[ゆけむり通信Vol.23]

12/19/1996
『マルタン・ゲール MARTIN GUERRE』
12/20/1996
『ジョルスン ザ・ミュージカル JOLSON The Musical』


ブロードウェイ入り危うし!

 96年のオリヴィエ賞でミュージカル作品賞を受賞した『ジョルスン ザ・ミュージカル』(以下『ジョルスン』)、97年同賞受賞作でキャメロン・マッキントッシュがアラン・ブーブリル Alain Boublil &クロード=ミシェル・シェーンベルク Claude-Michel Schonberg の『レ・ミゼラブル LES MISERABLES』コンビと三たび組んだ 『マルタン・ゲール』。ブロードウェイを目指している2本だが、道のりは遠いと見た。

* * * * * * * * * *

 『ジョルスン』は今年秋のブロードウェイ入りをすでに宣言しているが、ニューヨークでは芳しい評価は得られないだろう。
 オリヴィエ賞を獲ったぐらいだから(って信じていいのかわかりませんが)見るべきところはあるのだが、アル・ジョルスンAl Jolson の一代記を時間軸で追い最後にコンサート場面が来るという構成は、同じプロデューサー、演出家による 『バディ BUDDY The Buddy Holly Story』と同じで、安直な印象を受ける。題材からの期待があっただけに、ややがっかり。

 アル・ジョルスンは、和田誠氏の名訳で知られる「お楽しみはこれからだ You ain't heard nothin' yet!」というセリフを言ったアメリカのエンタテイナー。世界初の(パート・)トーキー劇映画「ジャズ・シンガーTHE JAZZ SINGER」の中でのことだ 。
 [今世紀初頭から一九四〇年代までの半世紀近いあいだアメリカ人にとって最も愛されたポピュラー・シンガーのひとりであり、超大型のステイジ・エンタテイナーだった]と、野口久光著「私の愛した音楽・映画・舞台」(ミュージック・マガジン)にある(さらに詳しくは同書を)。

 第1幕は20年代。
 すでにブロードウェイのスターとして名を成しているジョルスンが、周囲の反対を押し切って当時例のない日曜日の公演を行ない成功させたり、ガーシュウィンの「Swanee」と出会ったりするエピソードがあり、最後は海の物とも山の物ともわからなかったトーキーに挑戦し見事にやり遂げるところで終わる。
 第2幕は40年代。
 妻である女優ルービー・キラーの人気と対照的に仕事のないジョルスンは、前線に慰問に行って倒れたりする。そこに自伝映画の話が舞い込み、他の役者が自分を演じることに抵抗を感じて一度は断わるものの、思い直して承諾。歌声は自分で吹き替え、映画も成功、カムバックを果たす。
 そしてラジオ・シティ・ミュージック・ホールでのワンマン・ショウ。人生の幕を閉じる1950年を前に大きな花を咲かせたのだった。

 うまいな、と思ったのはスポットライトのエピソード。
 第1幕第7景、終演後の舞台で子供がジョルスンに、2ドルくれたら自分の歌と踊りを見せると言う。2ドル払ったジョルスンは、まだ残っていた照明係に命じて子供にスポットライトを当ててやる。
 演じ終わった子供が舞台袖に去ろうとするとジョルスンが言う。「スポットライトを忘れてるぞ。一度手に入れたスポットライトを手放してはダメだ」
 ライトの位置まで戻った子供が恐る恐る動くとスポットライトも一緒に動き、退場していく。

 いい話だなと思っていたら、これは伏線だったんですね。
 第2幕に移って、ワンマンショウの場面の最後、歌い終わったジョルスンは中央の階段を舞台奥に向かって上っていく。そこにナレーションがかぶりジョルスンが50年10月23日に亡くなることを言う。
 すると、階段途中で立ち止まっていたジョルスンのところにスポットライトがスルスルと上っていき、彼を照らし出す。振り返るジョルスン。
 感心したのはこれだけ。

 一面的なメロドラマ、有機的につながっていかないショウ場面、暗転の多い場面転換、安易な録音演奏の使用など、『バディ』の欠点をそのまま引き継いでしまっている部分ばかりが目に付いた。

 主演のブライアン・コンリー Brian Conley は舞台をぐいぐい引っ張っていくタイプのヴァイタリティあふれる役者で、それは称賛に値する。おまけに歌などジョルスンそっくりなのだが、そのそっくり具合が観ている側にとって次第に息苦しくなってくるのは、根本的なところで演出に問題があるんじゃないだろうか。
 『フォービドゥン・ブロードウェイ FORBIDDEN BROADWAY』じゃないんだからさ。ってわけで、一番のウリであるジョルスンのワンマンショウ場面も、『バディ』のカーテン・コール・コンサート同様、ものまねショウを見せられている気分でイマイチ乗れない。
 わざわざミュージカルとして作ったんだから、もっと見せ方があるでしょう、って気分になるのは高望みではないと思うのだが。

 とにかく、この製作チームは最終的に志が低い。ロンドンのミュージカル・ファンよ、この状況を許してはいかんよ。

* * * * * * * * * *

 一方の『マルタン・ゲール』チームは志が高すぎる(皮肉)。いつも沈鬱な表情をしてミュージカル"大作"を作らなくてもいいのに、と思ってしまう。
 それにしても、今回の素材は陰惨だ。

 16世紀のフランス。ルターの宗教改革の波が押し寄せ、古くからのカソリックと新しいプロテスタントとの対立が深まっていた。というのが背景。
 第1幕。
 カソリック教徒の村アルティガ。周辺にプロテスタントが出没して緊迫している。
 地主のピエール・ゲールは、甥のマルタンと、やはり地主のデ・ロル夫人の娘バートランドとを結婚させ、両家の結びつきを強固にすると同時に、カソリックの後継者を生ませようと考えている。
 若いマルタンはまだ結婚に縛られたくなかったが、周囲の圧力に負け、結局は式を挙げる。それを恨めしげに見守るのはバートランドに思いを寄せるギローム。
 が、やはりマルタンは納得できず、自分の人生を見つけるために村を抜けだす。
 7年後、フランダースの地でプロテスタントと戦うカソリック軍の中にマルタンの姿があり、戦友のアーノー・ドゥ・ティルに故郷の話を聞かせていた。
 そこにプロテスタント軍の急襲。虚を突かれたカソリック軍は壊滅し、マルタンもアーノーの目前で死ぬ。
 アーノーはマルタンの死を伝えるためにアルティガを訪れるが、そこでマルタンと間違われる。

 ストーリーの上ではここが最大のポイント。
 なぜ村の人々は、村の出身者であるマルタンと、よそ者であるアーノーとを見間違えるのか。
 いくつか条件があるのだが、最も強い動機は、アルティガの住人はマルタンに戻ってほしかったから、ということだ。
 彼が戻ってこなければ、村にカソリックの跡継ぎができない。そのために彼らは、敢えて人違いをしたのだ。
 そしてアーノーはと言えば、そんな村の空気に呑まれて、マルタンのふりをしてしまう。

 村に馴染んでいくアーノーは、様々な心の葛藤を乗り越えて、やがてバートランドと愛し合うようになる。その過程でバートランドは、村の中で密かに信仰を育んでいたプロテスタントのグループの思想に救いを見出す。
 見ず知らずの男にバートランドを奪われて面白くないギロームは、バートランドの改宗の話を地主ピエールらに話し、それを背景にアーノーが偽マルタンであることを暴くべく、裁判に訴える。
 裁判所に村人たちが勢揃いして、第1幕終わり。

 第2幕。
 裁判が始まると、バートランドはじめ証人たちがアーノーをマルタンであると認め、アーノー側の勝利に終わるかと見えた。
 そこに、新たな証人が登場する。死んだはずのマルタン・ゲールだ。アーノーの逆転敗訴。
 偽証の罪がバートランドたちに及ぶのを恐れたアーノーは、すべて自分1人で仕組んだことと主張し、囚われの身となる。
 アーノーを追放してバートランドを手に入れようと考えていたギロームは、マルタンが現れたからには結局はバートランドを得られないことに気づくと、恐るべき行動に出た。カソリックの村人を焚き付けてプロテスタントを襲わせ、個人的な恨みを晴らすことにしたのだ。
 村人同士の陰惨な殺戮が始まるのも知らず、獄中のアーノーに会いに行くバートランド。
 そこに現れたマルタンは、2人の愛の深さと、アーノーの行動が自分の死を信じてのことだったことを理解し、アーノーを解放する。
 手を携えて逃げるアーノーとバートランド。その前に立ち塞がる殺気だったカソリックの住民。
 マルタンの導きで2人はなんとか逃れかけるが、そこに襲いかかるギローム。ギロームの矛先がマルタンに向いているのを見て取ったアーノーは、とっさに盾になる。
 バートランドの腕の中で息を引き取るアーノー。それを苦悩の表情で見守るマルタン。この悲劇を見て我に返る村人たち。
 カソリック住民の謝罪を受けたものの、バートランドはプロテスタント住民と共に村を出ることにする。アーノーとの間に出来た子供のためにも。
 それを見送るマルタンは、いずれ彼女が村に帰ってくることを心の中で願うのだった。

 村人たちはくたびれた。
 書いてるあたしもくたびれた。
 ってくらいで、読んでるみなさんはもっとくたびれたでしょう。

 こんな混み入った話をまとめ上げる手腕は、さすがに『レ・ミゼラブル』のスタッフだと感心するが、話自体が格別面白いわけではない、と言うより、非常に後味の悪い話なのが困ったところ。
 この宗教がらみの悲恋話、イギリスでの上演にあたっては、アイルランド問題とダブらせようという意図があるのだろうか。

 まあ、ストーリーについては譲ってもいい。
 ただ、ミュージカルとしての見せ場にわざわざ最も不快な状況を持ってくる、その発想がわからない。

 第2幕だ。
 ギロームがカソリックの連中を煽るシーンで、“殺戮のダンス”とでも名付けたくなる群舞がある。
 ナイフを手に、プロテスタントをこうやって殺すんだ、と全員でデモンストレーションをするのだが、驚くことに、ここが見せ場になっているのだ。
 なぜ、こんな血なまぐさい集団ヒステリーをショウ場面に仕立ててしまうのだろう。
 あそこで拍手をしたロンドンの観客は本当にこのダンス・シーンが素晴らしいと思ったのだろうか。

 そもそも、この場面を含めたこの作品のダンス、ユニークかもしれないが魅力的ではない。
 振付のボブ・エイヴィアンBob Avianは『トミー TOMMY』のウェイン・シレントWayne Cilentoを抑えてオリヴィエ賞を獲ってしまったが、足踏みを基調にした群舞は、力強くはあっても多分に観念的で、心ではなく頭に訴えてくる感じ。一見躍動的だが、その実重苦しい。

 ともかく、スタートの素材選びで間違い、見せ場の選択で間違ったとしか思えないこのミュージカルにあっては、よく考えられた木の砦のような装置や巧妙な照明も無用の長物に見えてしまう。

 最後の頼みは楽曲だが、感動させずにおくものかという姿勢はこのチームの前2作と同じで、ただ名曲がない。
 2匹目のドジョウ(『ミス・サイゴン MISS SAIGON』)の時も危なかったが、「The American Dream」一発でなんとか持ちこたえた。今回はそれすらなかった。

 何も深刻な話ばかりがミュージカルではあるまいに。
 3匹目は完全に釣り損ね。オリヴィエ賞作品賞受賞は努力賞ってことでしょう。

Copyright ©1997 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

[ゆけむり通信Vol.23 INDEX]


[HOME]