[ゆけむり通信Vol.38 & 39]

3/18/2000 & 5/6/2000
『ワイルド・パーティ THE WILD PARTY』
パブリック・シアター版

3/18/2000
『ワイルド・パーティ THE WILD PARTY』
マンハッタン・シアター・クラブ版


宴の後に恐慌の予感?

 同時期に、同じ街で、同じ題材を、 2つのプロダクションが全く別の楽曲・脚本・演出でミュージカル舞台化するなんてことは、かなり珍しいんじゃないだろうか。
 元になったのは、 1928年にニューヨーカー誌の編集者ジョゼフ・モンキュア・マーチ Joseph Moncure March によって書かれた同名の詩だという。舞台は同年のニューヨーク。ローリング・トゥエンティーズが最後の輝きを放った時代。大恐慌前夜の漠然とした不安感に包まれながら繰り広げられる、虚飾に満ちたパーティの内幕が描かれる。
 バブル崩壊前夜という予感が呼び寄せたシンクロニシティなのだろうか。
 ともあれ、そんな 2つの『ワイルド・パーティ』を同じ日に観てしまったものだから、比較論になるのは避けられないのだが、結論としては、一長一短。頽廃の気分ではパブリック・シアター版、まとまり具合ではマンハッタン・シアター・クラブ版、という、なんだか煮えきらないことになってしまった。

 マンハッタンの高級アパートメント。バーレスクの人気ダンサー、クイニーと、ミンストレル・ショウの歌手バーズのカップルがホーム・パーティを開く。
 集まってくるのは、芸人仲間や舞台関係者、有閑階級、そうした連中の取り巻き等々。とりつくろった顔で始まったパーティも、それぞれの欲望と苦悩が酒やクスリで増幅されて、しだいにワイルドさを増していき、次々に事件が起こっていく。
 というのが大まかな展開で、中心になるのは、クイニーと、彼女に疎まれ始めているバーズと、クイニーの仲間ケイトをエスコートしてきたブラックという若い男の三角関係。
 その夜初めて出会ったクイニーとブラックが惹かれ合い、最終的には、嫉妬深いバーズが拳銃を持ち出し、もみ合いの中でブラックに撃たれてバーズが死ぬ。クイニーはブラックを逃がしてやり、寒々とした都会で再び独りぼっちになる。
 (なお、ここに書いた以外の登場人物やその設定は、 2つのヴァージョンで微妙に異なる。)

 オンの劇場での公演となったパブリック・シアター版は、作曲・作詞/マイケル・ジョン・ラキウザ Michael John LaChiusa(ラチウザではなくラキウザと読むらしい)、脚本/マイケル・ジョン・ラキウザ&ジョージ・C・ウルフ George C. Wolfe、演出/ジョージ・C・ウルフ。
 ラキウザは、グラシエラ・ダニエル Graciela Daniele と組んで、『ハロー・アゲイン HELLO AGAIN』(作曲・作詞・脚本)、『予告された殺人の記録 CHRONICLE OF A DEATH FORETOLD』(楽曲と脚本の補作)、『マリー・クリスティーン MARIE CHRISTINE』(作曲・作詞)などの野心的ミュージカルを発表してきた人。そのラキウザとは初顔合わせになるウルフは、『ジェリーズ・ラスト・ジャム JELLY'S LAST JAM』『ノイズ/ファンク NOISE/FUNK』でブラック・ミュージックの新たな地平を切り拓いてみせたが、その後の『オン・ザ・タウン ON THE TOWN』は(セントラル・パークでの無料公演はともかく、ブロードウェイでは)、内容的にも興行的にも失敗に終わっている。

 前述したように、パブリック・シアター版のよさは、頽廃の気分が色濃く出ていたところで、その理由は 2つある。
 1つは装置(ロビン・ワグナー Robin Wagner)と照明(ジュールズ・フィッシャー&ペギー・アイゼンハウワー Peggy Eisenhauer)。
 大きな劇場の、特に垂直方向に広い空間を生かして、天窓まである、高さを強調した、古いが高級なアパートメントをイメージさせる装置を背景に配置。回り舞台になっている中央部分には、枠付きのドアやソファやテーブルやベッドやバスタブなどが、それぞれ単独でも動かせる状態で盆(回り舞台部分)に載っていて、回転することでいくつかある部屋を移っていくイメージが出るようになっている。その余裕を持たせた空間の取り方が、青みがかった薄暗い照明と相まって寒々しい空気を生み出し、豪華だが空虚という雰囲気を漂わせる(背景奥に置かれた縦長の巨大な鏡が象徴的)。
 頽廃の気分を醸し出している、もう 1つの要素は、ラキウザの書いた楽曲。
 設定された時代を反映して、スタイルは当時のジャズ。ブギ・ウギ、チャールストン、ブルーズ、等々スウィング以前のワイルドさの残るジャズ・スタイルの中に、ラキウザは、現代的なグルーヴと同時に、どこか神経症的な不安感や倦怠感を紛れ込ませる。それが登場人物たちの喧噪の裏側に頽廃の影を与えるのだ。

 しかし、そうした気分を持ちながら、演出が舞台をまとめ上げきれていない。
 上述の高級アパートメントの場面に到る以前の、幕開きの、派手なダンス・ナンバーからクイニー&バーズのベッドルームでのやりとりまでは、ヴォードヴィルの舞台を模したスタイルで快調に飛ばす。ことに、クイニー&バーズのベッドルーム場面は 2人のぎくしゃくした関係とパーティ開催の動機とを説明するためにあるのだが、極端にデフォルメされた装置の中でヴォードヴィルの一景のように演じられるので、スピーディであると同時に現実感がなく、それが不気味で、導入部として効果的。
 ところが、客たちが訪れてきてパーティ・シーンに移ると、とたんにテンポが悪くなる。なぜなら、描写に導入部のような大胆なアイディアがなくなって一本調子になるから。ここからは、小振りの回転舞台が回っての場面転換ばかりで、視覚的にも変化に乏しい。
 さらに、クイニー、バーズ、ブラックの三角関係だけでなく、その他の客たちのことも同じぐらいの比重で描かれていく、言ってみれば群像劇になっていることも、話の芯を見えにくくしてマイナス要素になっている。なにしろ、ブラックがケイトに連れられて登場するのは全体の 3分の 1を過ぎてからで、それまでは、観客は誰に感情移入していいのかすらわからない。
 幕間なしで 2時間強、という構成も、観客が集中力を維持するには厳しい条件となる(2幕に割ることも、構成上は可能だったと思うのだが……)。
 ただ、人物描写はスキャンダラスで面白い。登場人物たちの華やかな仮面の背後に病んだ表情があることを徹底的に暴き出す。
 例えば、黒人の兄弟ヴォードヴィル・コンビが「A Little Mmm」という可愛らしい小唄を作ったような笑顔で歌う何気ないシーンにすら、近親同性愛の気分が潜んでいる。また、クイニーとブラックの前に拳銃を持って現れるバーズが、黒塗り化粧のミンストレルのスタイルをしているところに到っては、完全な狂気を感じさせて背筋が寒くなるほど。等々、人々のねじれが容赦なく描かれる。
 そんなわけで、見どころも少ないわけではないのだが、残念ながら全体としては散漫な印象の作品となった。

 ――ではあるが、ラキウザの楽曲は充実していて、さらに、その使われ方も見事なので、その一例を書き留めておく。
 「The Lights of Broadway」。ジャズっぽさのない明るいニューヨーク讃歌(クイニーの持ち歌という設定か?)。
 これをまず、アパートメントを訪れた田舎出の少女ネイディーンが、クイニーの前で、私もスターになれるかしら、という風に張り切ってワンフレーズだけ歌う。その場違いな感じにクイニーは顔をしかめるのだが、舞台半ばではクイニー自身が、私も昔はあの娘みたいだったと言って、抑えた調子でやや感傷的にワンフレーズ歌う。その対比の妙。
 さらに、後半になって、この曲はもう 1度ネイディーンによって最初の時以上に明るく、今度はフルコーラス歌われる。初めて味わったコカインによる躁状態の中で。その直後に彼女は性的暴力の対象となる。わずか数時間後の劇的変化。
 ところで、ネイディーンの最初の「The Lights of Broadway」は、「Welcome to My Party」という、テーマ曲とも言える狂騒的な歌の途中に挿入される。クイニーがパーティの始まりに、自分の気持ちを盛り立てるように激しく踊りながら歌っているところに、突然出てくる。そのことで、ネイディーンの危ういまでにイノセントな感じが強調されている(「Welcome to My Party」という歌自体も、最初はクイニーが歌ってパーティの始まりの宣言になるが、終盤にはバーズが皮肉な調子で歌って物語の終わりを暗示する)。
 そして、クイニーによる「The Lights of Broadway」は、パーティを抜け出して 2人きりになったクイニーとブラックが心を通わせ合う、最もロマンティックなナンバー「People Like Us」の導入として歌われる。クイニーがブラックの中に自分と同じものを見つけて心を開く瞬間を、鮮やかに表しているのだ。
 楽曲それぞれのよさもさることながら、こんな具合に重層的に使われることで、楽曲に様々な表情が生まれ、厚みが増す。これこそがミュージカルだ。

 出演者では、バーズ役のマンディ・パティンキン Mandy Patinkin がやはり素晴らしい。
 実は、パティンキンはプレヴュー中は出演しておらず、 3月に観た時には代役(デイヴィッド・メイゼンハイマー David Masenheimer)が立っていた。そのメイゼンハイマーも、ブロードウェイ作品で本役を演じてきている人なので力がないわけではないのだが、 5月に観たパティンキンは、明らかにワンランク上。繊細な高音から凄みのある低音まで自在に使い分け、独特の色気を発散しつつ、病的なまでに感情の起伏の激しい人物を演じて、拡散しがちな舞台の求心的存在になっていた。
 映画畑で活躍するトニ・コレット Toni Collette は歌もうまく、純真さを秘めたセクシャルなスターをよく演じていたが、惜しいかなダンスでの体のキレがイマイチ。
 ブラック役ヤンシー・エイリアス Yancey Arias は、プレイビルによれば生粋のニューヨーカーらしいが、ナマった英語で陰影のあるイタリア移民(たぶん)を“らしく”演じる。張りのある高音が魅力的。
 盛りを過ぎた大女優役で登場するアーサ・キット Eartha Kitt は実にアクが強い。アクが強い女優好きの僕もちょっと引き気味になるが、それでも、その存在感は舞台を引き締める。
 そうした個性的な役者陣の中にあって一際強い印象を残すのが、ネイディーン役のブルク・サニー・モリバー Brooke Sunny Moriber。『パレード PARADE』『ザ・デッド JAMES JOYCE'S THE DEAD』と、脇役ながら野心的な作品に立て続けに起用されていることから考えて、ミュージカル界ではかなり期待されているのではないか。それが納得出来る活躍ぶりを今回は示した。
 マンハッタン・シアター・クラブ版にはないサリー役を演じるサリー・マーフィ Sally Murphy の使われ方も印象的。 94年にロンドンからやって来た『回転木馬 CAROUSEL』のブロードウェイ版でヒロインのジュリーを演じた女優なのだが、今回のサリーは全く無反応な若い女で、体の動きはおろか表情の変化さえない役柄。それが、ただ 1回、みんなが寝静まって誰も動いていない真夜中過ぎに、「After Midnight Dies」という短い歌を歌う。その震えるようなソプラノが、悲劇的な、事実上の第 2幕の幕開けとなる。役者の層の厚いブロードウェイならではの贅沢な配役だ。

 シティ・センター地下の小さな劇場、マンハッタン・シアター・クラブで上演された『ワイルド・パーティ』は、アンドリュー・リッパ Andrew Lippa(作曲・作詞・脚本)とガブリエル・バリ Gabriel Barre(演出)によるヴァージョン。
 リッパは、 99年リヴァイヴァル版『君はいい人、チャーリー・ブラウン YOU'RE A GOOD MAN, CHARLIE BROWN』で編曲を手がけると共に、クリスティン・チェナウェス Kristin Chenoweth にトニー賞を獲らせた新曲「My New Philosophy」を書いた人。作曲と共同脚本を担当した 95年のオフ作品『ジョン&ジェン JOHN & JEN』は、 2人の出演者だけでアメリカの現代史を描く優れたミュージカルだったが、その時の演出家がバリだった。
 バリは、僕は最初に役者として観たが(93年『ジャック・ブレルは今日もパリに生きて歌っている JACQUES BREL IS ALIVE AND WELL AND LIVING IN PARIS』)、演出作品は、『ジョン&ジェン』の翌年にコネティカットのグッドスピードオペラハウスで、『スウィーニィ・トッド SWEENEY TODD』のリヴァイヴァルを観ている。劇場の小ささを逆手に取って、傍観者に見立てたアンサンブルの存在を生かした舞台だった。

 バリは、今回も、やはりアンサンブルを生かす演出をしている。ドラマを、クイニー&バーズとケイト&ブラックの 2カップルに絞って、その他の役はアンサンブル的な扱い。それがパブリック・シアター版との最大の違いで、その分、こちらの舞台にはまとまりが出た(幕間のある 2幕構成)。
 が、そのアンサンブルの生かし方(絶えず舞台上に彼らがいて、主演クラスのドラマを見守っているようなところ)を含めて、全体の印象が、 98年リヴァイヴァル版の『キャバレー CABARET』に似たものになってしまっている。黒を基調にした、下着もあらわなファッションや、目の周りを黒くしたドイツ表現主義的なメイクアップが類似しているからでもあるが、演出も多分に 98年の『キャバレー』を意識しているのではないか。と言うとバリに失礼かもしれない。が、そう思えてしまうところに、この舞台の弱点がある。
 ことに、オープニング(1曲目の歌詞はパブリック・シアター版と共通で、マーチの詩「Queenie Was a Blonde」をそのまま使っているが、当然のことながら全く印象が違う)。役者たちがうごめくようなダンス(振付/マーク・デンディ Mark Dendy)で登場するのが、『キャバレー』のバンド連中の動きとダブる。
 まあ、 98年版『キャバレー』も小劇場的な演出なので似ていても無理はないのだが、どこかに独自性が感じられないと、型を崩したような演出そのものが 1つの型に見えてしまうのも事実だ。結果、(実際のステージのサイズとは別に)スケールが小さく感じられる舞台になった。
 もちろん、こぢんまりとまとまって、いい結果を生む作品もある。が、大恐慌前夜の金満アメリカの破滅的な狂騒を描きたい作品にあっては、まとまりがあることはともかく、こぢんまりとした印象はうまくない。パブリック・シアター版同様ベッドやバスタブやドアを載せた舞台が、どうしてもマンハッタンの高級アパートメントに見えてこないし、つかの間の栄華を極めた人間たちのパーティだと思えないからだ。
 その分、パブリック・シアター版にあった頽廃の空気が薄らいで、凄みがなくなっている。

 しかし、この作品の装置(デイヴィッド・ギャロ David Gallo)には、限られた空間に広がりを与える工夫が施してある。
 まず、正方形の板状のステージが 5つに割れて、それぞれが移動出来るのが最大のアイディア。割れ方は、元の正方形の 4つの角を 1つずつ所有する大きな 4つの部分と中心にある 1つの小さい部分の 5分割だが、これは最終的にわかること。初めは割れることすら予想出来ない。それが、まず、左右に 2つに割れ、元に戻り、次には 1つだけが離れ、 4つに割れ、最後に中央に小さな島のような部分が残る、と(だいたい、こう)いう具合に意外性を秘めながら自在に動いていく。その動きの意味は、離れたところが別の空間(部屋)だということなのだが、時として、それが登場人物の心の断絶を象徴しているようにも見える。視覚的にも面白い機構だ。
 背景は、客席との位置関係でステージの後ろと右に“く”の字型にある壁を覆う形で配置されるのだが、そのデザインは斜めに傾いだビルの壁と窓。その傾きが、ステージに不思議な浮遊感を与える。
 その背景の窓の 1つが開いて、隣人が顔を出して苦情を言うという演出もあり、これも確かに空間的広がりを感じさせるし、ドラマの上でもアクセントになるのだが、どうなのだろう。安アパートのような印象を与えて、かえってマイナスなのではないだろうか。それとも、このヴァージョンでは安アパートという設定なのか。

 実は、設定に関する疑問が 1つあって、マンハッタン・シアター・クラブ版のプレイビルには、“Time: 1929”という記述がある。パブリック・シアター版とは 1年ズレているのだ。
 もっとも、大恐慌の始まりは 1929年の“秋”だから、それでも問題はないのだが、ここで気になるのは、オープニング曲「Queenie Was a Blonde」の“Was”という時制だ。ジョゼフ・モンキュア・マーチの詩の中で、クイニーは、死んでいないまでも過去の人という設定だったのか。あるいは、マーチが詩を発表したのが 28年だという事実を前提に、マンハッタン・シアター・クラブ版は、その 28年を過去とする 29年を現在として設定して時制を合わせたということか。あのアパートメントでうごめいていたのは、大恐慌前には生きていた亡霊たちということなのか。
 ――というのは、まあ、考えすぎだとは思う。どちらにしても、マンハッタン・シアター・クラブ版がパブリック・シアター版に比べて凄みに欠けるという事実は動かないのだし。

 アンドリュー・リッパの楽曲は悪くない。個々の楽曲の完成度も高く、バラエティにも富んでいる。アンサンブルのコーラスの生かし方もうまい。ただ、ラキウザほど当時のジャズのスタイルにこだわっていないので(リズム&ブルーズ的な曲があったり、エレクトリック・ギターの単音弾きのフレーズが鳴り響く曲があったりする)、時代性が曖昧になることがあるのは、気になる。
 もし、それが、大恐慌直前と現代とを重ね合わせるためにあえてしたことであるなら、方法が中途半端。どちらかにねらいを定めて徹底すべきだったのではないか。
 それにしても、「An Old-fashoned Love Story」という曲のイントロが『シカゴ CHICAGO』の序曲のイントロと酷似しているのは偶然か。どちらもミュート付きのトランペット演奏なのだが。『シカゴ』『キャバレー』と同じ楽曲作者の作品だけに、この類似も、僕にはマイナスに思えた。

 主役級 4人を演じたのは以下の通り。
 クイニー=ジュリア・マーニー Julia Murney。
 バーズ=ブライアン・ダーシー・ジェイムズ Brian d'Arcy James。
 ケイト=イーディナ・メンゼル Idina Menzel。
 ブラック=テイ・ディグズ Taye Diggs。
 中では、『タイタニック TITANIC』でも印象の強かったブライアン・ダーシー・ジェイムズの存在感が光った。こちらのバーズはクラウン(道化)という設定なので、最終場面での彼の扮装は丸い赤鼻。これも、不気味さでは黒塗りに劣らない。
 ジュリア・マーニーは、まだブロードウェイ経験がないようだが、力は充分。次の舞台に期待したい。
 メンゼル(モリーン)、ディグズ(ベニー)は『レント RENT』オリジナル・キャスト組。メンゼルはモリーン役の印象が鮮烈だっただけに、それを知る者にとっては今回の役は、見せ場はあるもののもの足りなさが残るが、本人の演技は悪くない。一方、ブラック役のディグズは、クイニー役、バーズ役に次いで見せ場が多く、中でも、クイニーと心を通わせるシーンで歌う「I'll Be Here」が佳曲なので、面目躍如の感。
 その他のキャストでは、メイ役のジェニファー・コディ Jennifer Cody が、独特の小娘キャラクターで記憶に残った。

 しかし……、やはり恐慌は来るのか?

(1/9/2001)

Copyright ©2001 Masahiro‘Misoppa’ Mizuguchi

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