[ゆけむり通信Vol.39]

5/7/2000
『ジーザス・クライスト・スーパースター JESUS CHRIST SUPERSTAR』


現代的装いも空疎な的外れの演出

 96年の 12月に観て、それなりに感銘を受けたロンドン版リヴァイヴァルと同じ演出家(ゲイル・エドワーズ Gale Edwards)でありながら、なぜこれほどまでにひどい舞台になったのか。
 その原因は、やはり、プロデューサー(リアリー・ユースフル・スーパースター・カンバニー The Really Useful Superstar Company Inc.≒アンドリュー・ロイド・ウェバー Andrew Lloyd Webber)の“あざとい”戦略にあるのではないか。
 とにかく、世紀末のブロードウェイに降臨した『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、無意味に金のかかった装置ばかりが目立つ愚作で、ロイド・ウェバーは、『サンセット大通り SUNSET BOULEVARD』『汚れなき瞳 WHISTLE DOWN THE WIND』で犯したあやまちを、また繰り返したと言うしかない(詳細はこちらの「ロイド・ウェバーや『レ・ミゼラブル』の検証」の章参照)。

 問題の装置(ピーター・J・デイヴィスン Peter J. Davison)は、次のようなもの。
 横並びに 4本、天まで届く巨大な柱が立つ。コンクリート打ちっ放し的質感のその柱を、地上 3メートルぐらいの高さで、鉄製(に見える)の手すりのついた通路が横に貫く。この通路の内、内側の 2本の柱をつなぐ部分は、床から天井まで上下動が可能。この他に、電飾の巨大な十字架や、鉄の檻に入った大量の TVモニターやミサイル、株式の電光掲示板、これまた巨大なキャバレーの看板などが随時加わる。そして、舞台奥の壁部分には広い範囲にわたってスプレーによる落書きがある。
 こうした装置と、ジーザス(キリスト)の支持者たちが着ているゲリラ的戦闘服や手にした銃(衣装/ロジャー・カーク Roger Kirk)によって、舞台は否応なく、荒廃した近未来的イメージに包まれる。
 その意図が、全くわからない。ジーザスが磔刑になるまでの7日間の物語に今日性を見出すべく施した演出なのだろうが、安っぽい B級 SFアクション映画の世界にしか見えない。
 ロンドン版のコロシアムの装置には、ジーザスの受難を見物する観客に対しての挑戦的な演出意図がハッキリ見えて、スリリングだったのだが……。

 もとより僕は、初演以来この作品が持つと言われてきている“斬新な聖書解釈”について、疑問を持っている。だから、今回のように、ことさら意味ありげになされた舞台演出を観ると、その底の浅さにうんざりしてしまう。

 “斬新な聖書解釈”とは、例えばこういうことだ。
 [時代、衣装でキリストの時代を表現してはいるものの、人間としてのキリスト、人間としてのユダの心の動きを追った人間中心のドラマとなっており、原作を新約聖書と考えれば、その解釈はかなり斬新なものである] (芝邦夫「ブロードウェイ・ミュージカル事典」)
 しかし、はたしてそうなのだろうか。あの時代にあって、それほど斬新だったのだろうか。

 ヴェトナム戦争が泥沼化していく 1969年、変革を求める空気の中から出てきた若い世代による新たなキリスト像の提出及び崇拝の運動と、エルヴィス・プレスリー Elvis Presley のメンフィス・セッションを 1つの大きな成果とする南部音楽をベースにしたロック・サウンドとが、アメリカで盛り上がりつつあることを敏感に捉えて、イギリス人青年コンビ、ロイド・ウェバー(作曲)とティム・ライス Tim Rice(作詞)は楽曲「Superstar」を書いた。クラシカルな聖歌とソウルフルなスタイルのビート・ナンバーとをうまく融合させて、そこにジーザスに対する問いかけの歌詞を載せるというアイディアは見事に当たり、マレイ・ヘッド Murray Head の歌った 70年 1月リリースのシングルは全米ポップ・チャートに 31週エントリー(最高位 14位)されるヒットとなる。
 これが発端だ。
 続けて 70年 11月に出した 2枚組のアルバムが翌年全米ナンバー 1のヒットを記録。そのアルバムを再現するコンサート・ツアーが合衆国内を回った後、 71年 10月、ブロードウェイで舞台ミュージカルとして上演が開始される。ブロードウェイでの舞台化にあたって、脚本クレジットのないこの作品の構成者として起用されたのは、 68年に“革命的ミュージカル”『ヘアー HAIR』がブロードウェイの劇場に移る際に新演出を施したトム・オホーガン Tom O'Horgan。
 こうした流れから見えてくるのは、もっぱらビジネス戦略であり、作家的な制作動機よりもマーケティングが優先している印象を受ける。“斬新な聖書解釈”は、そうした戦略の結果ではなかったか。
 [賛否両論] (「ブロードウェイ・ミュージカル from 1866 to 1985」)、 [まったく愛想のないものから、狼狽を隠さないものまでさまざま] (「ミュージカル物語」)という劇評が出ることが予想出来た作者たちが、むしろ話題作りのために、既存の宗教団体から抗議が来るような内容にしようと考えたとしても、変革の気分に揺れる当時の風潮の中では、不思議はない。
 極端に言えば、『ジーザス・クライスト・スーパースター』の“斬新な聖書解釈”は、手持ちのマイクロフォンやむき出しのアンプ同様、作品をヒップに見せるための手段だった。若い(あるいは若ぶりたい)観客に向けての“おもねり”だった、と言っては言い過ぎかもしれないが、ともあれ、実績を持たない若い作者たちが、楽曲の印象は強いが、あまり緊密なドラマ構成を持たない作品でブロードウェイに殴り込みをかけるにあたっては、そうした“飛び道具”が必要だったのではないか。

 オリジナル版の舞台を観ていない僕がそういう想像をしてしまうのは、その後の様々に印象の違う演出が施された同作品を観てきて、そのいずれもに、ジーザス受難劇のわかりやすい再現という以上のドラマを見出せなかったからで、それは、いい印象を持った 96年のロンドン・リヴァイヴァル版でも同じ。だからこそ逆に、この作品は、成否を問わず大胆な演出を許容してしまう。歌舞伎もどきのジャポネスク・ヴァージョンであろうが、 B級 SF近未来仕様であろうが、元々特別な歴史観や緻密なドラマ構成がない以上、作品としては一応成立してしまうわけだ。
 要するに、この作品の本質は、“聖書に題材を得た歌中心のレヴュー”というところにあって、それ以上でも以下でもない。したがって実際には、演出のポイントは、歌の魅力・勢いを削ぐことなくいかにテンポよく舞台を運ぶか、に尽きる。
 しかし時代の変化と共に、それだけでは魅力的に見えない作品に、すでになっている。そこで観客の興味を惹くべく、いろいろと演出にアイディアを盛り込んで、意味ありげに見せようとする。そして底の浅さが割れる。
 これ、どう考えても悪循環だ。
 そんな中で、前回のロンドン版が成功したのは、ドラマとして余計な意味づけをせず、ただ観客の集中力を高めるために新たな演出をしたことにあったと思う。

 今回の『ジーザス・クライスト・スーパースター』、僕が観たのは日曜のマティネーで、観客の大半は団体か家族連れだった。早い話、ことさら観劇に熱心な層ではない。
 そんな彼ら(子供を除く)には、この舞台、大ウケだったのだが、幕間の会話や上演中の歓声から察するに、ウケた理由は、ド派手な装置と大音量に対する直接的な興奮と、記憶に刷り込まれた楽曲の出てくる有名ミュージカルを目の当たりにした喜びの 2つ。ほとんどがキリスト教徒だと思われる彼らがドラマの部分に反応したのは、磔(はりつけ)のシーンだけと言っていい。
 つまりは、そういう舞台なのだ。

 ジーザス役のグレン・カーター Glenn Carter は、巷で言われているほど高音が出ないというわけでもなく、悪くなかったが、演出のせいかカリスマ的魅力を持つ人物に見えなかった。
 ユダ役のトニー・ヴィンセント Tony Vincent は、プレイビルによればブロードウェイ及びツアーの『レント RENT』の出演者だったらしい。確認していないが、ロジャー役だったのではないか。少なくとも演技や外見はロジャーそのものだった。
 この役作り及び服装・メイクは、明らかに『レント』ファンを意識してのものだろう。そのねらいは、新世代ミュージカルのイメージの借用と、『レント』ファンの取り込み。そのあたりにも、今回の演出のあざとさと浅さが見える。
 マグダラのマリア役はマーヤ・デイズ Maya Days。これまた『レント』組だが、この役に欠かせない慈しみのイメージが足りない。
 為す術なしの役者陣にあって、 1人気を吐いていたのが、ヘロデ王役のポール・カーンデル Paul Kandel。元々この役はおいしいのだが、『トミー The Who's TOMMY』のアーニー叔父役で見せたのと同じノスタルジックなショウマンシップを発揮して、強い印象を残した。

(5/25/2000)

Copyright ©2000 Masahiro‘Misoppa’ Mizuguchi

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