[ゆけむり通信Vol.34]

5/6/1999
『フォッシー FOSSE』


不在の主人公像浮かび上がる

※前回の同演目観劇記はこちら

 観てよかった。前回の観劇記の最後に [ともあれ、もう 1度、観る] と書いた『フォッシー』は、見事にシェイプアップされ、素晴らしいショウに仕上がっていた。前回見受けられたダンサーのミスもなく、ショウ全体の求心力の弱さも解消されて、最後にはくっきりと、主人公であるボブ・フォッシー Bob Fosse の姿が浮かび上がってきた。
 これなら、すでに公演を終えた『パレード PARADE』を抑えてトニー賞を獲っても納得出来る。

 構成上の変更は意外なほど少ない。
 削られたナンバーは 1つだけ。前回触れた、映画でのフォッシーの初振付シーンとして知られる「From This Moments On」(1953年『キス・ミー・ケイト KISS ME, KATE』)の次に置かれていた、やはり映画からのナンバー「Alley Dance」(1955年『マイ・シスター・アイリーン MY SISTER EILEEN』)。オリジナルでは、「From This Moments On」同様フォッシー自身が踊っていて、共演はバレエ・ダンサーのトミー・ロール Tommy Rall。 2人のダンス合戦というのが、その内容だ。
 なぜこのナンバーがカットされたかは知る由もないが、前回観た時にここでダンサーにミスがあったことは覚えている。
 それ以外の変化は、 2つのナンバーにダンサーが 1人ずつ増えたこと。そのナンバーがいずれも、先の「Alley Dance」のすぐ後に並ぶものであることが、カットと関係があるのかもしれない。

 しかし、わずかそれだけの変更にもかかわらず、印象は一変した。
 と書くと、前回の印象が悪かったかのようだが、そういうわけではない。 [予備知識がなくてもレヴェルの高いダンスを楽しめるし、オリジナルをなんらかの形で知っていれば 2度おいしい、一見の価値ありのショウ] と前回の舞台も評価している。が、今回観たパフォーマンスは、そうした通り一遍の誉め言葉をはるかに超えた、ブロードウェイならではの超一級のもの。深く感動した。
 前回はプレヴューの半ば。その後ナンバーがカットされたことから考えて、おそらく細かい部分はまだ調整中だったということだろう。当然ダンサーにも、試行錯誤の部分があったと思われる。
 なにしろこの作品、全編ダンス・ナンバーであるうえに、 1つ 1つのダンスの難易度が非常に高い。同じボブ・フォッシー→アン・ラインキング Ann Leinking 路線でよみがえった『シカゴ CHICAGO』を観た時に、ダンサーに緊張を強いる舞台だなあと思ったが、『フォッシー』は、その『シカゴ』のドラマ部分と歌部分を除いたダンス部分だけを繰り返し演じるようなもの。ダンサーの要求される集中力は生半可なものじゃない。プロなんだから踊れて当然だろう、といったレヴェルをはるかに超えている。したがって、優れた技量を持ったダンサーであっても、全てのナンバーをこなしきるまでには時間がかかって当然だ。

 そして今、ダンサーたちの演技も安定し、充実した舞台に仕上がってみれば、作者たちの意図もはっきり見える。
 第 1幕冒頭と第 3幕のフィナーレ前にブックエンドのように置かれているのが、作品中唯一の歌だけのナンバー「Life Is Just a Bowl of Cherries」。“人生は鉢に盛られたチェリー(手つかずのものという意味か)みたいなもの。あんまりマジメに考えない方がいい”という、「All That Jazz」に通じる、悲観と楽観の入り交じったフォッシー好みの人生観がほの見えるこの歌が、全体の気分を決定する。
 そして、第 1幕のこの歌の後に来るのが、「Fosse's World」と題された、“フォッシー・スタイル”のダンスの断片をモンタージュ的に並べてみせる夢幻的なナンバー。これに対応するのが、終盤の「Mr. Bojangles」。圧倒的なフォッシーのダンス世界が繰り広げられた後に登場して、老ダンサーの哀感を静かに、しかし感動的に描きだす「Mr. Bojangles」は、夢の終わりを告げるかのように名残惜しげなナンバーだ。それに続けて再び「Life Is Just a Bowl of Cherries」が歌われる時に、観客は気づく。
 ああ、今観てきたこの舞台は、死の間際にフォッシーの脳裏に去来した彼の夢だったのだ、と。ナンバーとナンバーのつなぎの部分にも、そうした空気が色濃く漂う。
 終盤に、自己告白的映画『オール・ザット・ジャズ ALL THAT JAZZ』のナンバーが並ぶのも、明らかにそういう意図からだろう。

 しかし、そうした感傷的な気分とは別に、この作品には明らかに前向きな意図がある。それは、フォッシーが絶えず行なってきたこと――伝統的な芸の今日的再生――を受け継ぐことだ。
 この舞台で行なわれているのは、フォッシーの手がけたダンスのノスタルジックな“再現”ではなく、フォッシーの業績を、現代のダンサーの肉体を使って再確認する作業だと思う。だからこそ、我々観客も、客席で観ていながら緊張し、充足感を得ることが出来るのだ。

 さて、前回の観劇記で提出した仮説 [ボブ・フォッシーのダンスは、緩い構成のドラマをまとめ上げる時に最も力を発揮するのではないか] は、以上の記述を読んでいただければわかる通り、舞台の出来とは直接は関わりがなかった。 [求心力の弱さは物語性のなさから来ているのではないか] という推論が当たっていたのは、フォッシー自身の物語が浮かび上がることで“求心力の弱さ”が解消された今回の舞台で証明されたが、その“物語性”と前掲の仮説とは、ここでは関係がなかったということだ。
 1勝 1敗ってことで(笑)。

 隣の劇場の『シカゴ』が、度重なるキャストの変更に伴ってやや力を失いつつある今、ブロードウェイ最高のパフォーマンスは、ここブロードハースト劇場にある。おそらく、トニー賞発表を挟んで前後それぞれひと月が、精神的にも肉体的にもキャストが最も充実する時だろう。
 舞台には旬がある。これだけレヴェルの高いダンス・ミュージカルの場合、その旬も短い可能性が高い。観るなら早いうちに。

(5/24/1999)

※次回の同演目観劇記はこちら

Copyright ©1999 Masahiro‘Misoppa’ Mizuguchi

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