[ゆけむり通信Vol.35 & 42]

8/31/1999 & 2/11/2001
『フォッシー FOSSE』


スターはいらない

※過去の同演目観劇記は、 1 2、でお読みください。

 というわけで(笑)、第 2幕から観ることになった 4回目の『フォッシー』
 4月までのウリは、“スター”ベン・ヴェリーン Ben Vereen の期間限定参加だが、それが必ずしもいい方向に働いているとは言いがたい。客足が落ちてきた時にスターの名前でチケットの売れ行きを回復しようというのは、ショウビズの論理として理解は出来る。しかし、作品の質から言って、結局『フォッシー』にスターはいらないのではないか。久しぶりに観て、大いに楽しみはしたが、そう強く思った。

 [おそらく、トニー賞発表を挟んで前後それぞれひと月が、精神的にも肉体的にもキャストが最も充実する時だろう。
 舞台には旬がある。これだけレヴェルの高いダンス・ミュージカルの場合、その旬も短い可能性が高い。観るなら早いうちに。]
 と書いたのが一昨年の 5月。 6月初めのトニー賞授賞式(作品賞受賞)から約 3か月後(1999年 8月 31日)に観た時(3回目)には、キャストが 7人入れ替わっていたものの、トニー賞を獲った勢いもあってだろう、まだまだ超一級と呼んでいいパフォーマンスを展開していた。
 当時のメモには、「芸術と娯楽のバランス」「ダンサー同士の息」といったことが書いてある。
 非常に難易度の高いダンスでありながら誰にでもわかる面白い表現として現れること、そうした表現を可能にしているダンサーたちの精妙なタイミング感覚(と、それを支える鍛錬を積んだ肉体)、などに感嘆しているわけだ。

 それから約 1年半経った今回(2001年 2月 11日)。プレイビルの表紙も替え、舞台構成にも一部手を加えて、ベン・ヴェリーンの存在を前面に押し出したヴァージョンは、(第 1幕を観ていないことには目をつぶって。笑)全体として観ると、なんだか煮え切らない。『ジェリーズ・ラスト・ジャム JELLY'S LAST JAM』の時と違って、今回のヴェリーンはハマりきらなかった。
 問題は 2つ。
 1). 主人公は出演者ではなく今は亡きボブ・フォッシーである、という作品のコンセプトに、今回のヴェリーンのあり方が反すること。
 2). ヴェリーン自身のダンスの力が衰えていること。

 再び一昨年 5月の観劇記から引用する。

 [ダンサーたちの演技も安定し、充実した舞台に仕上がってみれば、作者たちの意図もはっきり見える。
 第 1幕冒頭と第 3幕のフィナーレ前にブックエンドのように置かれているのが、作品中唯一の歌だけのナンバー「Life Is Just a Bowl of Cherries」。“人生は鉢に盛られたチェリー(手つかずのものという意味か)みたいなもの。あんまりマジメに考えない方がいい”という、「All That Jazz」に通じる、悲観と楽観の入り交じったフォッシー好みの人生観がほの見えるこの歌が、全体の気分を決定する。
 そして、第 1幕のこの歌の後に来るのが、「Fosse's World」と題された、“フォッシー・スタイル”のダンスの断片をモンタージュ的に並べてみせる夢幻的なナンバー。これに対応するのが、終盤の「Mr. Bojangles」。圧倒的なフォッシーのダンス世界が繰り広げられた後に登場して、老ダンサーの哀感を静かに、しかし感動的に描きだす「Mr. Bojangles」は、夢の終わりを告げるかのように名残惜しげなナンバーだ。それに続けて再び「Life Is Just a Bowl of Cherries」が歌われる時に、観客は気づく。
 ああ、今観てきたこの舞台は、死の間際にフォッシーの脳裏に去来した彼の夢だったのだ、と。ナンバーとナンバーのつなぎの部分にも、そうした空気が色濃く漂う。
 終盤に、自己告白的映画『オール・ザット・ジャズ ALL THAT JAZZ』のナンバーが並ぶのも、明らかにそういう意図からだろう。

 しかし、そうした感傷的な気分とは別に、この作品には明らかに前向きな意図がある。それは、フォッシーが絶えず行なってきたこと――伝統的な芸の今日的再生――を受け継ぐことだ。
 この舞台で行なわれているのは、フォッシーの手がけたダンスのノスタルジックな“再現”ではなく、フォッシーの業績を、現代のダンサーの肉体を使って再確認する作業だと思う。だからこそ、我々観客も、客席で観ていながら緊張し、充足感を得ることが出来るのだ。]

 こうした作品にあって、スター然として登場するヴェリーンの存在は、緊張感を乱す異物的印象。
 細かく検証してみよう。

 僕の観た後半で言えば、ヴェリーンは次のシークエンスに出てくる。
 第 2幕開幕の楽しげな『くたばれ!ヤンキース DAMN YANKEES』の野球場面に続く、「Nightclubs」と題された、フォッシー(一部、最初の妻ナイルズとのデュオ)が様々な TVショウに出演した時のダンスを再構成した場面。
 「Dancin' Dan」(「Me and My Shadow」)という、女性ダンサー 2人を従えたトリオで演じる場面。
 3分の幕間(以前は、 2度ある幕間は共に 10分ずつだったが、 15分と 3分に変わっている)の後の第 3幕は、初っぱなの 2つのナンバー「Glory」(ダンサーたちのバックで歌)と「Manson Trio」(女性ダンサー 2人を従えた歌とダンス)に連続して登場。
 「Razzle Dazzle」で、再び女性ダンサー 2人を従えて。
 「Mr. Bojangles」で年老いたボージャングルズを演じた後、そのまま「Life Is Just a Bowl of Cherries」の歌へ。

 これを、従来の舞台(とりあえず僕の観た中で一番近い一昨年 8月末の舞台)と比べると、こう変化している。
 まず、「Nightclubs」は、最も古い時期のフォッシーのダンス・スタイルを再現する場面で、元々は 15人のダンサーが登場。バックに流れる 2曲の楽曲を 2人の役者が歌っていたいたが、あくまで歌は従。それが今回は、楽曲が 1曲になり、もっぱら歌うヴェリーンを含め、登場するのは 8人(内 3人は、次のナンバー「Steam Heat」を踊るためにだけ出てくる)。ヴェリーンの歌が主になった印象だ。
 「Dancin' Dan」(「Me and My Shadow」)、「Glory」、「Manson Trio」の 3曲は、全てオリジナル・キャスト、ユージン・フレミング Eugene Fleming の役の入れ替わり。タッパもあり、体の動きもシャープで、歌もきちんとこなすフレミングは、この舞台ではスコット・ワイズ Scott Wise らと共に別格扱いされていた、脂ののりきった実力派で、力強さとにじみ出る色気があった。それに替わって登場すると、ヴェリーンは、ある種のアクの強さで勝負しているようなところがあり、それがスターとしての存在感につながってもいるわけだが、逆に肉体的な力の衰えを感じさせる結果になっている。特に、女性ダンサーを従えてのナンバーでは、きっちり踊らなさ加減が気になった(「Glory」と「Manson Trio」は、元の舞台『ピピン PIPPIN』でのヴェリーンがオリジナルなんですけどねえ)。妙にフェイクする歌も、あまり魅力的には聞こえない。
 次の「Razzle Dazzle」は、元々は(今も出ているオリジナル・キャストの)スコット・ワイズが演じていた役で、ここでも前の 3曲と同じことが言える。ワイズは超一流の“脇役”で、(ブロードウェイにあっては)主役を演じるべき“何か”が不足しているのだが、折り紙付きのダンサーとしての力はもちろん、それなりの華もある。だから、冷静な目で観ると、ヴェリーンの役作りの急造な感じがわかってしまうのだ。
 さて、最大の問題は、「Mr. Bojangles」から「Life Is Just a Bowl of Cherries」へのつながり。「Mr. Bojangles」の年老いたボージャングルズ役と「Life Is Just a Bowl of Cherries」の歌手とは元々は別のキャストにふられていた。なぜなら、「Mr. Bojangles」の老ダンサーの哀感が名残惜しげに夢の終わりを告げ、それを優しく見送るように「Life Is Just a Bowl of Cherries」が歌われてこそ、最後にフォッシーの姿が浮かび上がるからで、その 2つの役を同じ人間が演じてしまうと夢は混濁したままで、立ち現れるべき主人公の姿は曖昧に消え去ってしまう。このあたり、ヴェリーンを目立たせようとするあまりの勇み足だろう。
 さらに言えば、フォッシーの夢から現実に戻ったダンサーたちが、踊る喜びを誇らしげに発散するフィナーレの「Sing,Sing,Sing」に、ヴェリーンは登場しないのも、作品が前向きさを失ったようで、納得がいかない。『フォッシー』は、単なるノスタルジーをウリにした舞台ではないなずなのだ。

 要するに、元々、『フォッシー』という舞台は、スターの存在で客を呼ぶというような成り立ち方をしていないのだ。
 たとえスターであっても、アンサンブルの一員として、そのダンスや歌=芸の力、それに輝く個性までもを、フォッシーの難易度の高いダンス・ナンバーを際立たせるためにだけ発揮して初めて、存在が許される。それが『フォッシー』のユニークさであり、素晴らしさでもある。と同時に、観光客はもとより、役者に入れ込むタイプの観客をも拒否するような厳しさにもつながっている。
 であるがゆえに、客足が落ち、今回のようなテコ入れになったのだろうが、それがうまくいっていないのは前述した通り。舞台の質の高さだけでは興行を続けていくことがむずかしいのは、なにもブロードウェイに限ったことではないと思うが、それにしても厳しい世界ではある。
 これにアン・ラインキング Ann Reinking が加わって、さらにどう変わるのか、確かめに行く余裕は僕にはない。残念ながら。

 ともあれ、来日公演がオリジナルの演出に沿ったものであることを祈りたい。みなさん、観に行きましょう。

(3/5/2001)

※次回の同演目観劇記はこちら

Copyright ©2001 Masahiro‘Misoppa’ Mizuguchi

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