『ムーラン・ルージュ MOULIN ROUGE!』
バズ・ラーマン Baz Luhrmann(20世紀フォックス)

新世紀のミュージカル映画

 ミュージカル・ファンにはおなじみ、フレッド・アステア Fred Astaire の、『イースター・パレード EASTER PARADE』(1948年)での“バックは普通で 1人だけゆっくりダンス”と『恋愛準決勝戦 ROYAL WEDDING』(1951年)での“壁から天井ぐるぐるダンス”。あれが究極だったんだろうな、と思う。役者の芸と映画の技術とが美しく融合したショウ場面の。
 本格トーキー第 1号がミュージカル映画(『ジャズ・シンガー THE JAZZ SINGER』)だったことからもわかるように、映画とミュージカルとは相性がよく、スクリーン上のミュージカルは、舞台の複製に留まらないユニークなショウ場面を作り出すことで独自の発展を遂げてきた。
 その方向の 1つが、劇場という枠や客席という固定された目線から解放された自由なカメラワーク。例えば、天井からの撮影によるバズビー・バークリー Busby Barkley の万華鏡的振付だったり、舞台ではけっして再現出来ない巨大なセットでの撮影だったり、時代が下っての『ウエスト・サイド物語 WEST SIDE STORY』のオープニング・ナンバーに代表されるような大胆な屋外ロケだったり……。
 一方で、編集や合成による特殊効果も大いに使われた。典型が、『メリー・ポピンズ MARY POPPINS』。ショウ場面のほとんどが“普通じゃありえない”映像になっている。
 で、この『メリー・ポピンズ』、僕はリアルタイムでは観てなくて、すっかり大人になってからヴィデオで観たのだが、少なからずがっかりした。その理由が、くだんの“普通じゃありえない”ショウ場面。究め付けが、メリー・ポピンズたちがアニメーションの世界に入り込むシークエンス。
 当時はもちろん、まだディジタル技術はないけれど、手間さえかければ何でも出来てしまう、それがアニメーションや合成による特殊効果。だから、悪く言えばゴマカシも利くわけで、その分、芸のスリルが少なくなってしまう。だって、いくらペンギンたちがディック・ヴァン・ダイク Dick Van Dyke と踊ってみせたところで、それは“そのように後から作り上げている”のだから当たり前のことで、ちっとも面白くないでしょ。ジーン・ケリー Gene Kelly とネズミのジェリーのデュオ・ダンスと同じだよね。
 逆に、 SFX(という呼び方ももう古いか)ミュージカルの古典とも言うべき『オズの魔法使い THE WIZARD OF OZ』が、特殊効果を駆使しながらも色褪せないのは、ショウ場面では人間の芸を見せているからだ。
 だから、フレッド・アステア。カット割りも最小限に抑え、役者の芸の素晴らしさを見せることを第一義としながら、なおかつ映画的な驚きもそこに加えて、より面白く見せる。そのバランスが最もいい形で表れたのが、上記の 2つのショウ場面だった。と、後追いの目で現在から観ると、そう思う。
 大きな流れで言うと、そうした 1950年前後の作品をピークにして、映像世界のミュージカルからは役者の芸を見せることの比重がしだいに減っていく。そして、ミュージカル映画は魅力を失っていく。――というのが個人的見解。

 こうしたミュージカル映画の変質の背景には、映画自体のあり方すら変えていく、 50年代に台頭してきた新メディア、 TVがあったと思う。
 TVへの対抗手段として映画史に必ず出てくるのは画面の大型化だが、同時に、製作側は、“見せ方”も変えなければ、と考えたはずだ。話をミュージカルに限るが、これまでは舞台以外では映画でしか観ることの出来なかった歌手やダンサーの歌ったり踊ったりする姿が、 TVの普及以来とりあえずは居間にいながらにして観られるようになったわけで、とすれば、そこにプラスαがなければ映画を観に来る人はいない。観客動員の減少を目の当たりにした製作者たちがそう考えるのは、自然なことだろう。
 同時に、ブロードウェイがロジャース&ハマースタイン Richard Rogers & Oscar Hammerstein U 時代を迎えていた(第 1作が 1943年の『オクラホマ! OKLAHOMA!』、最終作が 1959年の『サウンド・オブ・ミュージック THE SOUND OF MUSIC』)ことも、映画ミュージカルの様変わりに影響を与えたのではないか。
 ロジャース&ハマースタイン作品の特徴の 1つとして、ストーリー重視ということが挙げられる。それも、かなりリアルな感触の。したがってショウ場面は、ストーリーと密接に絡み合い、そこだけを楽しむための独立したものとしては存在しない。こうした“新しい”スタイルが、 TVのショウ場面を超える、映画ならではのミュージカルを求める製作者に注目されるのは、なりゆきとして当然だ。
 こうして、役者の芸を正面から見せることが少なくなり、なおかつ、ドラマ部分に力を注ぐ、普通の劇映画に近いミュージカル映画が増えていく。
 興行的に見れば、こうした判断は短期的にはけっして間違ってはいなかったのだろう。しかし、その結果、人間の芸を中心に据えた従来のミュージカル作りのノウハウは失われ、ミュージカル映画のスターもいなくなっていく(最後がライザ・ミネリ Liza Minnelli か)。そして、ミュージカル映画ならではの面白さが薄れていき、やがて、ミュージカル映画だというだけで当たらないといわれる時代になってしまう。
 最近作られた、ウディ・アレン Woody Allen、ケネス・ブラナー Kenneth Branagh というパーソナルな肌合いの“作家”によるミュージカル映画 2本、『世界中がアイ・ラヴ・ユー EVERYONE SAYS I LOVE YOU』『恋の骨折り損 LOVE'S LABOUR'S LOST』が、ミュージカルのプロではない役者たちを起用して、彼ら自身に歌わせ踊らせ、それを素直に撮っていたのは、(質はともあれ)とにかく演じている役者の芸で見せるのだという、 50年代以前のミュージカル映画のスタイルへの愛情にみちた回帰願望だろう。

 ところが、だ。『ムーラン・ルージュ』という最新のミュージカル映画は、特殊効果を駆使しカットも激しく割っているにもかかわらず、ミュージカルとして面白いのだ。
 実に意外。
 と言いつつ、僕が思い出したのは、ボブ・フォッシー Bob Fosse 監督作品のこと。プロデューサー、アーサー・フリード Arthur Freed に代表される黄金期 MGMミュージカル人脈の最後に連なる(by 小林信彦)フォッシーが監督したミュージカル映画のショウ場面は、実は、カット数が多い。それでも、彼の映画はミュージカル的興奮に満ちている。
 なぜだろう、と昔考えたことがあって、その理由は――、
 1) 演じているのがプロフェッショナルなミュージカル役者(あるいはダンサー)である。
 2) カメラ・ワークやカットの割り方自体に芸がある。
 ――ということではないかと思った。
 上記の 2) について、もう少し詳しく書いてみる。
 凡庸なカメラ・ワークやカット割りは演技者の芸を矮小化したりズタズタに切り裂いたりする。なぜなら、観客の神経を逆なでするような視線やタイミングで画面を動かしていくからだ。だったら、カットを割らずに正面から全体を撮っておけ、という気になる。舞台と同じように演技者の芸をそのまま観た方が、はるかにいい。
 しかし、フォッシーの場合は、そのカメラ・ワークの視線や編集のリズムが、観客の意識を巧みに煽る。煽って、正面から全体を撮った記録映画ではけっして味わうことの出来ないスリルを体験させてくれる。しかも、その煽りが、演技者の芸の本質を損なっていない。
 おそらく、ヴォードヴィル→黎明期の TVショウ→黄金期の映画ミュージカル→舞台ミュージカル→映画(もちろん舞台も並行して)という道筋の中で、演技者→振付家→演出家というキャリアを積んだフォッシーは、人間の芸×映画の技術という 映画ミュージカル黄金期の魅力の本質を知り尽くしながらも、往時の撮影方法だけでは、 60年代以降の観客はついてこなくなっていることもわかっていた。そこで、舞台ミュージカルにおける優れた観客の主観的視線を、カメラ・ワークやカット割りによって映画に持ち込むことで、半ば強引に、人間の芸の素晴らしさを見せてしまおうとした。そういうことなのだと思う。
 ここでポイントになるのは、映画の見せ方と同時に、舞台の見せ方もわかっている、ということ。舞台的素養がないと、どんなにカット割りがリズミカルだろうと、そのショウ場面は MTVのミュージック・クリップ的世界に陥ってしまう。そして、『ムーラン・ルージュ』の監督バズ・ラーマンは、どうやらオペラの演出もするらしい。
 ともあれ、ボブ・フォッシー同様、バズ・ラーマンの演出は“わかって”いて、どんなにカットを割ろうが、さらには特殊効果を駆使しようが、根本にある人間の芸を損なっていない。
 もっとも、ニコール・キッドマン Nicole Kidman、ユアン・マクレガー Ewan McGregor といったメインどころの役者がその道のプロではないのは『世界中がアイ・ラヴ・ユー』『恋の骨折り損』同様だが、しかし 2人の歌はかなりのセン。そして、周りの、殊にダンサー陣はホンモノで、終盤でのタンゴのシーンなど、その濃さが映画全体の重しになっているほどだ。
 加えて、時代性を無視した既成曲の使い方も、大胆かつ巧妙で、その辺のセンスも“わかって”いる感じ(音楽は、演奏アーティストも含めて、いいぞォ。上のジャケット写真はサウンドトラック盤)。思えば、前述の『イースター・パレード』や、ラーマン監督のフェイヴァリットでもあるらしい(友人矢崎情報)、同じくアステアの『バンド・ワゴン THE BAND WAGON』(映画版)も、過去の既成曲を集めて作られているわけで、そういう意味では、ラーマン方式は王道?
 そうそう、『バンド・ワゴン』と言えば、あの、ハードボイルド・タッチの終盤の長いダンス・ナンバー。あれを今撮るとすると、きっと、この『ムーラン・ルージュ』のように特殊効果を駆使することになるのだろうな、と思った。今の目で観ると、やや中途半端なところもないではない、あのナンバー。どんな風にアレンジされるのか、観てみたい気もする。

 そんなこんなで僕は、新世紀のミュージカルの可能性を『ムーラン・ルージュ』に見出した。
 さて、みなさんのご意見は?

(11/30/2001)

Copyright ©2001 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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