[ゆけむり通信Vol.48]

7/9/2002
『太平洋序曲 PACIFIC OVERTURES』

逆輸入が意義をより深めた

 2000年秋、東京の新国立劇場で上演された『太平洋序曲』日本語翻訳版について、その観劇記で、僕は次のようなことを書いた。

 ――翻訳版は、初演のブロードウェイ版が内包していたカルチャー・ギャップから生まれた“ズレ”を訂正することなくそのまま生かした。その意味は、初演版の“ズレ”を意識的に残すことで、アメリカ人の目を通して描き出された日本人の歴史物語を、日本人観客の前に、問題をはらんだ“新たなフィクション”として提出することにあったのではないか。
 少なくとも結果的には、日米のカルチャー・ギャップの“おかしさ”をあぶり出す舞台になっていた。――

 ところで、こんな意見がある。

 [「1 日本にあるものは本場のニセモノである。 2 日本の本場は欧米である。 3 ニセモノに飽きた日本人は、本場のものを日本に導入しようとする。 4 そして勿論、本場が日本に導入される時には、日本人に合うようなアレンジメントが考えられる。 5 そしてその日本的なアレンジに飽きた時、日本人は更なる本物志向を強める」
 日本の近代の歴史はこのことの繰り返しで、その意味で日本は、未だに「欧米を本場とする幻の近代化」を求めていることになる。]

 橋本治「浮上せよと活字は言う」(平凡社ライブラリー)からの引用で、服装のファッションについて語られたものだが、“洋服”同様外来の文化であるミュージカルについても、そのまま当てはまる。
 例えば――大まかに言うと――、「1」は戦前に浅草でエノケンやロッパがやっていた“アチャラカ”音楽劇、手本となったのは「2」本場アメリカの舞台ミュージカルとそこから派生した映画ミュージカル、「3」が 1963年の『マイ・フェア・レディー MY FAIR LADY』以降の欧米作品を翻訳上演しようとする動きで、その結果である舞台の多くが“芸術座的”な日本式スター主義ミュージカルに仕上がっているという事実が「4」。してみると「5」は、越路吹雪亡き後の四季に顕著な、限りなく“本場”に近いライセンス生産的翻訳舞台ということになるのか。あるいはそれも「4」の内で、“更なる本物志向”は『オケピ』『くるみ割り人形』のような“日本オリジナルでもブロードウェイ並の舞台が作れる”的作品にある、ということになるのか。
 ともあれ、本場でない日本における、ミュージカルの“本物志向”の堂々巡りは、間違いなく今も続いている(例のチャリティ・イヴェント、『Thank you! Broadway!』の発想の根本にあるのも、こうした屈折した“本物志向”の精神だろう)。

 日本ミュージカルのそんな状況の中で、“ホンモノ”である初演版の“ズレ”を意識的に残して新たな意味を生み出したように見える『太平洋序曲』翻訳版は、明らかに異質で、だから面白い、という面もある。

 そんなことを考えたりしながら、僕は、『太平洋序曲』翻訳版ニューヨーク逆輸入公演を観た。

 『太平洋序曲』日本語翻訳版のニューヨーク上演は 7月 9日から連続 5日間 5回。「リンカーン・センター・フェスティバル 2002」という夏のイヴェントの一環だ。
 劇場はリンカーン・センター内のエイヴリー・フィッシャー・ホール。こぢんまりした新国立劇場小劇場に比べるとはるかに大きいが、驚いたことに、装置は基本的に日本公演と同じ。なぜ、“驚いたことに”かと言えば、この翻訳版、客席中央を一直線につぶして傾斜した花道を作っているからだ。そこを通って、ペリーたちが上陸してくるのだが、その際、劇場の天井を全体を覆うように巨大な星条旗も出てくる。どちらも、そのまま。
 劇場のスケールは大きくなったものの、日本公演のままのコンセプトで、日本語版『太平洋序曲』はニューヨークに姿を現したのだ。

 で、まず言っておくと、この公演の客層は一般のブロードウェイ公演の観客とは違う。
 リンカーン・センターの限定公演に来るアメリカ人観客は、極端に言えば、お金持ちの(多くは年齢の高い)支援会員か、マニアックなミュージカル(演劇)好き。思想的には、概してリベラル。観劇姿勢は、ブロードウェイの観客に比べて、必ずしも“厳しい”とは言えないのではないか。むしろ、いろんな舞台を理解ある態度で観ようとしている気がする。
 それが、僕の捉えた観客のイメージ。

 さて――。
 前述した客席を分断する花道を含め、アメリカ人観客には充分にエキゾティックであろう、白を基調にした能舞台あるいは社殿を思わせるセット(周囲には本水)が、開幕前から客席の期待感を煽る。
 そこに現代的衣装のままの出演者たちが登場して空気は張りつめるが、舞台が一転、劇中劇的に江戸の時代にさかのぼり、ナレーターとして浪曲師・国本武春がコミカルな印象で歯切れよく登場すると、ワッと受けて雰囲気が華やぐ。
 全般に観客の反応はいい。よく笑う。新国立劇場で感じたようなかしこまった緊張感がないのは、ここにいる観客の多くにとっては、かつて観た作品のリヴァイヴァルだからだろうか。各ナンバーへの拍手も大きい。

 しかし、舞台が進んでいく中で最も僕の注意を引いたのは、ペリーを含めた“ガイジン”たちの異形の姿(異様に鼻の高い鬼のような形相をした怪人)や、彼らを“バーバリアン(野蛮人)”と呼ぶことに対する、けっこう派手な笑いの反応だ(もちろん“バーバリアン”という表現は英語のオリジナル版にあるものだが、役者たちはそれを日本語で「野蛮人」と表現する。観客が反応しているのは、舞台の中ほどにある大きな鳥居のような白い枠組みの上部に映写される字幕の「barbarian」という文字であり、セリフで聞くのとはまた別のニュアンスで受け取られるはず)。
 実は、こうした“ガイジン”の扱いについて、僕は、いくぶん緊張しながら見守っていた。と言うのは、このニューヨーク公演を観に来た僕の目的の肝が、ここにあったからだ。
 ニューヨーク公演を観に来た目的とは、『太平洋序曲』翻訳版が結果的に成し得ていた「ギャグにさえなりそうな“おかしな”表現による、単純なアメリカ批判でも、その裏返しとしての日本批判だけでもない、日米間のカルチャー・ギャップの“おかしさ”そのもののあぶり出し」が、一方の当事者であるアメリカ人に“ウケる”かどうかを見極めること、だ。そして、その見極めの最大のポイントは、ペリー提督たち“ガイジン”の描かれ方に対する反応。なぜなら、翻訳版の“ガイジン”の描かれ方にはアメリカ側からだけ描いたのでは見えてこなかったはずの日米間のカルチャー・ギャップが最も象徴的に表れているからであり(日本初演観劇記に詳述)、同時に、観客が最も敏感に反応するだろうと思われる当事者ネタだからだ。
 ここで誤解がないように言っておくが、僕は、日本人によって作られた作品がミュージカルの本場アメリカの観客に認められるかどうか、なんてことには関心はない。そういったことは、近代化以降の“本物志向”の精神をお持ちのみなさんにお任せしたい(同じ意味で、海外作品を日本で翻訳上演する際の、海外オリジナル版スタッフからの賛辞にも関心がない。そもそも、あれは、興行を成功させるための意図的な宣伝文句でしょ)。
 僕の関心は、自分が感じ取った『太平洋序曲』翻訳版の「日米間のカルチャー・ギャップの“おかしさ”のあぶり出し」が、アメリカ人にも“ウケる”ような普遍性のあるものかどうかを確かめることにあった。ニューヨーク公演は、その絶好の機会だったわけだ。
 そして、前述した通り、異形の“バーバリアン”に対して大きな笑い声が起こった。さらに言えば、それは、けっして失笑ではなかった。
 もちろん、その場にいた(通常の公演よりは多めの日本人も含む) 2000人近い観客は、先に書いたように必ずしも“厳しい”とは言えないし、日本文化にも関心を持っている可能性も高かったと思うのだが、それでも、アメリカ人に異形の“バーバリアン”という表現が“ウケた”ことは間違いない。
 その事実を元に、我田引水あるいは牽強付会気味に結論づければ、「翻訳版『太平洋序曲』は、日本とアメリカという歪みのある合わせ鏡の間を様々なカルチャー・ギャップが乱反射するような刺激的な舞台」だという、日本初演を観ての僕の“読み”は、的外れではなかった、ということになる。
 この時点で、僕の渡米観劇は報われたし、『太平洋序曲』翻訳版のニューヨーク公演が実現して本当によかったと思った。他の部分に目を向ければ、例えば、大きめの劇場の中でキャストの歌唱力の弱さが目につく場面があったりもしたが、僕はたいして気にしなかった。なぜなら、そうした、ある種の完成度をニューヨークの観客や評論家がどう評価するかは、僕にとっては関係のないことで、むしろ、日本語版『太平洋序曲』の面白さの本質がそんなところにないからこそ、僕はニューヨークまで観に来たのだから。

 ところで、コンセプトは日本公演の時のままだと書いたが、主人公の 1人、香山の妻たまてが自害するくだりや、明治維新から現代まで一気に駆け抜ける最後のナンバー「Next」の内容などに、若干の改訂が見られた。その意味などについては、新国立劇場での再演を観てから書いてみたいが、とりあえず「Next」について。
 太平洋戦争や原爆、経済摩擦等々、日米にとって刺激的な事件を時系列に沿って高速で羅列していく、カンパニー全員によるナンバーで、書いたのはアメリカ人(スティーヴン・ソンダイム Stephen Sondheim)であるにもかかわらず、アメリカ人観客を前に日本人キャストが歌うと彼我の“ズレ”が浮き出て、日本で観た時とは別の緊張感が走る。日系人、東洋人キャストが歌ったオリジナル版初演の舞台でも、同じような雰囲気が生まれたのだろうか。
 日本公演ではイメージしにくいことかもしれないので、参考までに記しておく。

(10/20/2002)

前回の『太平洋序曲』観劇記はこちら、この次の『太平洋序曲』観劇記はこちらを。

Copyright ©2002 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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