[ゆけむり通信Vol.44]

10/7/2001
『ザウ・シャルト・ノット THOU SHALT NOT』


ストロマンの再挑戦

 自分の中に抱えている表現欲求と、自分の磨き上げてきた表現技術との間に、テイストの違いがある。
 ――ってことなんじゃないのかなあ。

 スーザン・ストロマン Susan Stroman。
 91年夏に、その振付作品、『アンド・ザ・ワールド・ゴーズ・ラウンド AND THE WORLD GOES 'ROUND』(演出スコット・エリス Scott Ellis)をオフ・ブロードウェイで観て以来、気になる人物だった。――などと今さら僕が改めて言うまでもない。
 翌年のトニー賞ミュージカル作品賞受賞作『クレイジー・フォー・ユー CRAZY FOR YOU』(演出マイク・オクレント Mike Ockrent)が決定打となって、以降、大型リヴァイヴァル『ショウ・ボート SHOW BOAT』(演出ハロルド・プリンス Harold Prince)(94年)、マディソン・スクエア・ガーデンの『クリスマス・キャロル A CHRISTMAS CAROL』(演出マイク・オクレント)(94年)、ヒット映画の舞台化『ビッグ BIG』(演出マイク・オクレント)(96年)、オリジナル企画『スティール・ピア THE STEEL PIER』(演出スコット・エリス)(97年)、と、次々と話題作に振付家として関わり、初めて演出にも挑戦した『コンタクト CONTACT』(99年)がそのシーズン(99- 00年)のトニー賞作品賞を受賞。その後、立て続けに手がけた演出/振付作品、リヴァイヴァル『ザ・ミュージック・マン THE MUSIC MAN』(00年)、『プロデューサーズ THE PRODUCERS』(01年)が連続してヒット。ことに後者は、昨シーズン(00- 01年)のトニー賞作品賞を得て、彼女自身も演出賞を受賞(注)
 表舞台に登場して 10年で、文字通り、ブロードウェイ一の売れっ子演出家/振付家となった(ストロマンは、他にオペラやバレエ、コンサートも手がけているが、僕は観ていないので、とりあえず話はミュージカルに限った)。

 ところで、約 1年半前、『コンタクト』の観劇記の最後に、僕はこう書いた。

 [パーソナルな部分を、これまでになくハッキリ見せた演出作品が好評を得たことで自信を持ったに違いないストロマンが、今後どんな舞台を作り出すのか、楽しみだ。]

 その“パーソナルな部分”について、同じ観劇記の中で、こう書いている。

 [抑圧された男女の愛――これまで誰も言及したことがないのではないかと思うが、ストロマン作品の根底には、間違いなくこれがある。
 (中略)
 『スティール・ピア STEEL PIER』などは、ある意味、全編その空気で満ちていたと言ってもいい。ただし、ユーモラスな味つけに乏しかったので色合いが違って見えたが。
 おそらくは彼女の中にある資質なのだと思うが、そうした屈折した要素が、ストロマンの振付を、ただ引き出しの多いだけの器用なもので終わらせていないのだ。]

 『クレイジー・フォー・ユー』に代表される華やかな振付の背後に、そうした陰影に満ちた部分があることを確信したのは『コンタクト』でだが、上でも触れているように、『スティール・ピア』には、その気配が濃厚だった。しかし、その時は、題材選びの失敗だろうと思っていた(なので、 [ユーモラスな味つけに乏しかったので色合いが違って見えた] なんていう裏返しの見方をしている)。
 今、こうして、『ザウ・シャルト・ノット』が登場してみると、その流れがよくわかる。『クレイジー・フォー・ユー』から『プロデューサーズ』に到るメイン・ストリームとは別系列の、ストロマンのホンネ路線(この路線の作品には、ストロマンが企画そのものを起こしたことを示すクレジットがプレイビルにある。以下、タイトルの後のカッコ内参照)。
 それまでの実績(『ビッグ』以外はみんなヒット)を背景に、商業ペースで果敢に自らの表現欲求にストレートに挑んだのが、『スティール・ピア』(concieved by Scott Ellis, Susan Stroman and David Thompson)。それが失敗に終わったので、リンカーン・センターと組んで、少し装いを変えた実験作として提出したのが、『コンタクト』(by Susan Stroman and John Weidman)。その予想以上(たぶん)の成功を受けて、再度リンカーン・センターの協力を得て、ブロードウェイの劇場でもう 1度直球勝負に出たのが、『ザウ・シャルト・ノット』(by Susan Stroman, David Thompson and Harry Connick, Jr.)。
 ストロマンの再挑戦、実るのか。

 まず言っておくと、観たのは、まだプレヴュー公演。正式オープンは今月 25日だった(1月 6日までの限定公演)。なので、僕の観た後も、どんどん手直しがなされたことだろう。
 しかし、この段階で、解決のむずかしい大きな問題があるように見えた。

 「Thou shalt not」――聖書などに見られる古い言い回しで、日本語に訳すと、「汝〜するなかれ」。例えば、「汝、姦淫するなかれ」、とか。
 ストーリーはこうだ(原作はエミール・ゾラ Emille Zola が 1867年に書いた「Therese Raquin」という処女小説らしいが、その時代と場所の設定を変えてある)。

 第 2次大戦が終わって 2年経ったニューオーリンズ。フレンチ・クォーターのジャズ・クラブに、出征していたピアニスト、ローランが久しぶりにやってくる。仲間に促されて思い出話を始めるローラン。女の話だと聞いて、よくある話だろと茶化す仲間に、いや、あんな女は他にいない、と沈痛な表情になる。その女とは……。
 ……テレーズ。船でニューオーリンズに戻ってきたローランが、庭で洗濯物を干しているのを見かけて惹かれた若い女。
 話しかけながら近づいたローランは、その母親に追い払われそうになるが、偶然にも、そこは、昔なじみのカミーユの家だった。病弱で仲間の少ないカミーユはローランに格別の好意を示し、そんな息子を溺愛する母親は、ローランを受け入れ、彼女の経営する居酒屋でピアノを弾かせる。それをいいことに、テレーズを口説くローラン。
 すげなくするテレーズに、母親の目を気にしているのか、と問うローラン。彼女はホントの母親じゃないわ、と答えるテレーズ。
 「彼女はカミーユの母親。そしてカミーユが私の夫なの」
 身寄りのないテレーズは、養ってもらう代償としてカミーユと夫婦になっていたのだ。
 この告白で堰を切ったようにあふれ出す欲情。テレーズたちの寝室で求め合う 2人。
 周りの目を盗んで関係を続けるローランの心に、テレーズは、カミーユ殺害の芽を植えつける。そして、マルディ・グラの日。カミーユを連れ出した 2人は、祭の喧騒を離れて湖にボートを漕ぎ出し、事故に見せかけてカミーユを湖に突き落とす。(第 1幕終わり)
 死体安置所に出向いて、カミーユの死体を確認するローラン。息子の死にショックを受けて倒れ、半身不随、言葉も不自由になる母親。カミーユの葬儀。そしてテレーズとローランの結婚。
 晴れて夫婦となり、堂々とベッドイン出来るようになった 2人だったが、そこにちらつくカミーユの影。テレーズは怯え、ローランはいらだつ。半ば植物人間化しているのをいいことに、母親の前でもカミーユのことで言い争う 2人。
 が、ある日、親しい人たちが集まっている居間で、母親がスクラブル(アルファベットを並べて言葉を作るゲーム)の牌を動かして 2人の悪事を暴こうとする。すんでのところで食い止めるローラン。客たちが帰った後、緊張に耐えきれなくなったテレーズは、自らを刺して死ぬ。
 そして……、仲間の前でこの話をし終えたローランも、取り出した拳銃で自分の頭を打ち抜く。

 ここで思い出すのは、やはりニューオーリンズを舞台にした作品――『ジェリーズ・ラスト・ジャム JELLY'S LAST JAM』(92年)や『マリー・クリスティーン MARIE CHRISTINE』(99年)のこと。どちらも、現世的には幸福になっていくとは言えない主人公の運命に、生誕地ニューオーリンズに息づく、ヴードゥに象徴されるアフリカ発カリブ海経由の異教的な力が強く影を投げかけていて、それを描く音楽やダンスの濃密さが、そのまま作品の魅力になっていた。
 『ザウ・シャルト・ノット』の音楽を書いた(作曲・作詞・編曲)のは、ストロマンや脚本のデイヴィッド・トンプソン David Thompson と共に企画を練ったニューオーリンズ出身の売れっ子ジャズ・ミュージシャン、ハリー・コニック・ジュニア Harry Connick, Jr.。出来上がった楽曲は魅力的で、劇的な効果をていねいに考えた重層的な編曲も含めて、音楽全体の表情が豊か。なにより、作り手がネイティヴなので、ニューオーリンズ色が借り物でなく、劇場音楽の専門家がそれ風に作った音楽とはひと味違う、懐の深さがあるのがいい。
 そうした音楽のよさにもかかわらず、舞台全体は、躍動しない。ことに第 2幕は、ほとんど停滞している印象だ。

 目に見える最大の問題は、物語とダンスとが必ずしも有機的に結びついていない、というところにある。ストロマンが、振付家としての能力を最大限に発揮して作り上げたに違いない、熱のこもったダンス・シーンが数多くあるのだが、それらが、どうにも空回りしているように見えてしまうのだ。
 例えば、テレーズとローランの最初のベッドインは、ベッドのフレームを巧みに使ったアクロバティックにしてセクシャルなダンスで表現されて見応えがあるし、初登場シーンのテレーズの、鬱屈して解放されたがっている心をせつなく表わす裏庭でのソロ・ダンスも、洗濯物の布を使ったアイディアによって、抽象的すぎない生々しい魅力を持ったものに仕上がっている。しかし、こうした芸術性の強い作品にあっては、例えば『クレイジー・フォー・ユー』『プロデューサーズ』のようには、ショウ場面が独立して存在しない。言い換えると、前後の話と関係なくショウ場面の面白さを楽しむということが出来にくい。したがって、ショウ場面には、それ自体の完成度と同時に、流れの中での物語との有機的な結びつきが、より強く求められる。そこがうまくいっていない。
 物語は、決して清教徒的な倫理劇ではないはずだ。もしそうだとすれば、ニューオーリンズを舞台にした理由がわからない。ハリー・コニック・ジュニアの音楽でやりたかったから? そんな安直な理由じゃないだろう。マルディ・グラの場面で出てくるヴードゥ的な雰囲気といい、死者として立ち現れるカミーユの存在といい、やはりニューオーリンズという土地の醸し出す“混沌”の香りを意識しての舞台設定だと考えるのが妥当だろう。であるなら、ねらいは、“地獄の淵の恋”とでも呼ぶべき底知れない情欲を描くところにあったと思う。
 しかし、ストロマンの振付は、そうした物語の中にあっては、凄みが足りない。表現の仕方は高度で、けっして単純なわけではないのだが、しかし、わかりやすいのだ。ダンスの意味が、感情より先に頭で理解出来てしまう。よく言えば、明快ということなのだが、その明快さが、ここでは裏目に出ている。
 この問題、実は、ホンネ路線の前々作『スティール・ピア』にもあった。そして、成功した前作『コンタクト』の中にもあったのだ。

 『スティール・ピア』の場合は、マラソン・ダンスという設定が舞台上のダンスのイメージを限定してしまうという企画から来るミスが、まずあった。観劇記から引用する。

 [このミュージカルの最大の誤算は、素材の選び方にあったのではないか。
 ダンス・ミュージカルにするためにマラソン・ダンスを選ぶ。そのせいで逆にダンス場面の印象が広がりを失ってしまった。
 ミュージカルにおけるダンス場面の魅力は、ドラマ部分からの非日常的な飛翔にある。それが、マラソン・ダンスというドラマの側の枠でイメージを限定された。いくら踊っても、それは悲壮なマラソン・ダンスという競技の中のことなのだ。
 (中略)
 ドラマを離れて全員が開放的に踊るシーンが 1つでもあれば。
 (中略)
 そんなシーンが 1つあるだけで全体の印象がずいぶん変わると思うのだが。]

 この時点で、僕はまだ、ストロマンの振付に華やかさを求めていたので、“非日常的な飛翔”の方向性を明るい方に考えているが、裏返して考えると、現実的なドラマ部分から深い混沌への“非日常的な潜行”となる可能性だってある。今思えば、『ザウ・シャルト・ノット』同様、『スティール・ピア』のダンスに求められていたのは、より深く暗い世界への“潜行”だったのだ。それが欠如していたために、いくつか見応えのあるダンス・シーンを持ちながら、全体としては中途半端な舞台になってしまった。と、そういうことだろう。

 そして、『コンタクト』。こちらも観劇記(2度目)から。

 [第 3部にやや難あり、という印象も同じ。ダンサーたちが踊っている間、バーテンダーと話していたり、思い悩んだりしている主人公の男(ボイド・ゲインズ Boyd Gaines)が(まあ、ドラマ的には意味がなくはないものの)、手持ち無沙汰な感じに見えてしまうのが惜しい。それに、踊れない男を演じるゲインズが本当に踊れないのが、やはりもどかしい。]

 第 3部を冗長に感じた原因。直接的には主人公の男が踊れなかったからだが、それ以前に、主人公の孤独感を描ききるだけの深みのあるダンスが、あそこになかった、ということがあるのではないか。
 さらに、あえて邪推すれば、『コンタクト』が短い作品による 3部構成だったのは、自身の“パーソナルな部分”をストレートに映し出す“長編”の物語を支えきるだけの自信が、振付家としてのストロマンに、まだなかったからなのではないだろうか。

 振付家としてのストロマンの資質。それは、やはり、ブロードウェイの伝統にのっとった華やかさと洗練の中にある、というのが現時点での僕の結論。
 そのことは、前述の『マリー・クリスティーン』の演出・振付を手がけたグラシエラ・ダニエル Graciela Daniele(彼女もまた、ストロマン同様、振付家から演出家になった)と比較してみれば、よくわかる。
 [ヒスパニックの血を引く彼女(ダニエル)が見つめているのは、欧米の近代合理主義が置き去りにしていった、人間の中に太古から宿る、例えば情念とでも呼ぶべきようなもの。それを、説明したり解き明かしたりするのではなく、ダニエルは、歌と踊りによってもう 1度舞台上で呼び覚まそうとしている。僕にはそう思える。](ダニエル作品観劇記より)
 といった“わからない”魅力が、ストロマンには、ない。あるいは、今のところ、それを自分で把握しきれていない。でなければ、表現する方法を持っていない。
 その理由が、彼女が(ゲルマン系?)アメリカ白人であることによるのかどうかはわからない。が、ニューオーリンズという文化が複雑に交錯する土地を舞台にする作品を手がけるには、彼女の中に蓄積されている文化が、例えばグラシエラ・ダニエルと比べると、重層性に乏しい、ということは言えそうだ。
 正式オープンした『ザウ・シャルト・ノット』、 10日後に観るが、結果はともあれ、再挑戦するスーザン・ストロマンの心意気やよし。だが、進むべき道は他にあるのかも。

 出演者では、カミーユの母親を演じたデブラ・モンク Debra Monk が素晴らしかった。これまで、そのよさが今ひとつわからなかったのだが、今回、これまでにない柔らかい歌い方を聴いて納得した。うまい。押し出しの強さだけじゃなかったんだ。
 ヒロイン、テレーズを演じるのは、『フォーティセカンド・ストリート 42ND STREET』のペギー・ソーヤー役、ケイト・レヴァリング Kate Levering。難易度の高いダンス・ナンバーも数多くこなし、大熱演。
 ミュージカル初出演作『ザ・ミュージック・マン』から移ってきたローラン役、クレイグ・ビアーコ Craig Bierko は、歌は問題なし。だったが、アクション・シーンでノドを打って、一時的に歌えなくなったというニュースを見た。大丈夫か。ダンスは、うーん。周りがうまいからなあ。
 というわけで、アンサンブルのダンスは見事。

 中心軸のズレた 3重の回転舞台を頭脳的に使って、人物やセット(特にボート!)を巧みに動かす装置のアイディアが素晴らしい(トーマス・リンチ Thomas Lynch)。
 照明も、この段階ではやや精密さに欠けるところもあったが、微妙なニュアンスに富んで、表現力豊か(ピーター・カゾロウスキー Peter Kaczorowski)。

 (注)トニー賞振付賞は、対象外の『クリスマス・キャロル』以外で全てノミネーション、『クレイジー・フォー・ユー』『ショウ・ボート』『コンタクト』『プロデューサーズ』で受賞。なお、『ザ・ミュージック・マン』のノミネーションは『コンタクト』と同年。

(10/31/2001)

Copyright ©2001 Masahiro‘Misoppa’ Mizuguchi

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