[ゆけむり通信Vol.51]

1/5/2003
『ラ・マンチャの男 MAN OF LA MANCHA』
1/7/2003
『ラ・ボエーム LA BOHEME』

芝居小屋のオペラ

 『ラ・マンチャの男』『ラ・ボエーム』と言えば、どちらも名作の誉れ高い、よく知られたミュージカルとオペラだ。そういう作品のリヴァイヴァル上演(『ラ・ボエーム』がトニー賞でリヴァイヴァル作品扱いされることが先日発表された)で、キャスティングと並んで目を惹くのは、演出と深く関係する装置だろう。
 過去の上演に倣うのか、新機軸を打ち出すのか。装置によって、舞台の印象はガラリと変わるはずだ。
 そして、ここに取り上げた両者は、共に斬新な装置をデザインした。結果、『ラ・マンチャの男』は作品の面白さが半減。逆に『ラ・ボエーム』は、作品に新たな息吹きが与えられた。
 その分かれ目はどこにあったのか、というのが今回の話。

* * * * * * * * * *

 『ラ・マンチャの男』を初めて観たのは、 1992年 5月 31日。故ラウル・ジュリア Raul Julia の主演だった。
 当時のリポートは、簡単ではありますが、以下の通り(一部編集)。

 [世界各地で何度も再演されている評価の定まったショウで、審判を待つ牢獄でセルヴァンテス Miguel de Cervantes y Saavedra が囚人を相手にドン・キホーテ Don Quixote の話を聞かせる、という構成の巧妙さにまず感心。大がかりな吊り上げ式の長い階段はあるものの、舞台装置は小規模でどちらかと言えば抽象的。それをうまく生かして、展開もスムーズ。思ったほど重厚ではなく、適度にユーモラスで観客を飽きさせない。「見果てぬ夢」という邦題で有名な「The Impossible Dream」はショウの中で聴くとやはり感動的で、他の曲もスペイン音楽の豊かな味をうまく取り入れていて、いい。
が、映画スターとしても知られるラウル・ジュリア Raul Julia(貫祿充分!)、シーナ・イーストン Sheena Easton(熱演だが力不足)、サンチョ役者として定評のあるらしいトニー・マルティネス Tony Martinez という知名度の高い配役、きらびやかなホテル内にあるマーキーズ MARQUIS という劇場の雰囲気等の要素から、野心的なところのない、専ら観光客向けの公演という風に映り、今ひとつノレなかった。]

 “世界各地で何度も再演されている”というのは当時の僕の推測(笑)。データはないので鵜呑みにしないでください。
 さて、最後を否定的に締めているが、全体で言えば、元々はオフで始まった(初演は 1965年 11月 22日開幕@ ANTAワシントン・スクエア。今回と同じブロードウェイの劇場マーティン・ベック MARTIN BECK に移ったのは68年になってから)作品らしい先鋭的な空気が、スターを集めたリヴァイヴァル上演の中からも感じられたわけで、松本幸四郎版も観たことのなかったこの時点で、それなりの感銘を受けたのは確か。

 さて、今回のリヴァイヴァル、キャスティングとしては、上記の 92年版同様、スター芝居的色合いが濃い。
 主演のブライアン・ストークス・ミッチェル Brian Stokes Mitchell は、『ラグタイム RAGTIME』以降客を呼べる男優として重用されている人で、前回のブロードウェイ出演も有名作品のリヴァイヴァル、 99- 00年シーズンの『キス・ミー・ケイト KISS ME, KATE』だった。加えて、ヒロインのアルドンザ役メアリー・エリザベス・マストラントニオ Mary Elizabeth Mastrantonio も、サンチョ役アーニー・ザベラ Ernie Sabella も、舞台並びに映画で知られた人。
 しかし、プロデューサーがそのキャスト陣だけでは心配だと考えたのか、あるいはイギリスから来た演出家(ジョナサン・ケント Jonathan Kent)が新たな演出に意欲を燃やしたのか、“小規模でどちらかと言えば抽象的”だった装置が、大がかりでド派手なものに変わっていた。
 どんな装置かと言うと――。
 幕が上がったステージ上が、巨大な金属製の円筒を縦に半分に割った内側といった様相。その円筒状にへこんだ壁に沿って、鉄製の階段が右手前下から左上に向かって、中央やや手前あたりまで伸びて切れている。なぜ途中までかと言うと、そこから先の上の部分は、左側の方からゴリゴリゴリと回ってきて、下から伸びている部分と合体するのだ。
 印象は“近未来ゴシック”。映画『エイリアン ALIEN』の宇宙船世界に似ていなくもない。
 この装置、さらにまだ動くのだが、いちばん驚いたのは、階段に沿って壁が上下に割れて上側に少し開き、円筒の外側に花の咲く道が出てきた時。その瞬間、この作品の抱える最もドラマティックな要素が壊れた。僕にはそう思えた。
 なぜか。

 『ラ・マンチャの男』の面白さの核心が“劇中劇中劇”という構造にある、というのはよく言われることで、その通りだと思う。老郷士アロンソ・キハーナが妄想で騎士ドン・キホーテになって冒険をするという“劇中劇”『ドン・キホーテ DON QUIXOTE』を、その作者セルヴァンテスの思想が時の権力から是非を問われるというリアルな劇の中に放り込むことによって、理想を追うドン・キホーテの物語がより切実に迫ってくる。
 この面白さは、舞台ならではのもの。と言うのは、 3つの世界(現実のセルヴァンテス世界、セルヴァンテスの語るキハーナ世界、キハーナが妄想するドン・キホーテ世界)を自在に行き来する、この“劇中劇中劇”は、同じ役者が一瞬にして別の役に成り替わるのを観客が納得する、あるいは、観客が納得することによって役者が一瞬にして別の役になる、という、役者と観客が直接向き合う空間で初めて成り立つからだ。つまり、役の転換=舞台上に展開している世界の転換は、観客の想像力を通じて行なわれるのである。
 ほとんど何もない狭い舞台を逆手にとって、観客の想像力を刺激して、目には見えない様々な世界をスピーディに行き来してみせる。この表現こそが、 92年ブロードウェイ版や松本幸四郎版を観た時に僕が感じた、『ラ・マンチャの男』の最もドラマティックな要素だった。ドラマを屋外の具体的な世界に持ち出した映画版が失敗に終わった理由の 1つは、その要素が失われたことにあるだろう。
 にもかかわらず、今回のリヴァイヴァルでは、わざわざ牢獄の壁を開いて外側の世界を見せた。作品の抱える最もドラマティックな要素が壊れたと感じたのは、そういう理由だ。
 では、そのことで舞台がダメになったかと言うと、そんなことはない。
 デイル・ワッサーマン Dale Wasserman の緻密な脚本は揺るがないし、「The Impossible Dream」に代表される楽曲群は繰り返されるたびに意味が違って聞こえるという重層性を持っていて魅力的。要するに、根本がしっかりしているので、多少の演出の変化ぐらいでは、ひどい代物になったりはしない。
 しかし、観客の想像力を刺激することによるスピーディな展開こそが『ラ・マンチャの男』の重層的な構造をスリリングにする肝だと考える僕には、大がかりな装置を使った今回の演出に、必然性を感じることが出来ない。そこに見えるのは、ロンドン流の“あざとい”こけおどしだ。
 その背景には、有名作品をブロードウェイでリヴァイヴァル上演することのむずかしさがほの見える。オリジナル新作に比べてリスクが小さいはずのヒット・ミュージカルのリヴァイヴァルですら、ブロードウェイで成功させるためには、なにがしかの付加価値を与えて観客の興味を引かなければならない。今回の装置は、そういう命題に対する回答の 1つなのではないか。
 だから、装置の派手さを喜ぶ観客も多くいる。『ジーザス・クライスト・スーパースター JESUS CHRIST SUPERSTAR』 2000年リヴァイヴァル版の時と同じように。
 しかし、内容と有機的に結びつかない装置は、僕にとっては空疎なだけだ。天井から下りてくる巨大なランタンや、『キャッツ CATS』の機関車猫を思い出させるドン・キホーテの馬の意味を、自由な魂のドラマの中で、いったいどう考えればいいと言うのだろう。
 役者は熱演で、観るべき白熱のダンス・シーンもあるが(振付/ルイス・ペイレイス Luis Perez)、そうした過剰な演出の中にあっては、印象が拡散してしまった。残念。

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 映画『ムーラン・ルージュ MOULIN ROUGE!』の監督バズ・ラーマン Baz Luhrmann 演出の『ラ・ボエーム』がブロードウェイで上演される。こんなにワクワクするニュースは最近なかった。
 あの夢幻的世界を、劇場の舞台で見せてくれるのだろうか? 見せてくれるとすれば、どんなやり方で? 興味は尽きない。

 『ラ・ボエーム』は 1度だけ観たことがある。 93年 1月 6日、メトロポリタン・オペラ・ハウス。映画『月の輝く夜に MOONSTRUCK』が好きだったので 1度観たいと思っていたなんて話はどうでもよくて(笑)、その豪華さ、特に第 2幕の大群集に驚いた。
 初演は 1896年。舞台はパリ。若く貧しい詩人ロドルフォとお針子ミミとの青春悲恋物語。  2人はめぐり合って恋に落ちるが、病に冒されているミミを貧しい自分では救えないとロドルフォが身を引く。ミミも彼の真情を知り一旦は別れるが、死に瀕して再びロドルフォの元を訪れ、見守られながら短い生涯を終える(『ムーラン・ルージュ』と酷似)。サブストーリーとして、ロドルフォと同居する画家マルチェッロとその元恋人ムゼッタとの“やけぼっくい”物語も描かれる。
 ラーマン版の舞台は 1957〜 1958年のパリ。通常オペラ版より半世紀とちょっと新しい、『レント RENT』を 20世紀末ニューヨーク版と考えるなら、その両者の中間に位置する時代設定。戦後の経済復興途上、アメリカナイズが始まっているパリ。モダンさとノスタルジーとが交じり合う、というところがラーマン好みなのではないだろうか。

 ブロードウェイ劇場を訪れるのは 11年前に『ミス・サイゴン MISS SAIGON』を観た時以来。半端にアール・デコを模したような外観が野暮ったい劇場なのだが、表を飾る赤い“La Boheme”のイルミネーションが蠱惑的で、期待がふくらむ。
 劇場に入ると、なんと、その大きな“La Boheme”のイルミネーションが幕の上がっている舞台上に置いてある……。と、よく観ると綴りが少し違う。舞台上にあるのは“L'amour”。似た言葉を似たデザインで仕上げたイリュージョン的イルミネーション。早くもラーマン・マジックが始まっている。
 そのイルミネーションを含め、今回も、ラーマンの演出を支えているのは、『ムーラン・ルージュ』の時と同様、緻密に計算された見事な装置(キャサリン・マーティン Catherine Martin)、衣装(キャサリン・マーティン、アンガス・ストラシー Angus Strathie)、照明(ナイジェル・レヴィングズ Nigel Levings)だ。
 装置は全体にくすんだ色調で、わずかにイルミネーションや看板などがアクセントになっている渋いもの。照明は淡く白っぽいものが主体で、陰影を強調するような、側面や背後からの照射が多く、ほの暗く寒々しい舞台に静謐な美しさを与える。
 これが基調。貧しいが純粋な若者たちの心情を反映するかのような、古き佳き時代のモノクロ映画的世界の現出だ。
 そんな中にあって、思わぬ金が手に入って主人公たちが街に繰り出す第 2幕だけは例外的に華やか。メットの舞台では高低差のある立体的なセットの上に数多くのエキストラが登場したが、ここでも、街中のカフェに人々が集まっての大騒ぎで、通りにはローラースケートで走る子供やマーチング・バンドも登場。周囲は深い陰影に満ちているが、複数のイルミネーションが点灯し、一際明るいカフェの店内に集う客の中の何人かが着ている赤や黄や白といった衣装が、集中した照明の下で鮮やかに際立つ。モノクロ画像の一部を人工彩色したかのように。
 こうした、ややノスタルジックで精巧な画像作りが、『ラ・ボエーム』の時代がかった悲恋物語を現代に成立させるために欠かせなかったのは明らかだ。

 しかし、今回の『ラ・ボエーム』の演出でより重要なのは、“人力主義”の強調だ。
 前述の“L'amour”というイルミネーションの裏側には主人公たちの住みかである屋根裏部屋があって、両者は可動式の台に載っているのだが、芝居が始まるに当たって、その台が向きを変える。その動力が、舞台に上がったスタッフの人力なのだ。以降、装置の移動はもっぱら人力。第 1幕と第 2幕の間、第 3幕と第 4幕の間の舞台転換など、幕を閉じることなく、スタッフが装置を動かす一部始終を観客に見せる。それも、字幕にわざわざ“Scene Change”と映し出して。
 また、第 1幕の後半、その台の上で演じられるロドルフォとミミの芝居に下から照明を当てる場面があるのだが、これも人力。ランタンのような手持ちライトで舞台に現れたスタッフが役者を照らすのだ。
 こうした装置や照明における“人力主義”の強調は、(オペラ・ハウスと比べての)劇場の規模の小ささや舞台の見た目のノスタルジックさとあいまって、劇場全体を“昔ながらの芝居小屋感覚”で包み込む効果を生んでいる。結果、ラーマン版『ラ・ボエーム』は、ちょうどシアター・コクーンや平成中村座で中村勘九郎らが演じる歌舞伎の古典がそうであるように、その“昔ながら感”とは裏腹に(あるいは、“昔ながら感”ゆえに、か)、イキイキと観客に迫ってくる作品に生まれ変わっている。

 ところで、ラーマン版『ラ・ボエーム』も、通常版同様イタリア語で上演される。そんなわけで、英訳を読ませるために前述のように字幕装置があるのだが、そこに映し出される字幕が面白い。
 まず、訳の言葉遣いが現代的。時にコミカルと言っていい。
 さらに、これがユニークなのだが、字幕の書体が多様。太かったり、丸っこかったり、斜めになっていたり。
 つまり、歌われているイタリア語はオリジナルのままでありながら、字幕では、かなりポップな表現をしているのだ。
 この字幕表現も、作品に現代感覚を与える点で大きな働きをしている(訳者のクレジットなし。ラーマン自身か)。

 なお、週 8回公演のオペラなので当然だが、ロドルフォとミミはトリプル・キャスト、マルチェッロとムゼッタはダブル・キャスト。
 僕の観た回は、ロドルフォがデイヴィッド・ミラー David Miller、ミミがエカテリーナ・ソロヴョーヴァ Ekaterina Solovyeva、マルチェッロがユージン・ブランコヴォーヌ Eugene Brancoveanu、ムゼッタがジェシカ・コモウ Jessica Comeau。
 意図的に役の年齢に近い若い役者ばかりを集めているのも、オペラとしては珍しいのかも。

 余談。
 貧しく若い青年たちの悲恋物語に豪華なオペラ・ハウスは似合わない、そう考えた末の今回のラーマン演出……と考えたかったのだが、ラーマン版『ラ・ボエーム』の初演は 1990年のシドニー・オペラ・ハウスらしいから、この推理は怪しいようだ(笑)。

(5/5/2003)

Copyright ©2003 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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