[ゆけむり通信Vol.39]

5/9/2000
『アイーダ AIDA』


深めず華やかに、がディズニー流

 ディズニーは、ブロードウェイ進出 3作めにして、ついにオリジナル・ミュージカルを作った。
 第 1弾『美女と野獣 BEAUTY AND THE BEAST』がアニメーション映画の忠実な舞台化。第 2弾『ライオン・キング THE LION KING』がアニメーション映画を元にした舞台的表現への大胆な挑戦。そして、第 3弾『アイーダ』は……?
 なんてことを考え始めたら、それはもうディズニーの戦略にハマっている証拠。そういう人が見ず転で『アイーダ』のチケットを買うわけだ。
 シロウトが真顔で、企業戦略だのマーケティングだのについて語ったりするからバブルが起こる。……などと言いつつ、後で語りますが(笑)。

 ま、そんなこんなで、チケットが売れてる『アイーダ』
 出来はと言えば、『美女と野獣』のようにディズニーランドのアトラクションに見えたりはしないが、けっして深い感動が得られるようなものではない。ただ、装置(ボブ・クロウリー Bob Crowley)のアイディアと主演のヘザー・ヘドリー Heather Headley の歌が見どころになって、一級のエンターテインメントとしての面目は保たれている。

 内容は、エチオピアの王女と、その征服者であるエジプト軍の指揮官との許されない恋の物語。

 エチオピアに攻め入ったラダメス率いるエジプト軍は、捕らえたエチオピア人を奴隷にするために船で連れ帰ってくる。その中に身分を隠して紛れていたのが、誇り高い王女アイーダ。が、彼女に惹かれたラダメスはアイーダを連れ出して、エジプトの王女アムネリスへの貢ぎ物にする。そのアムネリスとラダメスの結婚を、アムネリスの父ファラオは世継ぎを得るために、ラダメスの父ゾウザーは野望のために(彼はファラオに少しずつ毒を盛っている)、そしてアムネリスはラダメスへの愛のために望んでいる。
 で、まあ、いろいろあって(笑)、ラダメスはアイーダを深く愛するようになり、アムネリスはアイーダを信頼して心を開くようになり、奴隷となったエチオピア人たちはアイーダを救済の支えとするようになる。アイーダは、人々の心に安らぎと勇気を与える太陽のような存在なのだ。
 ところが、やがて、アイーダもラダメスを愛するようになり、否応なくアイーダ、ラダメス、アムネリスの 3人は、複雑な三角関係に陥っていく。
 そんな中、アイーダの父であるエチオピアの王アモナスロがエジプト軍に捕らえられる。幽閉された父に密かに会いに行ったアイーダは、ラダメスに対して抱く好意を非難される。さらに、囚われている娘の 1人がアイーダの身代わりになってゾウザーの手先に殺されるに及んで、ついにアイーダはラダメスへの想いを断ち切る決心をする。
 最後にひと目、とラダメスに会ったアイーダは、自分たちが現世では結ばれようのないことを説き、アムネリスと結婚して王となりエチオピアとのいい関係を築いてくれるよう頼む。納得したラダメスは、結婚式の時にアイーダが逃げ出せるよう、港に小舟を用意しておくことを約束する。それを偶然聞いていたのが、アムネリスだった。
 ラダメスとアムネリスの婚礼が始まるが、エチオピア王の脱獄が発覚し中断。自分の用意した小舟にエチオピア王を乗せて逃げようとしているアイーダを見つけたラダメスは、裏切られたと誤解する。真意を説明するため岸に戻るアイーダ。そうこうする内にゾウザーがやって来る。ラダメスは舫(もやい)を切って王の乗った小舟を放つ。
 裏切り者として捕らえられたラダメスは、許しを乞うことを拒んだために、アイーダ同様砂漠に生き埋めにすることをファラオに宣告されるが、彼らを愛するアムネリスは、せめてもの慈悲として、 2人を同じ石棺に入れて埋めることを願い出る……。

 とまあ、 [いろいろあって] と略してもこんな長くなっちゃうんだけど、オペラ版とは、人物設定も含めて話がずいぶん違うみたい(オペラは未見)。
 まあ、それも後述するとして、構成上オペラ版と最も違うのは、前後に現代的なプロローグとエピローグが付いていること。メトロポリタン美術館のようなイメージの古代エジプト展示室が登場するのだ。

 いくつかの展示物が置かれた白い壁の部屋の中央に、こちらに向かってポッカリ穴の開いた石の立方体が 1つ。その右には後ろ向きに立つ全身の王女像。観覧者が何人かいる中に、誰かを待っているような若い女性と若い男性が別々に現れる。石の立方体の説明を読もうとして接触してしまう 2人。その時、王女像が正面を向いて歌い始める。全ての物語は愛の物語だ、と。
 おわかりですね。若い 2人がアイーダとラダメスで、王女がアムネリス。そして、石の立方体が 2人が閉じこめられた石棺。
 第 2幕の最後、閉じこめられた石棺の中で 2人が抱き合い、スポットライトが絞られていった後、この展示室がもう 1度現れ、最初と同じように若い男女が出会い、今度ははっきりと意識し合う。その時、王女像は微笑んでいる。

 主要登場人物 3人の関係の提示があり、時代設定(古代エジプト)の提示があり、謎(石棺)の提示があり、悲劇に終わっても最終的には救いがあることの提示(暗示)がある。同時に、現代にも通じる物語であるかのような錯覚も抱かされる。うまいものだ。

 そうした工夫が必要なほどに時代がかったこのメロドラマを描くにあたって、ディズニーはいつものように自分たちのルールを崩さない。理解しやすい類型的な人物像を用意し、エピソードは掘り下げすぎないように注意を払う。
 悪人(と言うよりワルモノ)の設定は典型的。ここではラダメスの父ゾウザーだが、資料を読む限りでは、この人物はオペラには出てこない。悪人が血縁のない人間だと、ラダメスとの関係を説明する必要が生じる。父親なら容易に逆らえないことが納得しやすい。そう考えてのゾウザーだと思うが、彼は陰謀のための陰謀家で、人間的な深みなどない。記号としての悪人だ。
 ゾウザー 1人に悪役を押しつけて、他には悪い人はいないということにしたのも、話をわかりやすくするディズニー方式。例えば、オペラにあるアムネリスの嫉妬などを描きだしたら、キリがないからだ。おかげでアムネリスも素直ないい人になり、アイーダ、ラダメスとの三角関係も感傷的なものになる。
 ヒロインのアイーダが誇り高く行動的な娘であるのは、このところのディズニー・アニメーションの定番。運命に弄ばれるのではなく、運命を切り拓く。
 人物像が類型的であるから、エピソードそのものも、ストーリー展開が理解出来る程度の描き方しかされない。
 それでよし、とするのがディズニーで、その背景には、これまでの実績と細かいマーケティングによる裏付けがあるはず。大ヒットさせるためには、少し“薄め”なくてはならないことを知っているのだ。薄めてあるからこそ感情移入しやすい人もいるわけだし、泣いて 2度観たという日本のミュージカル女優の話も漏れ聞いた。
 その意味では、とことん描いて一部の人には違和感を覚えさせたらしい『マリー・クリスティーン MARIE CHRISTINE』の対極にある作品と言えるかもしれない。

 『マリー・クリスティーン』との比較で言えば、音楽も対照的。登場人物の血の記憶にまでも踏み込んでドラマと音楽との有機的な結合を目指したように聴こえるのが『マリー・クリスティーン』の音楽だとすれば、『アイーダ』の音楽(作曲/エルトン・ジョン Elton John、作詞/ティム・ライス Tim Rice)は、極端に言うと、てっとり早い盛り上がりと、ミュージカル・マーケット以外でのヒットをねらったような作り。

 まあ、そんなわけで、僕にはとても満足の出来る作品ではなかった。が、ヘザー・ヘドリーの主演作品として長く記憶に残るだろう。
 トニー賞予想のところに書いたように、作品自体が浅いので、ここでの彼女の熱唱は深い感動を呼ぶところまで行かないのだが、それでも、その歌唱は素晴らしいし、演技も魅力的。ヘドリーは、昨年のアンコールズ!シリーズ『ド・レ・ミ DO RE MI』での歌声が最高で、心底シビレた。次回は、じっくりと作品を選んでほしい。

 最初に書いたように、この作品でもう 1つ特筆すべきなのが、装置。

 笑いそうになるぐらいに驚かされるのが、プール。
 アムネリス登場のシーンに出てくるのだが、舞台正面の壁に、ドーンと垂直に、ちょうど真上から見る形でブルーの水面が現れる。右下には、プール内の梯子のところから泳ぎ出そうとしている水着姿の女性の背中が見える。が、よく見ると、マネキンのような作り物だとわかる……のだが、それを見計らったように 2人の水着女性が水中に躍り出る。要するにプールの水面に見せかけた青いフィルターの向こうで宙吊りになっているわけで、 100%ハッタリの、面白がるためだけに用意された仕掛けだが、これは新鮮だった。

 それに比べると、充分に意味があり、かつ美しいのが、川を表現するいくつかのセット。
 まず、水平線を境に、上下に完璧な相似形で描かれた木々のシルエット。このシルエットを背景に配するだけで、大きな川のほとりであることをわからせるアイディアが見事。さらに、そのシルエットを上下させると、向こう岸との距離感が変わって、移動しているような錯覚を覚える。
 奴隷女たちが川で洗濯をするシーンでは、その木々のシルエットの水平線の部分(床から 2メートルぐらいの高さ)に一端が固定された大きな半透明の布が、手前に引き延ばされる。その布の中央には、奥から手前に向かって蛇行する川の流れが描かれている。川のほとりを、より具体的にしてみせたわけだが、この布、次の場面転換では、手前を引き上げて、天幕として使われる。さらには、固定された水平線部分が外されて、小さなテントになる。
 ここにも実は、上記のプールにつながる遊び心があり、それが観ていて楽しい。

 さて、その他に気づいたことを書いておくと――。

 役者では、アムネリスを演じたシェリー・リネイ・スコット Sherie Rene Scott もよかった。オープニングでは語り部、登場時には美しい三枚目、そして哀しい恋の敗残者。そんな役柄を、肩に力を込めることなくこなして、最後には毅然とした演技で物語のむずかしい着地をきれいに決めた彼女の功績は小さくないし、歌にも聴かせるものがある。
 彼女、オリジナル・キャストじゃないけれども『レント RENT』に出ていたらしいが、ラダメスを通常演じているのが、こちらはオリジナル・キャストだったアダム・パスカル Adam Pascal。が、観た日は代役(エリック・サイオット Eric Sciotto)で、パスカルの出来は不明。
 ともあれ、このところ『レント』役者が多くのミュージカルに起用されていることについては、役者の力とは別に、プロデューサーの側に、『レント』の追っかけ的ファンを呼び込もうという意図があるように思えてならない。この作品の第 1幕最後の「The Gods Love Nubia」という曲など、そうしたキャスティングとは関係ないが、『レント』の「Seasons of Love」を意識して書かれているのではないか。

 閑話休題。
 振付のウェイン・シレント Wayne Cilento は、ゾウザーとその部下たちに、トニー賞を獲った『トミー TOMMY』の「Pinball Wizard」で見せたような、暴力の香りのするダンスを踊らせて気を吐くが、残念ながら、脚本が浅いと振付も表面的に見えてしまう。
 その男たちのダンスで見せる照明(ナターシャ・カッツ Natasha Katz)の、リズムに合わせた細かい動きは面白かった。

 最後に、冒頭に書いたディズニーの戦略について。
 1作目『美女と野獣』では、アニメーション映画のヒットと高い評価を背景に、とりあえず手持ちのスタッフで忠実な舞台化を行なって様子をみた。それが、劇評とはかかわりなく一応の成果を収めたことと、『ライオン・キング』の映画が『美女と野獣』をはるかに上回る大ヒットとなったことに力を得て、 2作目ではエンターテインメントの感覚も持つ前衛的な演出家を採用。資金も注ぎ込んで、勝算があったとは言え冒険に出た。それが興行的にも当たり、トニー賞に象徴されるように作品的評価も得た。
 そこで、満を持してのオリジナル舞台ミュージカル『アイーダ』の登場だが、映画のヒットという後ろ盾を持たない今回、ディズニーは最終的に、演出家に、昨年『セールスマンの死 DEATH OF A SALESMAN』でトニー賞を得た、ストレート・プレイ畑のロバート・フォールズ Robert Fallsを起用。ディズニー+エルトン・ジョン&ティム・ライスというブランドの強さで商売になることには自信を持ちつつも、オリジナル作品第 1弾には用心深く、劇場街でのブランドを求めたということではないか。
 しかし、こうして 3作観てきて思うのは、パーソナルな作家性を匂わせない匿名的エンターテインメントにこだわる限り、ディズニーは、新たなビジネスを劇場街にもたらしたとしても、けっして新たな文化はもたらさないだろうということだ。
 ま、そういう作品があっても、別にいいんですけど。

(6/3/2000)

Copyright ©2000 Masahiro‘Misoppa’ Mizuguchi

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