[ゆけむり通信Vol.31]

9/30/1998
『ブリング・イン・ダ・ノイズ、ブリング・イン・ダ・ファンク
BRING IN 'DA NOISE, BRING IN 'DA FUNK』
『レント RENT』


新世代ミュージカルのその後

 『ブリング・イン・ダ・ノイズ、ブリング・イン・ダ・ファンク(ノイズ/ファンク)』『レント』は、前者が 1996年 4月 25日、後者が同年 4月 29日と、ほとんど時を同じくしてブロードウェイでオープン。しかも、オフ・オフからの移転公演、若いスタッフとキャストによる“今”的感覚の内容という共通項もあって、並べて語られることが多い。
 僕の中でもこの 2作は、どちらも開幕直後の 5月初頭(『ノイズ/ファンク』 5月 9日、『レント』 5月 4日)に観たこともあり、分かちがたく結びついている(ちなみにシティ・センターで『シカゴ CHICAGO』を観たのもこの週。なんという 1週間!)。
 あれから早 2年半近くが過ぎ、どちらもキャストがほとんど入れ替わった。そして、それぞれに変化を遂げていたが、その変わり方から作品の本質的な部分が見えて興味深かった。

* * * * * * * * * *

 『ノイズ/ファンク』については、 1度、『ジェリーズ・ラスト・ジャム JELLY'S LAST JAM』のところで触れた。
 そこでも書いたことだが、 96年になって突然に『ノイズ/ファンク』が登場したわけではない。タップによる新たな表現の模索は『ジェリーズ・ラスト・ジャム JELLY'S LAST JAM』から始まったのであり、そこでのコラボレイションから、ジョージ・C・ウルフ George C. Wolfe とサヴィオン(最近はセイヴィオンと書くことが多いようだが)・グローヴァー Savion Glover が『ノイズ/ファンク』のアイディアを得たのは間違いない。
 そして、繰り返せば――、
 [そこで試みたタップ・ダンスの新たな表現が、サヴィオン・グローヴァーを軸にした若い世代のダンサーによってさらに模索され、深化された結果が『ノイズ/ファンク』のストリート・タップになった。その背景には、何世代にも及ぶエンタテインメントとしての自分たちの芸に対する再考察と、アフリカン・アメリカンである自分たちのアイデンティティの再検証があったはずだ。スタイルの模倣だけではとうてい及ばない芸の深さと志の高さが、そこにはある]
 ――ということだ。

 初見の際のリポートはこうだ。

 [ひと言で言えば、タップで綴るアフリカン・アメリカンの生活と芸能の歴史。
 振付もしたサヴィオン・グローヴァーを中心にダンサーが 5人。プラスティックのバケツを叩くドラマー 2人。歌手 1人(アン・デュケスネイ Ann Duquesnay)。M.C.兼ラッパー 1人(ジェフリー・ライト Jeffrey Wright)。彼らが、シンプルなセットの中で、ダンスとリズム、それに歌と語りで表現していくのは、次のような内容だ。
 現代の街のヒップ・ホップで幕を開けた後、奴隷船でアメリカに運ばれ、南部の畑で働き、北部の工業地域に流れて歯車になり、暑い夏に暴動を起こして……というアフロ・アメリカンの生活史が綴られるのが第 1幕。
 第 2幕は芸能史で、ダンスのスタイルの変遷を見せながら、一方で絶えずメイン・ストリームからは外れていくアフリカン・アメリカンの姿もくっきりと描き出す。そして最後は現代に戻り、ノイズとファンクが爆発する。
 現代の街のリズムをミュージカルの舞台に持ち込んだことが、まず素晴らしい。が、さらに素晴らしいのはキャスト。みんな若いがキャリアが豊富で、伝統をしっかり身に付けていて、先人が積み重ねてきた歴史を尊重していることだ。頭だけでなく体も歴史を知っているので、こうした構成のショウが単なる“お勉強”にならない。むしろ、非常に説得力のある前向きなメッセージを持った舞台を生み出すことに成功している。
 とにかくみんな達者で、しかも新しいものを生み出す喜びにあふれていて、観ていてとても気持ちがいい。小編成のバンドも、微妙なグルーヴのタップと見事なコンビネーションを見せる。]

 オリジナル・キャストのダンサーは、サヴィオンの他に、ヴィンセント・ビンガム Vincent Bingham、デューレ・ヒル Dule Hill、ジミー・テイト Jimmy Tate、バーカリ・ワイルダー Baakari Wilder の 4人。
 その内今も残っているのは、サヴィオンの役を受け継いだワイルダーと、ヒルの 2人で、新しい顔ぶれは、マーシャル・L・デイヴィス Marshall L. Davis、オマー・A・エドワーズ Omar A. Edwards、ジェイソン・サミュエルズ Jason Samuels の 3人。ただし、観たマティネー公演ではヒルは休演で、ドーメシア・サンブリー Dormeshia Sumbry という代役の女性ダンサーが加わっていた。
 歌のデュケスネイ、ラップのライト(映画 『バスキア BASQUIAT』の主役)の姿も今はなく、歌はティナ・ファブリーク Tina Fabrique からさらにアイシャ・デ・ハース Aisha De Haas に最近引き継がれたところ。ラップはカーティス・マクラリン Curtis McClarin。
 ただし、ジェアード・クロウフォード Jared Crawford とレイモンド・キング Raymond King のドラマー・コンビは健在。

 今回は、 96年 6月 25日に再びオリジナル・キャストで観て以来の 3度目の観劇だったが、スター、サヴィオンが去り、顔ぶれが変わって当然テイストにも変化が見られるものの、舞台の充実度は依然高く、改めて興奮させてもらった。

 と言うのも、『ノイズ/ファンク』は――、
 1) 個人芸の比重が大きい。
 2) ブラック・エンタテインメント・コミュニティの共同体意識が濃い。
 ――だから、キャストが替わってもテンションが下がらないのだ。

 もう少し詳しく言うと――、

 1) 『ノイズ/ファンク』には初見のリポートで書いたような構成の流れがあるが、基本的なスタイルはレヴューであり、各シーンの見どころは、それぞれのキャストのタップや歌などの芸なのだ。したがって、キャストの交替にあたっては、その役柄に合っているとか前任者に似ているなどという要因より、その場で見せるだけの芸を持っているかどうかの方が重要になる。
 実際、サヴィオンとその後任のワイルダーは、外見もタップのスタイルも似ていない。似ているのは、芸の質の高さだ。だから、キャストが替わっても、新キャストがそれまでのキャストのイメージをなぞるような模倣感がなく、各キャストが自分の持てる力を存分に発揮している印象を受ける。歴代初だと思われる女性ダンサー(代役のサンブリー)が登場しても全く違和感がないことも、その証左だろう。

 2) ブラック・エンタテインメント・コミュニティの一員であるキャストにとって、この作品が描いているのは彼らの家族の物語であり、彼ら自身の物語でもある。この舞台に立っていること自体が、『ノイズ/ファンク』の物語の一部なのだ。
 だから、演じる動機が非常に強い。自分自身のために歌い踊る、という気持ちが強いはずだ。

 ――そんなわけで、新鮮さを失わない『ノイズ/ファンク』だが、上に挙げた要因ゆえにツアー・カンパニーを組んだり、ましてや翻訳上演をしたりすることが出来ない。
 だからこそ素晴らしいと僕は思う。全世界で演じられることだけが素晴らしさの証明ではないのだ。

* * * * * * * * * *

 『レント』初見時のリポートは、こうだ。

 [今年の 2月にオフ・オフのニューヨーク・シアター・ワークショップで幕を開け、ピュリッツァー賞を受賞したこともあって大評判になり、 4月の末にいきなりブロードウェイに移った“ロック・オペラ”。脚本・曲詞を手がけた生みの親ジョナサン・ラーソン Jonathan Larson が開幕の前に突然亡くなったことも作品にある種の神秘性を与え、観客の関心を煽ったようだ。
 そういう“旬”の作品らしい熱気に満ちた舞台で、観客の期待感の大きさもあって、有無を言わせぬ迫力があった。

 ストーリーはオペラ『ボエーム LA BOHEME』を下敷きにしてある。
 舞台はニューヨークのイースト・ヴィレッジ。住んでいるのは家賃(レント)も払えない若者たち。中心になるのは、死ぬ前に名曲を書きたいと願う HIV 陽性のロック・ミュージシャン、ロジャーと、 SM クラブで踊っているヘロイン中毒のエイズ患者ミミ。この 2人の苦悩に満ちた恋物語を軸に、夢と過酷すぎる現実の狭間でもがく人種も様々な若き“ニューヨーカー”たちの姿が、ユーモラスな場面を交えながらも鮮烈に描かれていく。
 この作品が“新世代のミュージカル”として話題になっている理由は、 1つにはエイズ、麻薬、同性愛といった扱っている題材にあり、もう 1つは生々しい響きを持った音楽にある。
 オフ・オフやオフの小さな劇場での限定された観客に向けての舞台でならさほど珍しくもないだろう、そうした今日的要素も、一旦、ブロードウェイの劇場に登場してしまうと一際異彩を放ってしまうのがミュージカル界の現状で、低予算で作られたその作品が質的にも多額の資金を投入した他の作品に見劣りしないというのであれば、それは話題にならない方がおかしい。

 だが、『レント』が舞台ミュージカルとして特別に“新しい”というわけではない。
 エイズや同性愛をとり上げたということで言えば 92年にやはりオフの作品をブロードウェイに持ち込んだ『ファルセトーズ FALSETTOS』があり、ロック的な音楽なら近くは 93年の『トミー TOMMY』があった。それらと比べても、『レント』は構成も語り口もオーソドックスなくらいだ。
 この作品の魅力はむしろ、楽曲と登場人物の個性、という極めて基本的なところにある、というのが僕の見方だ。

 ラーソンの楽曲は、ロックンロール、リズム&ブルース、ゴスペル、レゲエなどに根ざしていて、親しみやすいと同時に訴求力も持つ。特に、第 2幕の頭で出演者全員が舞台前方に横一列に並んで歌う「Seasons of Love」は、ゴスペルのスタイルを生かして盛り上がる、感動させずにはおかないぞ、という佳曲。
 そうした楽曲を役者たちが、どこか切迫した感じで熱っぽく歌っていくのだが、それをサポートする 5人組のバンドと歌い手との一体感がさらに歌を熱くする(バンドはオーケストラ・ピットでも舞台袖でも舞台奥でもなく、舞台下手に姿を見せている)。その一体感は、技術的にはミキシングの問題と言ってしまえるわけだが、そうした技術を超えた連帯感を役者とバンドとの間に感じた。

 そして、このミュージカルで最も魅力的だったのは登場人物の個性。それはそのまま役者の個性でもある。
 可愛さと妖しさと儚さが小柄な肢体に同居するミミ役のダフネ・ルビンヴェガ Daphne Rubin-Vega は、舞台の上でみるみる輝きを増していく。
 女装のゲイ、エンジェルは文字通り天使のようにみんなを勇気づける存在。演じるウィルソン・ジャーメイン・ヘレディア Wilson Jermaine Herediaは、狂騒的な踊りの中にエンジェルの情熱と悲しみを描き出してみせた。
 その恋人トム・コリンズは若き街の哲学者。演じるジェシー・マーティン Jesse L. Martin の思慮深い風貌と落ち着いた演技が舞台を締める。
 ロジャー役のアダム・パスカル Adam Pascal は本物のミュージシャンでこれが舞台デビューだが、鮮やかな印象を残す。
 その他、狂言回しのヴィデオ作家マーク役アンソニー・ラップ Anthony Rapp、その元恋人でバイ・セクシャルのモーリーン役イディナ・メンズェル Idina Menzel、彼女の現在の恋人ジョアン役フレディ・ウォーカー Fredi Walker ら、みんな強烈な愛すべき連中として舞台で息づいている。
 こうしたブロードウェイでの経験などほとんど持たない若い役者たちが、自身の現実とダブって見える役を体当たりで演じるという迫真性。これが『レント』がブロードウェイで“新しく”見える最大の理由だろうし、人々を惹きつけている理由でもある。]

 そして最後に、こう書いている。

 [だからこそ、と思う。この作品がロングランするのはむずかしいのではないか。こうした、演じる者にとってリアルな舞台が、長く続くことで変質するのかしないのか。そういう意味では『コーラスライン A CHORUS LINE』に似ていなくもない。]

 『コーラスライン』云々は、こういうことだ。
 『コーラスライン』は、ダンサーたちの“告白”とも言うべきインタヴューから生まれた。したがってオリジナル・キャストにとっては、架空の役柄とは言え、ほとんど自分自身と重なり合うようなリアルさをもって演じられたと言われる。
 [しかしながら、(中略)三三八九回も公演を重ねてみると、いまや踊る人達のエネルギーの表出にいたるまで形骸化し、全ては一片のエンターエーメントに過ぎなくなってしまった舞台をみて、私はただ茫然とした。] (大平和登「ブロードウェイ PART2」作品社)
 三三八九回というのは『コーラスライン』がロングラン記録を塗り替えた時のことで、大平氏はその記念公演を観て、この文章を書いている。
 オフ・オフからのジャンプアップも含めて、『レント』『コーラスライン』はよく似ている。そしておそらく、オリジナル・キャストの迫真性にも、かなり近いものがあっただろう。だから僕は、即座に上記の大平氏の文章を思い出した、というわけだ。

 そして今回。
 “ロングランはむずかしい”という予想が当たらなかったのはご承知の通りで、そういう意味でも『コーラスライン』と似てきたわけだが、舞台の変質はやはり感じざるを得なかった。それもスケール・ダウンという方向で。

 オリジナル・キャスト 15人の内、残っていたのはアンサンブルのバイロン・アトリー Byron Utley のみ。
 残る 14人は当然入れ替わっているわけだが、何人かは 3代目以上だったりするのだろう。しかし、『ノイズ/ファンク』と対照的に、どのキャストもオリジナル・キャストと似た外見を持って(あるいは持たされて)いるのが特徴的。つまり、オリジナル・キャストのイメージをなぞるキャスティングがされているわけだ。そして、新しいキャストは一様に、オリジナル・キャストの幻影の中で演技している。
 それがオリジナル・キャストの強烈な個性の証明であるのはもちろんだが、さらに言えば、彼らの個性の強烈さが“芸”を超えたところで成り立っていたということになりはしないか。
 例えば『ノイズ/ファンク』が、あるいは『シカゴ』がそうであるように、高度に鍛錬された“芸”を必要とするキャストの場合、キャラクターの類似性以上に“芸”の高さが求められるため、交替する時に違うタイプのキャスティングがなされることがままある。
 しかし、『レント』の場合はそうではない。『レント』のキャストには、そこまで高度な(伝統的な意味での)“芸”はなかった。
 では、僕らは何に惹かれたのか。僕ら(オリジナル・キャストの舞台を観た者)は、彼らの、演技とばかりは言い切れないヒリヒリするような表現欲求を抱えた、危うい感じのする存在そのものに惹かれ、瞬間深く愛したのではなかったか。
 ――そして、そのヒリヒリ感は、今の舞台にはすでにない。

 もちろん、それでも『レント』は、ジョナサン・ラーソンの楽曲の魅力と、オリジナル・キャストの残した鮮やかなキャラクターの残影とがしっかりと支えて、一見に値する作品には仕上がっている。
 日本を含め、世界の各地で公演が成り立っているのも、その証明なのだろう。
 しかし、と思う。オリジナル・キャストというのはどの作品においても特別なものではあるが、『レント』の場合は、 1) 実人生と作品世界との近さ、 2) 熟練の芸ではない個性表現、という点で、特別さの度合いが違った。一期一会。あの時のあのオリジナル・キャストにしかない“何か”が、あそこにはあったのだ。
 そして、その“何か”が、よく取り沙汰される「No Day But Today」という言葉に代表されるメッセージとダブって、多くの人の心を打ったのだ。そう思う。
 でなければ、さほど特別なメッセージではないもの。言葉としては素敵だけれど。

 ところで『レント』、相変わらず半額チケットは出ないし、週末の最高価格が 80ドルに値上がりしたりしているので(強欲すぎませんか、プロデューサー?)実態が見えにくいが、すでに劇場窓口では比較的容易に希望の席が手に入るようになっている。

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 最後に、ミュージカルの“ローカル性”について少しだけ書く。

 『ノイズ/ファンク』『レント』、共にニューヨークという土地柄を色濃く反映した作品だ。そして、扱っている題材もかなり特殊なもの。
 そうした作品がある種の普遍性を持って興行的に成り立っていく背景には、作品のパワーと同時に、ニューヨークについての情報量の多さとニューヨーク/ブロードウェイという土地に抱く幻想がある。それを日本で翻訳上演するにあたって、テーマに普遍性があるから日本人が日本語で演じてもパワーを持ち得るという発想は、あまりにも安易すぎる――というのは、ここでは本題ではない。
 『ノイズ/ファンク』『レント』は、ニューヨークという土地が特殊なためにその“ローカル性”が見えにくいが、ある種の“ローカル性”、つまり土地に根ざした部分があって初めて作品がリアリティを獲得するということを、この 2つの新世代ミュージカルは証明していると思う。
 で、本題は――、日本でも自分たちの足元を見て作品を作りませんか、ということ。翻訳上演は論外として(せめて翻案上演であってほしい)、どこの話だかわからないメルヘンとか、舞台は日本や中国だけど時代性と地域性を無視した音楽が出てくるものとか、そういうのはそろそろ止めにしませんか。

 こんな長い文章、最後まで読んでくれてありがとう。あなたは僕の同志です(笑)。

(11/13/1998)

Copyright ©1998 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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