み思案の姉を一座の中心に据える。が、うまくいかない。ところが偶然から、娘(姉)はバーレスクの世界でストリップのスターになり、自立していく。自分の役目が終わったと気づいた母親は、寂しさと娘への嫉妬を感じながら、もう一度力強く自分自身の歌を歌う。]

 渡米 3度目、英語の聞き取りもままならない時期だったので、イマイチわかってない感は残るが、ま、大筋はこういうこと。
 僕が観たことのある『ジプシー』は、その 89年リヴァイヴァル版の他には、 62年の映画版(主演ロザリンド・ラッセル Rosalind Russell)と 93年の TV版(主演ベット・ミドラー Bette Midler)だけだが、映画版の描き方が母親ローズ中心からややルイーズ(後にジプシー・ローズ・リーになる、姉妹の姉で、演じたのはナタリー・ウッド Natalie Wood)寄りに修正されてはいたけれども、どちらも基本的には 89年版と同じ印象。“オーソドックスな語り口のミュージカル・コメディ”だった。

 しかし、ブロードウェイで 4度目の上演となる今回のリヴァイヴァルは、少し印象が違う。サム・メンデス Sam Mendes による演出の感触がシリアスなのだ。

 それは、幕の上がった舞台の妙に寒々とした雰囲気に、まず表われている(装置/アンソニー・ワード Anthony Ward、照明/ジュールズ・フィッシャー Jules Fisher、ペギー・アイゼンハウアー Peggy Eisenhauer)。
 舞台奥には全面にレンガの壁が見えていて、中央からやや右寄りに大道具を出し入れするための大きなスライド式の鉄の扉があり、左側には外部に通じるドアがある。実はこれ、セットなのだが、本当に劇場奥の壁がむき出しになっているかのように見える。その無愛想な壁が薄暗い照明の中に浮かび上がる中、ドラマは劇中劇の様相で、舞台中央に出し入れされる小ぶりのセットの前で進行するのだが、転換時のセットの出し入れが観客の目にも見えるようになっているあたり、まるで、使われていない劇場で行なわれているリハーサルのよう。華やいだ雰囲気が全くないのだ。

 そんな空気の中で始まる、第 1幕第 1景。幕開きの舞台上では子供ショウのオーディションが行なわれていて、ジューンとルイーズの姉妹が歌い始めると、客席から「ルイーズ、もっと大きな声で!」と叫びながら女性が現れる。主役、母親ローズの強烈な個性を印象づける登場シーンだ。
 司会役の静止など無視して舞台に上がり、ガンガン自分の娘たちを売り込む。強気で、傍若無人で、でも、どこかコミカル。日本で言えば、今より若い頃の京唄子あたりの感じ。……のはずなのだが、今回のローズの演技は、これまで僕の観たローズたちに比べると、やや抑え気味。その分、大仰な言い回しから生まれるはずのコミカルさが乏しくなっている。
 なんとなく違和感を覚えながら、場面が変わって第 1幕第 2景。ここに来て、ああサム・メンデスの意図はそういうことか、と思い当たる描写に出会う。と言っても、脚本が変わっているわけではない。これまでは聞き流していた言葉が、突然大きな意味を持って引っかかってきたのだ。
 この景は、シアトルにあるローズの実家が舞台。もう子供ショウなんか相手にしていられない、もっと大きなヴォードヴィルの舞台に娘たちを立たせるのだ、と息巻くローズを、お前のバカげた夢に娘たちを巻き込むのは止めろ、と年老いた父が諌める。結婚して腰を落ち着けろ、と言う父。

 ローズ「3度も失敗して、もう懲りたわ。私は自分で楽しみたいの。あの娘たちも楽しませてやりたい、旅させてやって。ママが私にしてくれたように」
 「そしてお前はあの娘たちを捨てるんだ。お前のママがしたように
 ローズ「そんなことない!」

 今回、まるで初めて聞いたかのように強い印象で耳に飛び込んできたのが、このローズの母親の話だ。そして浮かび上がってくるのは、母から娘へ、娘からその娘へ、と繰り返される(ある種の)幼児虐待。
 イギリス人であるサム・メンデス演出のねらいは、こうしたローズの舞台に対する執念の背景に潜む精神的病理を強調することによって、舞台に対する愛情にあふれたブロードウェイ・ミュージカルの傑作と言われる『ジプシー』を、アメリカの抱える歪みが生み出すドラマとして描き直そうとするところにある。ローズの母親に触れたこの場面を観た瞬間、僕にはそう思えた。

 メンデスが正しく読み取ったように、脚本には、ローズの精神が病理をはらんでいることが初めから暗示されている。その病理の背景にアメリカという国の理想と現実の大きなギャップがあることすら、読み取ることが出来る。
 そうした『ジプシー』の抱える負の面をシリアスに描こうとする、メンデスの、ひんやりした調子の演出は最後まで続くのだが、しかし、しだいにそれが気にならなくなっていく。気にならなくなるのは、演出が作品とうまく溶け合うからではなく、作品が本来持っている力――とりわけ楽曲の力――に演出が飲み込まれていくからだ。
 例えば、前述の第 1幕第 2景でローズの母親の話が出た後に歌われるナンバー「Some People」は、ジプシーのようにさまようのを止めて落ち着けという父に対するローズの回答だが、家庭にいて幸せを感じる人はたくさんいるだろうが私は違う、と主張するローズの歌に、痛みは感じられない。確かに誇大妄想的ではあるが、しかし、そこに、芸能の道を歩む人々の生命力をより強く感じるのだ。その結果、直前にメンデス演出が描出してみせた闇が、かき消されてしまう。
 その「Some People」と、下の娘ジューンに去られたローズが今度は姉ルイーズをスターにするのだと歌う第 1幕最後のナンバー「Everything's Coming Up Roses」に対応するのが、フィナーレのナンバー「Rose's Turn」。ルイーズ(ジプシー・ローズ・リー)から独立を宣言され、前の 2曲で鼓舞してきた自分の生き方が破綻したことを悟ったローズが孤独を噛みしめながら歌う、作品中最も苦いナンバー。今回のメンデス演出の意図が集約されてしかるべきナンバーだ。しかし、その「Rose's Turn」ですら、がらんとした薄暗い舞台にローズが 1人で出てきた時の寂寞とした空気を吹き飛ばしてしまう力を持っている。それは単に、歌詞の内容が途中から、もう 1度自分の人生をやり直すんだ、というものに変わるからではなく、『ジプシー』という作品に込められたオリジナル・スタッフの思いが、この楽曲に集約されているからではないか。
 オリジナル・スタッフ(作曲/ジュール・スタイン Jule Styne、作詞/スティーヴン・ソンダイム Stephen Sondheim、脚本/アーサー・ローレンツ Arthur Laurents、製作/デイヴィッド・メリック David Merrick、リーランド・ヘイワード Leland Haywark、演出・振付/ジェローム・ロビンズ Jerome Robbins)の込めた思い。それは、傷だらけになりながらも苦難を乗り越えて生きていこうとする、ローズ(そこにエセル・マーマンを重ねることは見当違いではない)をはじめとする芸能の人々に対する愛情と敬意。その向こうにアメリカという国の闇を見ながらも、全体として肯定的(決して楽観的ではない)に描いたのは、もちろん興行的な思惑もあっただろうが、それ以上に彼ら自身が“この世界”を愛していたからだろう。
 その愛の深さにメンデスの世界観が太刀打ち出来なかった、というのが今回の『ジプシー』『ジプシー』はどう料理しても『ジプシー』なのだ。

 病欠バーナデット・ピータース Bernadette Peters 復帰の端境期(前日夜に久々に出演。僕の観たマティネーを休み、その夜は出演)だったため、ローズは代役。演じたモーリーン・ムーア Maureen Moore の印象は、かなりタイン・デイリーに近い。つまり迫力のあるオバサン。歌も演技ももちろんうまいが、華が足りない気がしたのは、メンデス演出のせいか。
 今後ピータースで観る機会があるかどうかわからないが、作品に対する上記の評価は変わらないと思う。

 準主役ルイーズ役のタミー・ブランチャード Tammy Blanchard についてひと言。
 日本でも NHKの BS2でオンエアされた『ジュディ・ガーランド物語 LIFE WITH JUDY GARLAND: ME AND MY SHADOWS』に、若い頃のガーランド役で出てた人。子供から成長していくガーランドと今回のルイーズのイメージがダブることもあっての起用だと思う。もとよりルイーズ役はむずかしいので評価が辛くなるのだが、 TVで観たほどの魅力は感じられなかった。舞台経験があまりないようなので、むしろこれからか。

 なお、演出の感触は違っていても、細かいアイディアは従来通り。 89年版の観劇記に書いた演出はほとんど踏襲されていた。そこには書いていないが、各景の設定をヴォードヴィルの演目表示的にボードで示すやり方も基本的には同じ(これらのアイディアは初演の脚本にある)。
 ただし、バーレスクの劇場で出会うストリッパーたちの仕掛けのある衣装(アンソニー・ワード Anthony Ward)には若干変更が加えられていた。

(6/7/2003)


 前回の観劇では予想通り見逃してしまったバーナデット・ピータース。 8月には無事に再会を果たし、そして、スターとしての魅力と実力に心を動かされた。予約までして観に行った甲斐があったというものだ。

 ところで、上記の観劇記の中で、 [今後ピータースで観る機会があるかどうかわからないが、作品に対する上記の評価は変わらないと思う。] と書いたが、その [上記の評価] というやつを要約して繰り返すと、次のようになる。

 イギリス人であるサム・メンデスは、ジプシー・ローズ・リーの母親ローズの、舞台に対する執念の背景に潜む精神的病理を強調することによって、舞台に対する愛情にあふれたブロードウェイ・ミュージカルの傑作と言われる『ジプシー』を、アメリカの抱える闇が生み出すドラマとして描き直そうとした。が、そのメンデスの思惑は、オリジナル・スタッフがこの作品に込めた芸能世界に対する愛の深さに飲み込まれ、最終的に舞台は、これまでの『ジプシー』同様、肯定的なテイストの仕上がりになった。

 そして、やはり、ピータースで観ても、メンデス演出の今回の『ジプシー』に対する評価は変わらなかった――と書こうとして、ふと考えた。
 確かに、根本的な評価は大きくは変わらない。が、この心の動かされ方は何なのだろう。スターの魅力、と言ってしまえばそれまでなのだが、それだけではない、華やかさの裏に何かゴリッとしたものを感じた気がする。
 バーナデット・ピータースと代役モーリーン・ムーアとの違いは、メンデス演出のせいばかりではなく、やはり女優としての本質的な華やかさにあった。サム・メンデス版にあっても、ピータースは華やかだったのだ。そして……、そして、その華やかさ故に、より、ローズの闇を感じさせた――つまり、メンデスの意図が“ある程度”表現出来ていた――そういうことなのではないのか。
 ピータースに動かされた心の中身を考えている内に、そんな気がしてきた。

 以下、実際に観てから時間が経ったが故の妄想かもしれないので、心して読んでください(笑)。

(2/19/2004)

 

 ――というところまで書いて、うっかり、そのままアップし、その後すっかり忘れてしまっていました(笑)。失礼しました。
 以下、続きですが、さらに時間が経っているので、その時に書こうとしたことと同じかどうか……(笑)。

 ピータース=ママ・ローズを観て思ったこと。それは、役者になる人たちの業の深さ。――と言ってしまうと、ひと言で片がつく感じで実も蓋もないのだが、まあ、そういうことだ。
 スターになりたいという夢(欲望)に突き動かされ、全てを犠牲にしながら、しかも夢は叶わない。そういう人間をブロードウェイの看板女優が演じる。そこに浮かび上がってくるのは、感傷的なフィクションではなく、演じている女優自身がもしかしたら辿ったかもしれない、もう 1つの、あり得た人生。彼女は、半ば舞台上の人物と同様の人生を送り、多くのことを犠牲にしてきたに違いない。それが、どこかの時点で幸いにもプラスに振れたが故に、かろうじて今この舞台に立っているのだ。そう思わせる舞台と現実の二重写し性が、演じる女優が華やかであればあるほど、何か恐ろしいもののように観る者の心に迫ってくる。
 もちろん、そうした要素はエセル・マーマンによる初演時から内包していたのだが、メンデス演出はそれを際立たせようとした。そして、それが、ピータースが演じることでより強く表われた、と。そう感じたのだと思う。

 すでにパティ・ルポン Patti LuPone 版も観た後に、こんな書き足しを完成させて、なんとも間抜けだが、ご容赦を(笑)。
 ルポン版の感想も近い内に。

(4/6/2008)

Copyright ©2003-2008 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

[ゆけむり通信Vol.53 INDEX]
[ゆけむり通信Vol.54 INDEX]


[HOME]