[ゆけむり通信Vol.32]

1/2/1999
『パレード PARADE』


98-99年シーズンの最高作(推定)

 チケットは取ってあったものの、劇場に足を運ぶまではやや気が重かった。なにしろ題材が、実際にあったという冤罪の話。出来れば観劇の後は明るい気持ちになりたい僕としては、まあがまんして観るか、という気分だった。
 でもね、やっぱ舞台は観てからじゃないと発言しちゃいけない。改めて、そう思った。
 素晴らしい。第 1幕を観終わった時にすでに感動。その描き方の見事さに。
 アメリカン・ミュージカル。その底力たるや(絶句)。

 『パレード』というタイトルの由来は、直接的にはメモリアル・デイのパレード。メモリアル・デイは、一般には合衆国の戦没将兵記念日だが、南部諸州では南北戦争の南軍戦没者追悼の日とされているらしい。

 物語の舞台は、その南部の中心州とも言われるジョージア。
 時は 1913年。南北戦争終結からすでに半世紀。しかし、今年もまたメモリアル・デイには南軍の生き残り老兵が誇り高い表情でパレードに参加し、ワスプ WASP (という言葉は当時はないんですが)の人種的優位を誇示する。
 そんな土地で、 13歳の少女の強姦殺人事件が起こる。容疑者として逮捕されたのは、北部から来たレオ・フランク。少女が働いていた工場に勤める実直なユダヤ人だった。
 政治的思惑もあり、早期解決を図る検察(州政府)は、状況証拠だけでレオを犯人に仕立て上げていく。
 孤立するレオを支えたのは、ジョージア生まれの妻ルシール。 2人は、この事件を通して、初めて心が通じ合ったように感じる。そして、家にいるだけの女だったルシールは、レオの潔白を証明するために、夫に不利だった証言を覆す作業を始める。
 その努力が実ってレオの無実がしだいに明らかになり、釈放も間近という頃、レオは南軍の生き残り老兵を中心とする男たちによって留置場から連れ出され、首を括られる。
 そしてまたジョージアにメモリアル・デイが巡ってくる。何事もなかったようにパレードは続き、人々は生きていく。その中には、レオの思い出を胸に秘めたルシールの姿もあった。

 このやりきれない話を、声高な告発劇でも、お涙ちょうだいのメロドラマでもない、深みのある人間ドラマ、それもミュージカルでしか表現し得ない感動的な舞台ドラマに仕上げたのは、脚本(アルフレッド・アーリー Alfred Uhry)、演出(ハロルド・プリンス Harold Prince)、作曲・作詞(ジェイスン・ロバート・ブラウン Jason Robert Brown)の力だ。

 脚本は複眼的。それが物語にふくらみを持たせ、厚みを増す。
 主軸は、南部で突然苦境に立たされる北部出身ユダヤ人の悲劇。しかし、同時に南部の貧しい白人の閉塞感(なにしろ 13歳の少女たちが工場で働かざるを得ないという状況)や、最下層に位置する黒人が愚かさという仮面をかぶって白人に抗う姿なども描かれる。それも、集団として観念的にではなく、様々な個性を持った人間の寄り集まりとして、ていねいに 1人 1人描き出されている。
 そうしたキャラクターの豊富さが、物語を拡散させることなく、“慈愛”とでも呼びたくなるような感情に最終的に収れんされていく。そうしたところにも、この脚本の見事さがある。

 そうした脚本の意図を舞台上で具現化していく演出の冴えは、例えば法廷シーンに顕著に表れる。
 被告席、証言台、陪審員席などのセットを、裁判の途中でアッと言う間にグルリと入れ替え、観客の視点を実際に変えることで、物語の見え方を変えてしまうという手法。あるいは、証言の内容を、法廷にいる証人や被告が絞られた照明の中で再現ドラマ風に演じることで、逆にその証言の曖昧さを観客に意識させる手法。
 こうした見せ方は、観客の中に容易に芽生えがちな善悪の判断に揺さぶりをかける。
 また、装置の転換を見せ場にするハロルド・プリンスには珍しく、場面の変わり目が暗転ばかりなのだが、そこにかぶさる教会音楽的なコーラスや重い響きの鐘の音などが効果的で、かえって新鮮な印象すら受けた。それは暗転による“癒やし”のようにすら思えたのだが、うがちすぎだろうか。

 楽曲には、南部らしいゴスペル的な気分をたたえたフォーク・オペラといった趣がある。この楽曲の力がなければ、前述した“慈愛”の感情は決して生まれなかっただろう。
 そして、一見落ち着いて味わい深く思える楽曲群の奥底の部分には、巧妙に不安定な不協和音が紛れ込ませてあり、それがまた、この作品世界にさらに奥行きを与えていることにも気づく。

 こうした一筋縄ではいかないドラマに、ある種のさわやかさを与えたという点に関しては、やはり主役のフランク夫妻を演じた 2人の役者の功績を挙げないわけにはいかない。
 『蜘蛛女のキス KISS OF THE SPIDER WOMAN』のモリーナ役で鮮烈なブロードウェイ・デビューを飾ったブレント・カーヴァー Brent Carver は、またしても“監獄役者”としての登場(笑)。同じように繊細でありながら、モリーナのようなエキセントリックさはない悲劇的主人公レオを、淡々と、それでいてユーモラスに演じて、見事だった。
 ルシールを演じたキャロリー・カーメロ Carolee Carmello は、成熟と無垢の狭間で揺れ動くような不思議な魅力を持った役者。今回も、夫の事件をきっかけに自分を取り戻していく無垢な女性の変化のドラマを、情感豊かに演じた。
 そしてこのミュージカルは、この 2人のラヴ・ストーリーというプライヴェートな世界のドラマを核としたことで、舞台表現の芸術性と娯楽性をバランスよく獲得出来たのだと思う。

 作品の主張するところについては様々な解釈が成り立つと思うが、僕は、レオ亡き後のジョージアに「私は残るわ。ジョージアで生まれた女だから」と言う最後のルシールの姿に、絶えず自分たちの足元を正面から見つめ直していこうとするアメリカ人(作者たち)の意志を感じて、感銘を受けた。

 限定公演としてスタートしたものの、一旦はロングラン計画が発表されチケットも売り出されたが、売れ行きが芳しくなかったのか、残念ながら予定通り 2月 28日で終了となった『パレード』。ライヴェント Livent のプロデュースでなければ、もっと続けられたのだろうか?
 しかし、僕の中ではこの作品、今シーズンのトニー賞の、作品賞、脚本賞、演出賞、楽曲賞、主演男優賞、主演女優賞を受賞することが決まっており、その他の部門についても検討中ということになっている(笑)。
 授賞式まであと 3か月弱。とりあえずは、その前のノミネーション発表が楽しみではあります。

(3/15/1999)

Copyright ©1999 Masahiro‘Misoppa’ Mizuguchi

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