「ビギン・ザ・ビギン 日本ショウビジネス楽屋口」
和田誠(文藝春秋)

日劇のレヴューを映画で観たい

 和田誠監督劇場映画第3作『怖がる人々』のメイキング本「怖がる人々を作った人々」(文藝春秋)のプロローグにこんな文章がある。

 [一九八四年に「麻雀放浪記」を監督した。(中略)一九八八年に「快盗ルビイ」を作った。(中略)さらに四年たった一九九二年に新しい話があった。いずれもオリンピックの年である。「五輪監督だあ」などと冗談を言っていたが、三本目は流れた。バブル崩壊のあおりを食ったらしい。レヴューをテーマにした映画で、全盛期のレヴューを再現したいため大金がかかるのである]

 流れた映画は脚本も出来上がっていてクランク・イン直前だった、というお話を、和田氏ご自身の口からうかがったことがある。タイトルは『日劇物語』

 有楽町にあったレヴューの殿堂、日劇こと日本劇場がなくなったのは1981年。その頃に、雑誌「オール読物」に連載の形で書かれたという「ビギン・ザ・ビギン 日本ショウビジネス楽屋口」は、戦後日本のショウ・ビジネス世界の息吹を生き生きと伝える貴重なリポートだ。

 執筆のきっかけは、和田氏の伯父上、山本紫朗氏が日劇のプロデューサーであったことにあり、その辺の事情は、あとがきによるとこうだ。

 たまたま法事の席で山本氏の芸能話を漏れ聞いた和田氏は、俄然興味を持つ。
 [ぼくもショウビジネスは好きだが、ただの観客であって、伯父の仕事とは無関係だった。しかしこの際、話を聞いておくべきだとぼくは考えた。(中略)そこで、聞き書きで「山本紫朗伝」をこしらえようと思った。]
 山本氏は、[「ショウビジネス全体のことを書くならいい。その中の一部分に、ぼくが登場するということでいいじゃないか」]ということで承諾。和田氏の取材はスタートするが、[ショウビジネス全体を書け、と伯父は言ったけれども、ショウビジネス全体となると恐ろしく広い間口になる。それで、やはり、山本紫朗に的を絞らざるを得なかった。しかし伯父の話のウラを取る形でいろいろな方々に会い、お話をうかがったので、単に一人の伝記にはならなかったと思う]
 そして、[偶然に、それが日劇がなくなる時期とぶつかった。そのため、このレポートは、「日劇伝」と言えるものとなった]

 和田氏は実に多くの人々に取材し、興味深いエピソードを聞き出すのだが、素晴らしいのは、あらゆる話が具体的なことだ。
 単なるノスタルジックな思い出話じゃない。うれしかった話、悲しかった話、苦労した話、そんな話の向こうにいろんなものが見えてくる。人間関係、お金のこと、組織のこと、芸のこと、楽屋の匂いまで伝わってきそうだ。
 和田氏の関心のあり方は、どの著作を読んでもいつも具体的ではあるが、この本における氏の取材姿勢はそれが徹底していて、すでにこの時点で、かつてのショウ・ビジネス界の映像的な再現を心に描いていたのではないか、という思いを僕に抱かせる。

 また、[レポート]と言いながらも、本全体に見事な演出が施されていて、日劇最後の日や越路吹雪のことを書いた章などは、よく出来た短編小説を読んだ気分を味わわせてくれるし、一方には、「ショウの構成について」「振付と舞踊構成」などといった当時の舞台を想像させる[ゲキもは]者向きの章もある。
 そして、1冊を読み通した時には、レヴューを愛する人たちの夢や情熱と冷酷な現実とのせめぎ合いが、大きなドラマとして浮かび上がってくる。

 そこに、映画『日劇物語』のイメージをタブらせてしまう僕は、その撮られなかった映画を観たくて観たくてしかたがない。
 山本氏からショウの構成について聞いたり、振付家県洋二氏の振付ノートを見たりしながら、和田氏は、自分が映画に撮るとしたらこういう風にと、ショウ場面を絵コンテ付きで考えたと思うのだ(僕の想像の中では絵コンテも存在する!)。

 そんな素晴らしい映画(と言ってしまおう)を観ないまま死にたくない。

 と言うわけで、ここに『日劇物語』をどうしても撮ってほしい会、略して N.D.T.を発足させます。
 賛同者はメールをください。

※残念ながら現時点で、この本は、文庫版も含め入手困難です。

(8/13/1997)

Copyright ©1997 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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