[ゆけむり通信Vol.36 & 37]

11/19/1999, 1/5/2000
『マリー・クリスティーン MARIE CHRISTINE』


ヴードゥ・オペラ

 演出・振付家であるグラシエラ・ダニエル Graciela Daniele が、『グッバイ・ガール THE GOODBYE GIRL』(振付)、『ラグタイム RAGTIME』(振付)、『アニーよ銃をとれ! ANNIE GET YOUR GUN』(演出・振付)などのエンタテインメント性の強いブロードウェイ・ミュージカルを手がける一方で、『ワンス・オン・ディス・アイランド ONCE ON THIS ISLAND』『ハロー・アゲイン HELLO AGAIN』『予告された殺人の記録 CHRONICLE OF A DEATH FORETOLD』といった野心的なミュージカルを積極的に作ってきたことは、こちらに書いた通り(一昨年の『ニュー・ブレイン A NEW BRAIN』は未見)。
 その文章の中で僕は、ダニエルがそれら野心的ミュージカルを作るにあたって目指しているところについて、こう書いた。

 [ヒスパニックの血を引く彼女(ダニエル)が見つめているのは、欧米の近代合理主義が置き去りにしていった、人間の中に太古から宿る、例えば情念とでも呼ぶべきようなもの。それを、説明したり解き明かしたりするのではなく、ダニエルは、歌と踊りによってもう 1度舞台上で呼び覚まそうとしている。僕にはそう思える。]

 昨年秋から今年の初めかけてリンカーン・センターで限定上演された『マリー・クリスティーン』もまた、そうした作品の系譜に属する、濃い、そして深いミュージカルだった。

 今回の舞台は、ニューオーリンズ(第 1幕)、そしてシカゴ(第 2幕)。
 『ワンス・オン・ディス・アイランド』でカリブ海(マルティニーク)、『ハロー・アゲイン』で大西洋を越えたウィーン(アメリカ的に書き替えられていたが)、『予告された殺人の記録』で南米(コロンビア)、と、まるでコスモポリタンのように作品舞台を海外の様々な場所に求めてきたグラシエラ・ダニエルの野心的演出作品が、ここで本格的に合衆国内部に足を踏み入れた。
 しかし、その発端がニューオーリンズだというのが、いかにもダニエルらしい。単にフランス領だったというだけでなく、カリブの島々を経て西アフリカと深くつながる合衆国内の異国、ニューオーリンズ。ここでもまた、異邦人的視線がくっきりと表れる。いや、アメリカ国内を舞台にしたせいで、それがいっそう際立ったと言うべきか。

 主人公マリー・クリスティーン・ラドレスはニューオーリンズに生まれ育った、白人を父に、黒人を母に持つ、裕福な“黒人”女性。
 やはりニューオーリンズ出身の、 1920年代に活躍した実在のジャズ・ピアニスト、ジェリー・ロール・モートン Jelly Roll Morton は、『ジェリーズ・ラスト・ジャム JELLY'S LAST JAM』の中で、自らの中にある白人の血を屈折した形で誇る人物として描かれていたが、それより 30年ほど前の時代を生きるマリー・クリスティーンは気高く、哀しみはあっても、卑屈なところはまるでない。なぜなら、彼女の心のよりどころは、母から受け継いだアフリカの血にあるからだ。
 先回りして言えば、急速に近代化を遂げていくアメリカ社会との妥協を拒み、“現世的に”全てを失っていくマリー・クリスティーンを目にしながら、最後まで毅然とした彼女の姿に、僕らは神々しささえ覚えてしまうのだ。

 物語は、監獄に入れられたマリー・クリスティーンが、古株の受刑者たちの好奇心に促されて、自分の身に起こったことを語ることで始まる。
 1894年。ニューオーリンズ郊外の公園で、若い娘マリー・クリスティーンはダンテ・キーズという白人の船乗りと出会う。女性として黒人として南部の因習に支配されている今の環境から抜け出したいと思っていた彼女は、巧みに声をかけてくるダンテに惹かれ、自分の人生を託そうと考える。
 しかし、父亡き後、家の実権を握る 2人の兄は、白人との結婚を許さない。苦労の末に確保した父の遺産を、なぜ再び白人に分け与えなければならないのだ、というのが彼らの主張だ。
 そんな兄たちを振り切ってダンテと共にシカゴに出たマリー・クリスティーンは、 5年後には 2人の息子の母親になっている。ところが、政界への野心に燃えるダンテの心はすでに彼女の元にはない。
 北部で 1人、全く孤立するマリー・クリスティーン。白人の有力者の娘と結婚の約束をしているダンテからは、幼い息子たちを引き渡すよう要求されている。頑なに拒むマリー・クリスティーンだが、ダンテの差し向けた強面の男たちが現れるに及んで、ついに折れ、子供たちを残して去っていくかに見えた。が……。

 マリー・クリスティーンはなぜ監獄に入れられたのか? 殺人だ。
 法によって罪を問われたのは最後のものだが、彼女は劇中で 4つの殺人を犯す。
 まず、彼女付きの小間使いのリゼットを、ダンテがちょっかいを出したという理由で、母直伝のヴードゥの魔術でなぶり殺す。
 次に、母の形見の宝石を抱えてダンテと一緒に家を出ようとした時、止めに入った兄を刺し殺す。
 そして……子供たちを残して去っていくかに見えた、その時に……ダンテの婚約者を、子供に手渡させた呪いを込めた装身具によって殺し(死ぬ場面は見えず)、最後には子供たちを、別れを惜しませてくれと一瞬引き取った隙に(舞台外に出るので手段はわからないが) 2人とも殺す。

 この、一見陰惨とも思えるストーリーのミュージカルを、力強く魅力的なものにしているのは、主人公マリー・クリスティーンの激しく誇り高いキャラクターと、アフリカ的な響きを背後に抱えた深みのある音楽(楽曲=マイケル・ジョン・ラチウザ? Michael John LaChiusa、編曲、歌唱、演奏)だ。
 ことに、舞台左袖のはるか上方に備えられた足場で荒々しいリズムを叩き出すパーカッショニストの存在は、次のようなイメージを思い起こさせて、意味が大きい。

 [植民住宅地区の居住者や町の住民たちは、夜になるとヒヤヒヤして眠れず、はるか遠くの山あいから聞こえてくるニグロの太鼓の鋭い連打に耳を傾けた。人びとにはこの太鼓の連打が、島の黒人同胞すべてに向けての知らせなのか、異教の神々への祈りなのかよくわからなかったが、ひとりひとりの心の奥底まで耐え難い緊張感で震えあがらせた。幾人かの奴隷は、住まいや仕事を放り出したまま、やみくもに森の中の太鼓の音のする方へと消えていった。(アンナ・ゼーガース『ハイチの宴』、初見昇・訳、新泉社、一九七〇年)]

 平岡正明著「黒い神」(毎日新聞社)からの孫引きだが、平岡説では、この太鼓の正体は、(18世紀に、イギリス軍の後押しを受けるハイチ王党派を、続けてナポレオンの命を受けたフランス軍をも倒した黒人革命指導者=) [トゥサン・ルベルチュールの反乱の呼びかけ] だということになる。
 少し長いが「黒い神」から引用する。

 [俺はこれはトーキング・ドラムだったと思っている。ハイチの黒人奴隷はダホメ王国から拉致されてきた。そこではダホメ社会の習俗、宗教が解体されぬままに生き残り、山岳地帯の森の中に逃げ込んだ逃亡奴隷たちはトーキング・ドラムの通信を解することができた。東独の女流作家が描写した「住まいや仕事を放り出したまま、やみくもに森の中の太鼓の音のする方へと消えていった」という箇所は、トーキング・ドラムによる通信をキャッチしたからだと解される。
 そう、これだ、ブードゥによるトーキング・ドラムの本質はこの恐怖でなければならない。アフリカのトーキング・ドラムやブードゥ・ドラムの民族音楽資料音源を聴いたことがあるが、こわさがない。(中略)しかし、白人に対して森の底から武装反乱をよびかけるブードゥの太鼓は、こわくなければいけない。黒人奴隷には恐怖こそが魅惑であり、白人荘園主には神経衰弱におちいらせるような。]

 ここで語られている“反乱を呼びかける森の中からのドラム”を連想させるパーカッションの演奏に導かれるように(霊的存在として)現れるマリー・クリスティーンの母は、おそらく、カリブの島ハイチから連れてこられた奴隷だったに違いない。そのハイチで、 [アフリカの大地からひき剥がされカリブ海および南米に移植された後の植民地の現実にあって呪殺宗教に転化したのだろう] (「黒い神」)というヴードゥの秘法と、トゥサン・ルベルチュールの反乱の記憶を、彼女は先祖から受け継いだ。
 そのブードゥの秘法と反乱の記憶をまるごと抱えてアメリカに生まれたのが、マリー・クリスティーンだった。西欧的価値観から独立した、生まれながらの異邦人として……。

 作者たちは間違いなく、そうした歴史を意識して、あのパーカッションを導入したはずで、だからこそパーカッショニストの足場は中空に据えられなければならなかった。その音は、霊的存在が跳梁する [はるか遠くの山あいから聞こえてくる] のだから。
 ミュージカル『マリー・クリスティーン』が、単なるマイノリティ(人種=黒人、ジェンダー=女性)の悲劇に終わっていないのは、物語が、こうした骨太の背景を持っているからだ。
 正真正銘のオペラだ、とニューヨークタイムズの記事に書かれたりしている、その音楽スタイルも、例えば、『レ・ミゼラブル LES MISERABLE』『オペラ座の怪人 THE PHANTOM OF THE OPERA』のようなヨーロッパ的なものではなく、むしろ、フォーク・オペラと呼ばれた『ポーギーとベス PORGY AND BESS』に通じるもので、クラシカルに聞こえる楽曲の背後に明らかにゴスペルの響きがある。もちろん、例のパーカッションやマリー・クリスティーンの母の歌からは、カリブ海経由のアフリカ音楽が聞こえてくる。すなわち、物語の背景と密接に結びついている。
 だから、物語の背景についての知識を持たなくても、観客には作品の持つ重層性が無意識のレヴェルで伝わる。見事なミュージカルというのは、そういうものだろう。
 『マリー・クリスティーン』が内包している、近代アメリカ(あるいはアメリカの現在)に対する過去からの(あるいはカリブ=アフリカ世界からの)告発(あるいは呪詛)は、こうして、マリー・クリスティーンの唱えるヴードゥの呪いのようにジワジワと浸透していく。それは必ずしも政治的なメッセージではなく、世界が経済の論理で変質していく中で人々が失っていった“何か”を取り戻したいという、熱病のような思いではないだろうか。

 ニューヨークに充実した舞台は数々あれど、これほど出演者全員の歌唱が素晴らしいという舞台も珍しい。
 そんな中にあって、やはりマリー・クリスティーンを演じたオードラ・マクドナルド Audra McDonald が、歌のみならず演技も、トニー賞 3回受賞の実績に対する期待を裏切らない立派な出来。この公演がトニーの対象になるのかどうかわからないが、初の主演女優賞を獲ったとしても何の不思議もない。その前の 2作に比べて、前回の『ラグタイム RAGTIME』での受賞はやや疑問が残ったが、今回は文句なし。
 そのマクドナルドとデュエットで歌って引けを取らなかったのが、小間使いリゼット役のキンバリー・ファーファン(?) Kimberly JaJuan。小柄な体から出てくる歌声の力強さに驚いた。
 その他、狂言回し的役割の 3人の囚人を演じたジェニファ・リー・ウォーレン Jennifer Leigh Warren、アンドレア・フライアスン・トニー Andrea Frierson-Toney、メアリー・ボンド・デイヴィス Mary Bond Davis、マリー・クリスティーンの母役ヴィヴィアン・リード Vivian Reed、シカゴの酒場の女主人マグダレナ役メアリー・テスタ Mary Testa など、趣の違ううまさの歌い手たちが目白押し。
 ダンテ役のアンソニー・クリヴェロ Anthony Crivello を観たのは、僕は『蜘蛛女のキス KISS OF THE SPIDER WOMAN』以来だが、あの舞台でブレント・カーヴァー Brent Carver と渡り合った確かな歌と演技で、オードラ・マクドナルドの熱演を受け止めて見事。

 ホリゾントをむき出しにした半ば素の舞台に大きな階段状のスタンド(演技をしていない役者が座る)を組み合わせ、場面に応じて背後に大樹などを登場させる、シンプルにして大胆な装置(クリストファ・バーレカ Christopher Barreca)。上だけでなく横からもスポットを当てて人物の存在を際立たせたり、暗い中にさらに舞台全体にまばらな影を作って不穏な空気を作ったりする印象的な照明(ジュールズ・フィッシャー Jules Fisher & ペギー・アイゼンハワー Peggy Eisenhauer)。ニューオーリンズ時代の若々しい気分、シカゴでの疲弊感を、色のバランスで表現していた衣装(トニ・レズリー・ジェイムズ Toni-Leslie James)。
 みな、演出家の意図を汲んだ的確な仕事ぶりだった。

 時を置いて 2度観て、 2度とも深く感動した。内容の深さと表現の見事さに。
 日本のミュージカルがこのレヴェルにたどり着く日が、いつか来るのだろうか。

(3/16/2000)

Copyright ©2000 Masahiro‘Misoppa’ Mizuguchi

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