『五線譜のラブレター DE-LOVELY』
アーウィン・ウィンクラー Irwin Winkler(MGM)

優雅な過激派

 僕にブロードウェイ・ミュージカルの素晴らしさを教えてくれたのが『エニシング・ゴーズ ANYTHING GOES』であることは、こちらにも書いた。そのせいもあるかもしれないが、ブロードウェイ・ミュージカルの歴史を語る時に名前を挙げられるジェローム・カーン Jerome Kern 以降の有名楽曲作者の中では、コール・ポーター Cole Porter が好きだ。

 “優雅な過激派”。ポーターの作風をひと言で言うと、そういう印象。
 例えば、『エニシング・ゴーズ』の楽曲は、日本版の同作品に植木等が出演したから言うわけではないが、歌詞がクレイジー・キャッツの歌並みに“C調”。
 まず、テーマ曲「Anything Goes」のタイトルに表れている楽天的かつ投げやりな人生観からして無責任男的だし、“自分は最低、あなたは最高”と歌うゴマすりラヴソングの「You're The Top」とか、相手を口説くのに唐突に自分の中に眠るジプシーの血を持ち出す「Gypsy In Me」とか、口から出任せ的な内容の楽曲が並ぶ。アイディアに満ちた効果音を交えてコミカルに歌われるとそのままクレイジー・キャッツの世界になりそうなこうした歌詞を、ユーモラスでありつつ、流麗でロマンティックなメロディに乗せてしまうのが、ポーターの技。
 その結果、一見お気楽なミュージカル・コメディ『エニシング・ゴーズ』は、根源の部分で、不埒とも言える錯綜した男女関係を讃えてピューリタン的キリスト教精神を冒涜する、といった風情の“過激”な作品になっていることに、気づく人は気づくだろう。
 そういう意味で、ポーター作品の中でも最も“過激”な楽曲の 1つが、「Let's Do It」。
 「Let's Do It」の“Do”は、最後に「Let's Fall In Love」とつなげて表現を和らげているが、真意はビートルズ The Beatles の「Why Don't We Do It In The Road」の“Do”と同じ。すなわち、性行為を指す。いろんな国の人間ばかりでなく、鳥だの虫だのまで含む動物の名前も出しながら、みんな“やってる”んだから僕らも“やろうよ”、という歌。まだまだ楽曲作者としては駆け出しだった頃に、ブロードウェイのショウ(1928年『パリ PARIS』)に、こうした内容の歌詞を、あっけらかんとしていながらも不思議に艶めかしいメロディに乗せて提出するあたりにポーターの真骨頂が見えると思うのだが、どうだろう。

 そんなポーターの半生を題材にした、ミュージカル“的”な“ある種の”伝記映画が、アメリカで上映されていた(7/19鑑賞)。『五線譜のラブレター DE-LOVELY』がそれで、正月映画として今年の暮れから、この邦題で日本でも公開されることが決まったらしい。
 “優雅な過激派”ポーターとポーターの楽曲に対する深い敬意と愛情が感じられる、いい映画だ。

 コール・ポーターの伝記映画と言えば、ポーターの生前に作られた『夜も昼も NIGHT AND DAY』(1946年)が有名だが、そのストーリーは美化されすぎていて事実とはかけ離れている、と言われている。その映画を、ポーター自身が妻を伴って映画会社の試写室で観る、というシーンが、『五線譜のラブレター』にある。
 観終わって妻に感想を訊かれたポーターは、「退屈な映画だ」と答えながらも、「ケイリー・グラント Cary Grant(『夜も昼も』のポーター役)として記憶されるのも悪くないか」と言う。いかにもありそうな描写だが、じゃあ『五線譜のラブレター』が事実に忠実に描かれた伝記映画かというと、必ずしもそうではない。
 これは明かしてもかまわないと思うが、まず、映画の構成自体が、一風変わった劇中劇の体裁を採っている。晩年のポーターの前に天使か悪魔かを思わせる“演出家”が忽然と現れ、ポーターの半生をミュージカル仕立てで上演してみせるのだ。
 ということは、ハナから虚構性があることを宣言しているとも言える。しかしながら、劇中劇部分の描写は時に露悪的でもあり、それゆえに、かなり事実に近いのでは、と思わせたりもする。ところが、そういう嫌な部分になると、自分の半生の再現を観ているポーターが“演出家”に注文をつけたりする。本人が嫌がるということは事実であることを裏づけるようでもあるが、恣意的な描写なのだと断っているようでもあり、何がホントで何が虚構なのかがいっそうわからなくなってくる。
 こうした虚実ない交ぜの語り口は多分に舞台的であり、多くの舞台表現が虚構性を強調することで逆にリアリティを獲得していくように、映画『五線譜のラブレター』も、そうした凝った表現によって、かえって迫真性を得ている。
 もっとも、ジョージ・ガーシュウィン George Gershwin ほどではないが、日本においてもポーターに関してはある程度知られていて、そうした情報に照らし合わせても、細かい部分はともかく、『五線譜のラブレター』で語られるポーターの人生の経緯は、大筋では、かなり事実に即していると言っていい。つまり、彼にある程度の興味を持つ人間にとっては、ポーターの同性愛や、それを承知で結婚して彼を支える妻との関係、痛ましい落馬事故など、表立った活動以外の部分も多くが既知であり、迫真性を得てはいても、映画のストーリー展開自体は、さほど驚きではない(もちろん、知らない人には驚きの人生であることは間違いない。それが、どのように受け止められるのかは僕にはわからないが)。
 むしろ、僕が心を動かされたのは、コール・ポーターという人が楽曲を生み出すために生きていたのだということの切実さ。その迫真性に、だった。
 “切実さ”と言っても、“優雅な”ポーターであるから、楽曲作りで苦悩する姿を見せたりはしないし、映画作者たちも、そんな描き方はしない。むしろ、軽々と、人生を楽しみながら名曲を生み出していったように見える。しかしながら、映画からは、“楽曲の必然性”とでも呼びたくなるような楽曲作者の人生と楽曲との結びつきの深さ――楽曲が生み出されるべくして生み出されたという“感じ”――が真実味を持って伝わってくる。ポーターとポーターの楽曲に対する深い敬意と愛情が感じられる、というゆえんだ。
 もちろん、その真実味=迫真性を生んでいるのは、前述したように虚実ない交ぜの語り口だが、中でも楽曲の登場のさせ方は虚実ない交ぜのサジ加減が絶妙であり、言い換えれば、僕が心を動かされたのは、そのサジ加減の絶妙さに、ということにもなる。

 サジ加減の絶妙さについては、ぜひ実物にあたって確かめていただきたいが、ここでは、この映画での楽曲の扱いの虚実について、わかる範囲で説明を加えておく。

 まず、楽曲の登場のさせ方を状況の違いで分類すると、 3つに分かれる。

 1). 実在した舞台や映画の中で出演者が歌う。
 2). それ以外の場(主にポーターの関わるパーティや店など)でクラブ歌手などが歌う。
 3). ポーターやその妻などのメインの登場人物が歌う。

 この中で最も史実に近いと思われるのは、もちろん 1). で、登場の順や舞台・映画作品と楽曲の組み合わせの整合性などの点では、ほぼ史実通りと言っていい。だが、細かく見ていくと食い違いもあるし、元の舞台や映画の再現を意図しているかと言うと、必ずしもそうではない。オリジナルのイメージを残しながらも、かなり確信犯的に新たな意匠を加えているようにも見える。なので、ここでの描写を歴史事実に近いと思い込まない方がいい。これも、あくまで、晩年のポーターが見せられた劇中劇の一部なのだ。
 2). は、あり得る可能性がある場合もあるかもしれないが……、というぐらいに虚構性が高い。例えば、タイトル曲の「It's De-Lovely」はポーターたちの結婚パーティで歌われるが、この曲は、それから 15年以上後に作られたミュージカルで世に出ている。もちろん、以前から書いてあった曲である可能性がないではないが、では、ポーターが若い男との出会いを求めて出入りする秘密クラブのバンドが彼の書いた「Love For Sale」をいつも演奏している、なんてのはどうだろう。あるいは、ヴェニスの運河脇で寛ぐポーターたちの前を通り過ぎる小船に歌手が乗っていて「What Is This Thing Called Love?」を歌っている、なんていうのは?
 3). については判断の材料を持たない。脚本家が関係者の記録などを綿密に調べ上げてつかんだ事実を元にしているという可能性も、なくはない。が、 1). 2). の流れから考えて、虚構である可能性が高いと思うが、どうだろう。
 しかし、不思議なことに、ほとんどホントでありつつ一部しっかりウソな 1). と、誰の目にもウソである 2). との間に挟み込まれるプライヴェートな感触(ホーム・パーティか夫妻 2人)の歌場面 3). は、時として、とても本当らしく見える。これも絶妙なサジ加減の 1つだろう。

 ここでグッと来た場面の 1つでも語っておくと説得力が出るのだろうが(そうした場面はいくつかあり、語りたい気持ちも大いにあるのだが)、それは、これから映画をご覧になるみなさんの楽しみを奪うことになるので我慢して(笑)、いくつか“注”のようなことを付け足して、締めくくりたい。

 まず、ミュージカル“的”な映画だ、と書いたことについて。
 『五線譜のラブレター』には、通常のミュージカルの見せ場である、現実から異次元へ飛翔していくようなショウ場面はない。すべてのソング&ダンスが、あくまで現実の枠の中で起こる。ではあるが、その現実自体がミュージカル仕立ての劇中劇なのでで、全体としては、ミュージカル“的”。(注)
 でも、なんたってコール・ポーターについての映画なんだから、形態はともかく、ミュージカル・ファンが見逃せないことに変わりはない。

 次に、登場する歌手たちについて。
 前述したように、この映画には、舞台や映画の出演者として、あるいはクラブ歌手として、様々なの歌手が登場するが、その多くがロック畑の人気歌手だ。そういう方面からも、この映画が話題になることは充分考えられる。逆に、映画の時代性を重視すれば、一部の大胆なアレンジも含めて(「Begin The Beguine」とか)、いわゆるジャズ・ヴォーカル的な唱法にこだわる人たちからは異議を唱えられるかもしれない歌手起用ではある。
 独立した歌唱としては必ずしも全てがうまくいっているとは言えないと思う僕だが、この件については、こう考える。
 映画作者たちは、ポーターの楽曲が“今”も生きていることを示したかったのではないか。ハナから“再現性”よりも虚構表現による“迫真性”を求めた彼らであってみれば、“当時”らしさよりも“今”を選んだとしてもおかしくない。そして、結果的には、それが成功した。完成度にムラこそあれ、歌手それぞれのポーターに対するリスペクトの気持ちが、映画にプラスアルファの魅力として定着しているからだ。――という言い方はカッコよすぎるか(笑)。ともあれ、編集(ジュリー・モンロー Julie Monroe)の妙にも助けられてか、不自然さは全く感じられず、歌唱場面はいずれもイキイキして見える。
 上掲の写真はサントラ CDのジャケット。ご興味がおありの方は、映画よりひと足先にどうぞ。

 さて、最後に、この映画にまつわる最大の謎を提示しておきたい。
 『陽気な離婚 GAY DIVORCE』において、フレッド・アステア Fred Astaire 以外の男優が「Night And Day」を歌ったかどうか。
 この意味は、映画をご覧になればわかります。

 監督アーウィン・ウィンクラー、見事な脚本はジェイ・コックス Jay Cocks、華麗な撮影はトニー・ピアース・ロバーツ Tony Pierce-Roberts。
 魅力的なポーター夫妻は、ケヴィン・クライン Kevin Kline とアシュレイ・ジャッド Ashley Judd。“演出家”役はジョナサン・プライス Jonathan Price だが、あまり見せ場はない。

(9/7/2004)


 (注)
 「“注”のようなこと」に“注”を付けてしまって申し訳ない。
 この映画にも例外的に、 1か所だけ“現実から異次元へ飛翔していくようなショウ場面”がある。ポーターがハリウッドに乗り込んだ時で、ナンバーは「Be A Clown」。ここだけ少し、語り口が違う。
 ところで、後に『雨に歌えば SINGIN' IN THE RAIN』で盗用されるナンバーを、ポーターから MGM(この映画の製作会社でもある)へのあいさつ代わりという形で使ってしまうあたりに、映画作者たちのキツいシャレっ気を感じるのだが、考えすぎだろうか。

(9/7/2004)

Copyright ©2004 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

previous/next


[HOME]