宝塚作者の同性愛に対する時代感覚

 『誠の群像 新選組流亡記』のところで触れた疑問について書きます。

 新選組隊士の中に同性愛カップルがいて、困ったものだと思いながらも他の者たちは黙認している。ところが、その1人が敵方の間者だったことがわかって、副長・土方歳三はカップルの片割れの美少年にその始末(殺害)をさせる。そして、それを見届けた土方は、その美少年自身を斬る。
 そういうエピソードが『誠の群像 新選組流亡記』の中にある。

 これがどう描かれたかと言うと、1人が間者だとわかるまではコミカルに、それ以降は一転して冷酷に、そういうタッチで描かれていた。
 その前半のコミカルさの中身は、誇張された“オカマっぽさ”や芝居がかった男同士の愛情表現のおかしさであり、極端に言えば、異端者に対する笑いだ。
 まあ、笑いにはいつもそういった要素があるものだが、ここでは笑うだけ笑って、その異端者を異端者のまま急転直下斬り捨ててしまう。
 斬った後の土方のセリフ。
 「私は加納の中に育ちつつある女を斬ったのだ。加納がいる限り、また加納を色子にしようとする者が現れる。新選組は……男しか生きていけないのだよ」

 男性の同性愛は、特にアメリカでは、プレイはもちろんミュージカルでも採り上げられることが多い。
 日本で翻訳上演されたもので言えば、『ラ・カージュ・オ・フォール LA CAGE AUX FOLLES』『蜘蛛女のキス KISS OF THE SPIDER WOMAN』がそうだ。来年1月に予定されている『ヴィクター/ヴィクトリア VICTOR/VICTORIA』にも男性同性愛者が登場する。
 これらの作品で共通しているのは、たとえ一時的にユーモラスに扱うことがあるにせよ、最終的なところで同性愛者を同じ人間として理解する、ということだ。
 さらに、直接的にエイズまでを視野に入れた、男性、女性、両方の同性愛者が登場する『ファルセットーズ FALSETTOS』『レント RENT』といったミュージカルでは、もっと突っ込んだ、同性愛者の側からの問題提起を含んだ形で物語が進んでいく。

 つまり、演劇世界での同性愛に対する認識は、1997年の今、そういう地点にある。

 そこから翻って考えると、今回の『誠の群像 新選組流亡記』での同性愛者の扱い方は、時代にそぐわない。たとえ、それが江戸時代の話であっても。
 別に、彼らを正面から描かなければダメだと言っているわけではない。ただ、「男しか生きていけない」新選組の厳しさを描くために同性愛者を持ち出した場合、こう描くしかないのならば、むしろ描かないという判断をした方がいい、という話だ。
 ましてや、と思う。一部に、女性だけの劇団である宝塚を奇異な目で見る人々もいないわけではない、という事実もあわせて考えれば、同性愛については、宝塚の作者は熟考しておく必要があるのではないだろうか。

 まあ、それはともかく、エンタテインメントの世界では、こうした問題に対する時代感覚は非常に重要だ。それを失うと、いっぺんに古臭くなってしまう。
 近年、冒険的な試みをたびたび見せて輝いている宝塚がいつまでも現代的なレヴュー/ミュージカル劇団であり続けるために、作・演出の方々にはなおいっそうのご努力をお願いしたい。ファンとしてはそう思う。

(9/6/1997)

Copyright ©1997 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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