[ゆけむり通信Vol.23]

12/17/1996
『ジーザス・クライスト・スーパースター
JESUS CHRIST SUPERSTAR』
12/21/1996
『バイ・ジーヴス BY JEEVES』

ロイド・ウェッバーの
出世作と失敗作のリヴァイヴァル

 劇場窓口に置いてある上演中の演目一覧表ロンドン・シアター・ガイドを開いてチェックすると、前述の『サンセット大通り』の他、『キャッツ CATS』『スターライト・エクスプレス STARLIGHT EXPRESS』『オペラ座の怪人 THE PHANTOM OF THE OPERA』と、ロングランを続けるアンドリュー・ロイド・ウェッバー Andrew Lloyd Webber 作曲のミュージカルが3年前と変わらず並んでいるが、ここに96年新たに加わったのが『ジーザス・クライスト・スーパースター』『バイ・ジーヴス』の2本。
 どちらもウェッバー初期作品のリヴァイヴァルだ。

* * * * * * * * * *

 より大きな話題を集めていたのが、11月に幕を開けた『ジーザス・クライスト・スーパースター』
 ウェストエンドでは初演(72年8月)以来のリヴァイヴァルだという 。
 『ヨセフと驚くべき総天然色のドリームコート JOSEPH AND THE AMAZING TECHNICOLOR DREAMCOAT』に次ぐティム・ライス Tim Rice(作詞)との2番目のコラボレーションで(ただし本格的舞台化は『ジーザス〜』の方が半年早い)、彼らのブロードウェイ・デビュー作にして出世作だ 。

 四半世紀を経て世紀末のロンドンに登場した聖書ミュージカル(ジーザスが磔刑になるまでの7日間を描いている)は、コロシアムを模した装置が秀逸で、歯切れのいい演出と相まって、完成度の高い舞台に仕上がっていた。

 舞台奥に、舞台を囲むようにコロシアムの内壁がある。床は中央が盛り上がったマウンド状になっていて、その中心部の畳3畳分ほどが上下移動可能。人物は壁の正面部分にあるコロシアム出入り口と舞台袖から登退場するが、2、3階のボックス席をつぶして足場が組んであって、そこにも出没する。さらに、舞台上に吊した橋が隠されていて、下がってくるとボックス席の足場と合体し、人が行き来する。

 なぜコロシアムか。人々が、ジーザスを見殺しにしただけでなく、その受難を見世物のように興奮しながら観ていた、という隠喩だろう。
 冒頭、ジーザスとユダ以外のキャストが全員舞台に登場し客席を挑戦的に見渡すのだが、それはあたかも、あなた方の座っているのはコロシアムの客席であり、これからジーザスの受難の一部始終を目撃することになるが覚悟はよろしいか、と言っているかのようだった。そして、あなた方も結局はジーザスを見殺しにする共犯者なのだと。
 それを象徴するかのように、コロシアムの内壁最上段の左右に作った客席に現実の観客を入れていた(つぶしたボックス席の替わりという意味もあるだろうが、それにしてもあの席は見にくいだろうと思う)。

 実を言えば僕は、このミュージカルにつきまとう、そうした意味ありげな、もったいぶった感じが野暮ったくて嫌いなのだが、それにもかかわらず、仕掛けは凝っているがデザインは簡素な印象のこのセットと、スピーディな展開、それに効果的な照明とで、気分的に滞ることなく最後までぐいぐいと引っ張っていかれた。

 演出は主にオーストラリアで活躍しているゲイル・エドワーズ Gale Edwards、装置と衣装はジョン・ネイピアー John Napier、照明はデイヴィッド・ハーシー David Hersey。
 ユダはズービン・ヴァーラ Zubin Varla、ジーザスはスティーヴ・バルサモ Steve Balsamo。出演者の水準は高かった。

* * * * * * * * * *

 『バイ・ジーヴス』は、アンドリュー・ロイド・ウェッバーが、『ジーザス〜』に次ぐティム・ライスとのコラボレーション『エヴィータ EVITA』にとりかかる前に、アラン・アイクボーン Alan Ayckbourn(作詞・台本)と組んで作った 『ジーヴス JEEVES』(75年4月開幕)のリメイク。と言っても、『ジーヴス』は興行的に失敗、ブロードウェイには登場しなかった。

 今回は、アイクボーンが自ら演出に当たってのリメイクということで、まあ、作者の考える“あるべき姿”での再登場ということなのだろう。
 イギリスの(ある階級にとっての)グッド・オールド・デイズを描いたミュージカル・コメディで、それなりの味わいはあったのだが、お行儀がよすぎて“楽しい!”とはいかなかった。

 1930年代(?)のロンドン(近郊か?)。教会のホールで開かれようとしているのは独身貴族バートラム(バーティ)・ウースターのバンジョー弾き語り独演会。ところが、いざ開演という段になってバンジョーがないことがわかる。
 バーティに助けを求められた執事のジーヴスは、バンジョーを入手するまでの場つなぎに芝居をやりましょう、と提案。かくしてジーヴスの指揮の下、バーティの友人総出演の即興劇が始まる。その内容は――。
 若い娘が3人(内1人はバーティの元婚約者)、娘たちに恋する男4人(1人余る!)、という恋愛模様。そこにバーティが紛れ込んだおかげで、誤解や嫉妬が渦巻いて大騒ぎになるというラヴ・コメディで、もちろん最後は丸く収まってチャンチャン。
 うまい具合にバンジョーも届き、さあバーティのショウが始まる……?

 と、まあ、のんきな話で、それに合わせて楽曲もオールド・タイムな装い。半分がギルバート&サリヴァン W.S.Gilbert & A.Sullivan のオペレッタ風、半分がジャズ・ソング風、というところか。
 ロイド・ウェッバーにしてはいずれも素直な作風で、ユーモラスな挨拶の歌「The Hallo Song」や陽気な「Banjo Boy」などリズミカルな楽曲が特に好ましい仕上がり。この辺はアイクボーンの嗜好が強く出ているんじゃないのかなあ。

 ところで、何が“お行儀がよすぎ”るかと言うと――。
 1)芝居部分がのんびりしている。役者は、やや誇張されたコミカルな役柄を過不足なくこなして、うまいのだが、その枠から出なさ加減が物足りない。つまり、演出が“お行儀がよすぎ”る。
 2)加えて、芝居→歌→芝居→歌→芝居、という判で押したような構成も“お行儀がよすぎ”て単調な印象。
 要するに、構造としてはプレイ・ウィズ・ミュージックに近く、しかもプレイ部分のノリが悪い。そのせいか、ノスタルジックと言うより古臭いという感じがしてしまう。

 昨年秋から冬にかけて2か月ほどオフ・ブロードウェイでやっていたようだが、そちらの仕上がりはどうだったのだろう 。本家ロンドン版は、残念ながら以上のような理由で(少なくとも僕の中では)当たりになり損ねた。


余談/ジーザスとエルヴィスのメンフィスな関係

 『ジーザス・クライスト・スーパースター』初演の成功の陰にエルヴィス・プレスリー Elvis Presley のメンフィス・セッションあり、というのが、今回ロンドンでひらめいた仮説。その話を少し。

 69年1月と2月にメンフィスのアメリカン・スタジオで行なわれたエルヴィスのレコーディング・セッションは、彼にとって最後のNo.1ヒットとなった「Suspicious Minds」(9月発売)及び「In The Ghetto」(4月発売HOT100最高位3位)「Don't Cry Daddy」(11月発売HOT100最高位6位)という3曲のトップ10ヒットを生んだ充実したもので、録音されたあらゆる曲が、R&B、カントリー、ゴスペルなどがない交ぜになった、アメリカ南部ならではの素晴らしいサウンドで満ちている。
 このセッションを足がかりに同年7月、エルヴィスは初めてラスヴェガスに進出し、翌70年の映画『エルビス・オン・ステージ ELVIS―THAT'S THE WAY IT IS』で全世界に知られるようになるライヴの快進撃を始めることになる 。

 一方で、『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、まずレコードがヒットし、その後で舞台化される、という経緯をたどっているのだが、資料を見ると、まずシングルの「Superstar」が69年後半に、次いで2枚組のアルバムが70年に発売され、その世界的ヒットを受けてコンサート形式のライヴ公演が全米を回り、71年10月にブロードウェイの劇場に“ロック・オペラ”として登場している。

 時期的に見ると、ちょうど『ジーザス〜』がエルヴィスを後追いしているのだが……。

 鍵は2つ。南部サウンドとライヴのスタイルだ。

 『ジーザス〜』の楽曲のほとんどがゴスペルやR&Bを模して作られているのは一聴すればわかることで、例えば「Superstar」などは、はっきりと“ソウル・ガールズ”と謳った女性コーラス3人を従えてユダがシャウトする作りになっている。
 が、僕がまずエルヴィスを連想したのは、カントリー調バラード「Everything's Alright」だ。これって「Suspicious Minds」じゃないか?「Suspicious Minds」の中間部のスローになるところ。別にパクッたとか言うんじゃないけど、この雰囲気。
 そう考えると「Superstar」のスタイルも、ブラック・ミュージックからの直取りというよりも、同じメンフィス・セッションの「Rubberneckin'」あたり、あるいは、その後のラスヴェガスでのライヴ・スタイルが元ネタ、という風にも思えてくる。とにかく、キーになる楽曲のサウンド作りが、あの頃のエルヴィス風なのだ。

 ライヴということで言えば、『ジーザス〜』は舞台ミュージカルになってもライヴ・コンサートの気分を残して、歌手がハンドマイクを使っていた 。中で、退廃の人ヘロデ王が登場するが、この役などは多分にステージ上のエルヴィスの雰囲気をなぞっているように見える(もっとも『ヨセフ〜』のファラオほどではないが)。
 それは置いても、71年に、こうした南部ミュージック・レヴュー的ライヴというスタイルでブロードウェイに登場する背景に、エルヴィスのラスヴェガス公演の全国的認知があった、と考えるのは、さほど不自然ではないだろう。

 ともかく、前にも後にも、ここまでアメリカ南部の感じがするのは、ロイド・ウェッバー作品ではこれだけなのだ。そして、それだけに、これははっきりと“戦略”だっただろう、と思うのだ。

 『ジーザス〜』については、とかく題材のことが“テーマ”として意味あり気に語られがちだが(新約聖書の斬新な解釈だとか、キリストを人間として捉えた革新的ドラマだとか)、むしろ、こうした音楽状況にうまく乗ったという戦略の方こそ、語られるべきである気がする。
 そこに案外ロイド・ウェッバーの本質が潜んでいたりして、興味のある人には面白い、とも思うのだが。

Copyright ©1997 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

[ゆけむり通信Vol.23 INDEX]


[HOME]