[ゆけむり通信Vol.29]

3/19/1998
『ケイプマン THE CAPEMAN』


演出家の腕と観客の熱気

※まずは前回の観劇記をお読みください。

 クローズするニュースが日本の新聞にも載ったポール・サイモン Paul Simon のブロードウェイ初挑戦ミュージカル『ケイプマン』(終わるってんで報道するなら始まる時にもやんなよ、日本の新聞)。
 プレヴューを観た印象は前回も書いたように満足できるものではなかったが、そこでも触れたように、正式オープン前にジェリー・ザックス Jerry Zaks(演出)とジョーイ・マックニーリー Joey McKneeley(振付)をノー・クレジットで迎えてテコ入れを図った。それでも興行的には前述の通り終わりを迎えることになったわけだが、ねらいを絞り込んだ的確な改変で、かなり観やすくなっていたのも事実だ。
 さらに、ヒスパニック系の観客の熱い反応も目の当たりにして、2度目の観劇は興味深いものになった。

 ジェリー・ザックスは何をどう変え、どう観やすくなったか。

 まずはオープニング。
 プレヴュー時の始まり方は、釈放されたサルヴァドール(サル)がニューヨークの街角に現れて回想を始める、というものだった。
 リニューアル後の舞台では、最初に母親に付き添われた幼いサルが登場する。続いて成人したサルが、それから事件を起こした当時の青年サルが姿を現し、観客の前に3つの時代の主人公が並び立つ。
 まるで人格を3つに引き裂かれてとまどっているかのように。

 その分裂のイメージは、クロージングの改変でさらに際立つ。
 プレヴューでは、釈放されたもののやはり強い孤立感を抱くサルが、母の暮らす家に帰り着いて、ひとときの安らぎを得るところで終わっていたが、今回はその後に、オープニングと同じように3人のサルが暗闇に浮かび上がるシーンが付け加えられた。

 そうすることで見えてきたのが、主人公の苦悩の本質。
 彼を本当に傷つけたのは、貧しい環境でも、理解のない義父でも、差別的な社会でもない。それは、過去の自分を悔やみ、憐れんで、愛することのできない自分自身なのだ。だからこそ、刑務所で成人し、改悛したかのように人の変わった彼は、過去の自分から告発される。

 という解釈はともかく、最初と最後の演出の変更により、この作品の流れがそういう主人公の精神史であることがはっきりして、プレヴューの時よりはるかにすっきりと、わかりやすくなったのは間違いない。
 とにかく前回観た時は、つかみどころがなく、話が進めば進むほど観客の集中力が低下して熱気が引いていくのがわかるほどだった。

 さらにザックスは、楽曲6曲をカット、ファースト・シーンの変更に伴ってそこにあった1曲を第2幕の終盤に移し、第2幕中盤はかなり曲順を入れ換え、第1幕最後のシーンはまるごと第2幕冒頭に移動させた。
 細かい変更を挙げればきりがないし、そこまで指摘することも出来ないが、要するに、前述した主人公の精神史という骨格に沿って贅肉をそぎ落とし、観客に全体像が見えやすくしたということだろう。

 こうした作品像の劇的な変化と共に興味深かったのが、ヒスパニック系観客の熱狂。
 いわゆる英語新聞のほとんどがこの舞台の出来を認めない中、スペイン語新聞が「いろいろと叩かれているが誇りを持って観に行こう」とヒスパニック系住民に呼びかけている、というニュースを Playbill On-Line で読んではいたが、それに応えるかのように、劇場にはそれらしき人々が多数つめかけていた。
 その客席の変化は、主演のルベーン・ブレイズ Ruben Blades とマーク・アンソニー Marc Anthony が立て続けに登場した時の沸き方に如実だった。プレヴューの時には客席も舞台上の役者も、どこかとまどい気味だったが、今回はツーカー、打てば響く感じ。特にマーク・アンソニーが姿を現した時など、コマ劇場の杉良太郎ってこうなんじゃないかと思わせるような歓声が渦巻いた。
 カーテン・コールでも、とても10日後にクローズを控えた舞台とは思えない熱い拍手が起こり、役者たちも実に晴れやかな誇りに満ちた面持ちでそれに応えていた。

 腕利き演出家のプロフェッショナルな仕事ぶり。ブロードウェイの劇場ではめったに観ることのない中南米系の人々の交歓の図。――演劇都市ニューヨークならではの“事件”を目撃して、この終わりゆくミュージカルにもう1度足を運んで本当によかったと思った。

(5/15/1998)

Copyright ©1998 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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