「ロンドン産ミュージカルは“あざとい”」の逆襲

 以前このコーナーで書いた「ロンドン産ミュージカルは“あざとい”」は、長文だったにもかかわらず思ったよりも読んでいただけたようで、うれしい限りです。感想メールをくださったみなさん、ありがとうございます。

 で、そのメールの中に、「ゲキもは」仲間の 1人である KJさんからの、ロンドン産ミュージカル好きとしての反論がありました。
 やった! この話題について多くの方と意見交換したかった僕にとっては、願ってもないチャンスの到来。その反論にサイト上でお答えする形でさらに議論を深めるために、ここに KJさんからのメールと僕の見解を併せてアップします。
 メールの掲載をご快諾くださった KJさんに改めて感謝。なお、 KJさんの文章は、一部表記を統一させていただいた以外は原文のままです。

 ある種強引ではあるが、よどみなくロンドン産ミュージカルを切ったその視点には、お見事と言うしかないですが、なんだかんだといってもこの人、ロンドン産ミュージカルが単純に嫌いなんだなというのが読みとれました。
 いまここで、ロンドン産ミュージカルの弁護(?)をする前に、ミュージカル・ファンの気質について僕が気づいたことをお話ししたいと思います。

 ミュージカル・ファンは大別して、 2つのタイプに分けられると思う。
 1つは、ダンス系ミュージカル・ファンで、『シカゴ』『ノイズ/ファンク』『クレージー・フォー・ユー』など、音楽もさることながらダンスに見せ場の多いミュージカルを好むファン。映画のフレッド・アステアやジーン・ケリーのダンスに魅せられてミュージカル・ファンになった人はまずこのタイプ。
 もう一つは、音楽系ミュージカル・ファンで『オペラ座の怪人』『レ・ミゼラブル』など、ダンスよりも音楽を聴かせるミュージカルを好むファン。レコード(CD)を聴いてから劇場に足を運ぶ人はこのタイプになる。
 さて僕はというと、音楽系ミュージカル・ファンであることは間違いない。そしてその後、ダンス系ミュージカルも好きになった。
 映画『ジーザス・クライスト・スーパー』で 10代の頃、アンドリュー・ロイド・ウェバーのファンになっていたし、はじめてニューヨークに行く 1年半前にロンドン帰りの友人から「今ロンドンでこのミュージカルが流行っている」と聴かせてもらった『レ・ミゼラブル』のロンドン・キャスト盤が大いに気に入っていた。そのためか、はじめてのニューヨーク(88年)で観た 4本のミュージカルすべてがロンドン産といういびつなブロードウェイ・デビューをしている。今になって『コーラスライン』も観ておけばよかった、『エニシング・ゴーズ』も観ておけばよかった、とすごく惜しいことをしたと思っているのですが。
 奇しくも同じ年にブロードウェイ体験したミソッパさんが第 2の『エニシング・ゴーズ』を求めて劇場通いをし、僕は第 2の『オペラ座の怪人』を求めて(ミソッパさんの頻度に比べたらはるかに少ないが)観劇旅行をしている。ミュージカル・ファンとしての生い立ちの違いが、その後のファン気質の違いになっているといっても過言ではないでしょう。

 さて、あざとさですが、僕はある種のあざとさが大好きなのです。というよりもミュージカル・ファンは、いい意味でのあざとさが好きなのではないかと。「『レント』はあざといかあざとくないか」と訊かれたら、僕は「あざとい」と答えざるえない。原型の『ラ・ボエーム』だって詩人とお針子の美しくも悲しい青春グラフィティで、ある種のあざとさが日本でも人気がある理由ではないだろうか。
 ストレート・プレイのファンにとって多くのミュージカルはあざとくみえると思うし、ミュージカル・ファンがストレート・プレイを観ればミュージカルほどはあざとさを感じないと思う(ストレート・プレイを引き合いに出して、ロンドン産とブロードウェイ産のあざとさは五十歩百歩というつもりはない。『レント』より『ミス・サイゴン』のほうがはるかにあざといと僕も思う)。
 また、ミュージカル嫌いがよく言う「急に歌い出したり踊り出すと、観ているこっちがはずかしくなる」という意見に「世界中のどの祭りにも音楽と踊りがあり、人間は感情が高まると歌ったり踊ったりするんだ」と反論するのだが、僕はある種のこっぱずかしさも好きだ。
 あざとさ、こっぱずかしさが、心地よい表現になっているミュージカルでなければ、僕は観る気がしない(それを日本人がやると、たまらなくなることがあるが)。

 アンドリュー・ロイド・ウェバーやキャメロン・マッキントッシュへの批判は、娯楽大作を送り出すジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグへの批判に似ている。しかし、ウェバーやマッキントッシュの作品は、トニー賞でブロードウェイ劇場関係者が、ロングラン上演でブロードウェイの観客が支持しているという事実もある。ブロードウェイにおけるミュージカルはパフォーミング・アーツであるが、商業演劇であることも間違いない。だとすれば、彼らの方がブロードウェイの劇場関係者より商業演劇のなんたるかを知り尽くしているといえるだろう(現在のブロードウェイで、かつてのロンドン産の戦術が通用しなくなっているのはミソッパさんの指摘の通りだが)。またブロードウェイにおいてロンドン産に続くロングランが『美女と野獣』『オペラ座の怪人』に匹敵する大ヒットが『ライオン・キング』と、ブロードウェイ産の新作ではなくディズニー産であるという皮肉な結果もある。ここにブロードウェイのジレンマがあるのだろうが。

 それから、ブロードウェイに比べてアットホームなウエストエンドの劇場、ミュージカルに対するいい加減さにも似た厳しさのない観客、労働者階級のたまり場的な『バディ』の劇場の雰囲気も、嫌いじゃないのですが。
 このあたりが、僕のささやかな抵抗です(笑)。

 以上の KJさんの反論(あるいはロンドン産ミュージカル弁護)を僕なりに要約すると、次のようになるかと思う。

 まず、前提として――、

 1)僕が“ダンス系ミュージカル・ファン”であるために、“音楽系ミュージカル”が主体であるロンドン産ミュージカルが嫌いなのではないか。

 という分析があり、続いて本題に入ると――、

 2)あざとさはミュージカルにはつきものであり、ブロードウェイ産ミュージカルも多少の差こそあれ、あざとい。そして、ミュージカル・ファンは、そのあざとさが好きなのである。

 さらに(ここはやや論旨が曖昧なので、意訳気味に要約すると)――、

 3)アンドリュー・ロイド・ウェバーやキャメロン・マッキントッシュの作品は、トニー賞を受賞し、ロングランもしているので、ブロードウェイでは業界人からも観客からも認められている。当たるミュージカルの作り方を心得た彼らの作品を芸術的見地からのみ批判するのは、ルーカスやスピルバーグの映画を批判するのに似て見当違いである。

 ――という 2点についての反論がある。ですよね、 KJさん。

 さて、まず最初に説明しておきたいのは、なぜ僕が、「ロンドン産ミュージカルは“あざとい”」という文章を書いたのか、ということだ。

 直接のきっかけは、あの文章の冒頭に書いたように、 [ロンドン在住のミュージカル・ファンの方] と [ウェストエンドとブロードウェイの違いについて意見交換をした] ことなのだが、その意見交換は、リンカーンセンターでの限定公演からロングランに移ることが出来ずに終わってしまったミュージカル『パレード PARADE』についてのものだった。
 その方(仮に Kさん)も、僕同様『パレード』を観て感動し、ロングラン出来なかったのは残念だというメールをくださったのだが、 Kさんの意見では、娯楽を追求する作品の多いブロードウェイより芸術性の強い作品の多いウェストエンドでの方が『パレード』がロングラン出来た可能性が高かったのではないか、ということだった。
 そうか、そういう風にとらえる人もいるんだな、と思った。
 アンドリュー・ロイド・ウェバー Andrew Lloyd Webber 作品や『レ・ミゼラブル LES MISERABLES』などの思わせぶりなドラマ展開や演出を“芸術性”と理解してしまうのか……。でも、もしかしたら、そう考えている人の方が多いのかもしれない。そう言えば、他のミュージカル・サイトで、そうした作品についての思い入れたっぷりの文学的解釈が書かれているのをよく見る。これはまずい。ここらで一発、そういう風潮に楔(くさび)を打ち込んでおかなくては。
 そう考えて書いたのが、「ロンドン産ミュージカルは“あざとい”」だったというわけだ。つまり、『オペラ座の怪人 THE PHANTOM OF THE OPERA』『レ・ミゼラブル LES MISERABLES』のように文学的深みがあるかのように見える作品も、きちんと検証してみれば、『バディ BUDDY』と同じような底の浅さがほの見える、ということを言いたかったのだ。
 ただし、ここで改めて明言するが、「ロンドン産ミュージカルは“あざとい”」の中には、“あざとい”=“面白くない”という主張はない。
 こちらを読んでいただいてもわかる通り、僕は、好きな『キャッツ CATS』はもとより、それほど好きではない『オペラ座の怪人』『レ・ミゼラブル』についても、きちんとその面白さを評価している。つまり、“あざとい”けれども面白いものもある、とも言っているのだ。

 以上のことから、まず、ロンドン産ミュージカルが嫌いだからという動機で、僕が「ロンドン産ミュージカルは“あざとい”」を書いたのではないことはご理解いただけたと思う。 KJさんから提出された――、 1)僕が“ダンス系ミュージカル・ファン”であるために、“音楽系ミュージカル”が主体であるロンドン産ミュージカルに親しみが嫌いなのではないか。――という推測の裏には、明らかに、僕のロンドン産ミュージカル嫌いが執筆動機だろうという読みがあると思うが、そんなわけで、それは誤解です。
 と同時に、実はこれで、 2)3) の反論にも、ある意味答えていることになると思うのだが、ここで終わったんじゃあまりにも不親切なので、上記のことを前提に、念のため、 1)2)3) について細かくお答えする。

 1)の推測には、次の 3つの要素が含まれる。

 a) 僕が“ダンス系ミュージカル・ファン”である。
 b) ロンドン産ミュージカルは“音楽系ミュージカル”が主体である。
 c) 僕はロンドン産ミュージカルが嫌いである。

 順に答えると、 a) はイエス、 b) もイエス、 c) はノー、だ。

 まず、 b) から。
 文脈から言って、“音楽系ミュージカル”=“歌はあるがダンスがほとんどないミュージカル”という意味だと思うが、確かに最近のロンドン産ミュージカルにはそういう作品が多い。だからイエスなのだが、実はここに落とし穴がある。
 KJさんのみならず、ミュージカルを、“ダンス系ミュージカル”と“歌系ミュージカル”とに分けて語る人は数多くいる。が、よく考えると、この 2つの概念は対立するようなものではない。なぜか。
 “歌系ミュージカル”が“歌はあるがダンスがほとんどないミュージカル”であるのに対して、“ダンス系ミュージカル”と言われるミュージカルには(当たり前だが)歌も充分に入っているからだ。つまり、“ダンス系ミュージカル”という呼び名には“ダンス”の部分がたくさんあるというプラス志向があるが、“歌系ミュージカル”の場合の“歌”には、“ダンス”が欠けた結果残ったというマイナス志向が隠されているのだ。
 だから、 b) を正確に言い直すと――、ロンドン産ミュージカルにはダンス・ナンバーに乏しい作品が多い――ということになる。

 で、僕は、 a) で指摘されている通り、ダンス・ナンバーの充実したミュージカルが好きだ。

 けれども、だからと言って即、 c) にはならない。
 ダンス・ナンバーが好きなだけなら、バレエやダンス公演を観ている方がずっと楽しめる。ことさらミュージカルのダンス・シーンが好きなのは、 KJさんの文中の言葉を借りれば、“急に踊り出す”ことにワクワクするからだ。さらに言えば、僕は“急に歌い出す”ことにもワクワクする。 KJさんが(おそらく照れて)“こっぱずかしさ”を感じると書いている、そんなスリリングな瞬間こそが、ミュージカル最大の魅力だと僕は信じている(もっとも、“急に”というのは言葉の綾で、優れたミュージカルの場合、踊り出したり歌い出したりするのは効果的で自然なことなのだ)。
 早い話、“ダンス系ミュージカル”が好き、という気持ちの前に、“ミュージカル”が好き、という気持ちがあるので、ダンスに乏しいからという理由で、その作品を嫌いになったりはしない。
 さらに言えば、それ以外のどんな理由においても、ロンドン産ミュージカルが一般的に嫌いだったりはしない。事実、前述したように『キャッツ』は好きだし、『ピクウィック PICKWICK』『オリヴァー! OLIVER!』などのディケンズものにはハズレがないと思っている。
 ま、確かに嫌いな作品もあるが、それはニューヨーク産にしたところで同じことだ(例えばトニー賞を獲った『パッション PASSION』など、途中で帰ろうかと思ったぐらいだ)。

 ということで 1)の推測はクリアしたことにして、次は――、2)あざとさはミュージカルにはつきものであり、ブロードウェイ産ミュージカルも多少の差こそあれ、あざとい。そして、ミュージカル・ファンは、そのあざとさが好きなのである。――の出番。

 えっと、この KJさんの意見自体は、 OKと言うか、その通りなのだが、僕が「ロンドン産ミュージカルは“あざとい”」の中で展開した意見に対する反論としては、 2つの点で噛み合っていない。
 僕は、あの文章の中でまずこう書いた。

 [ひと言で言うと、ロンドン産ミュージカルは根本的に“あざとい”。]

 そして、続けて、広辞苑を引いて“あざとい”の意味をこう定義した。

 [1) 思慮が浅い。小利口である。
 2) 押しが強くて、やり方が露骨である。]

 KJさんが言っているあざとさは、文脈から言って 2番目の意味だろう。そういうあざとさは、ミュージカルに限らず、極端に言えばあらゆる表現の中に見出し得るものだと思う。
 だからこそ僕は、あの文章の最初の段階で、ロンドン産ミュージカルが“あざとい”のは根本的な問題であることと、“あざとい”に 2つの意味があり、その両方の意味でロンドン産ミュージカルが“あざとい”ことを強調したわけだ。
 [ロンドン産ミュージカルは根本的に“あざとい”] というのは、言い方を変えると、ロンドン産ミュージカルの“あざとい”部分をはがしていくとタマネギのように最後に何も残らない、ということ。まあ、これは極端な表現だが、要するに、製作動機の部分が希薄と言うかお気軽というか、あまり練られていないのだ。
 [『レント』より『ミス・サイゴン』のほうがはるかにあざといと僕も思う] と KJさんも書いているが、両者の違いは、あざとさの度合いの問題と言うよりも、作者の切迫感の違いなのだと思う。

 この議論はどんどん抽象的になっていくので、この辺にして、次の 3)のところで併せて語ろう。

 3)アンドリュー・ロイド・ウェバーやキャメロン・マッキントッシュの作品は、トニー賞を受賞し、ロングランもしているので、ブロードウェイでは業界人からも観客からも認められている。当たるミュージカルの作り方を心得た彼らの作品を芸術的見地からのみ批判するのは、ルーカスやスピルバーグの映画を批判するのに似て見当違いである。

 トニー賞の評価についてはいろいろと問題がないでもないので置いておくとして、ここではロングラン=商業的成功の話をしよう。
 [アンドリュー・ロイド・ウェバーやキャメロン・マッキントッシュの作品] は、 80年代を中心に、なぜ世界的な成功を収めたか。それは、他ならぬ、 [根本的に“あざとい”] という理由による、というのが僕の考え。

 彼らの成功作で、彼らの母国であるイギリスを舞台にしたものはない(『キャッツ』? 笑)。彼らは意図的に“アメリカで受ける”題材を選び取ってきたのだ。なぜなら、ミュージカルにとっては、ブロードウェイで成功することこそが、世界的成功への鍵だからだ。その結果、(商業的成功以外の)製作動機の希薄な [根本的に“あざとい”] 作品群が生まれた。しかし、そうした作品群は特定の文化背景を持たないので、“あざとい”要素のハッタリ部分が功を奏すれば、誰にでもわかりやすい、広い世界で受け入れられるミュージカルとなる。
 劇団四季においても、アメリカの文化を背負った『クレイジー・フォー・ユー CRAZY FOR YOU』より、無国籍的な『オペラ座の怪人』の方が受けるのは、そんなわけだ。日本での四季の成功は、まさにそうした、文化背景に対する理解を必要としない“あざとい”ミュージカルをレパートリーとして得たことによる。
 元がフランス産の『レ・ミゼラブル』にしたところで、英語版を観る限りでは、フランスの歴史云々は味つけとしてあるだけで、実際には、波瀾万丈の物語を超スピードで見せるスペクタクルな舞台でしかない(例えば、学生たちの蜂起を市民が支援しない理由なんて全く語られてないでしょ?)。だから、革命の意味なんて全然知らない外国人も面白く観るわけだ。
 KJさんのおっしゃる通り、 [彼ら(アンドリュー・ロイド・ウェバーやキャメロン・マッキントッシュ)の方がブロードウェイの劇場関係者より商業演劇のなんたるかを知り尽くしている] 瞬間があったのは確かだ。が、それは、バブルという“あざとい”経済的状況を背景に、自分たちの中に(商業的成功以外の)強い製作動機を持たないがゆえのこだわりのなさで、規模の大きな“あざとい”ミュージカルを作り得た、ということに他ならない。

 以上のことからわかるように、 [アンドリュー・ロイド・ウェバーやキャメロン・マッキントッシュの作品] がロングランして観客に受け入れられていることと、彼らの作品が“あざとい”こととは表裏一体。そのことは理解しておいた方がいいと思うのだ。

 さて、そろそろ、とりあえずの結論に向かおう。

 隆盛を迎えていると言われる昨今日本のミュージカル状況。だが、その中心となってきたのは、アンドリュー・ロイド・ウェバーやキャメロン・マッキントッシュの根本的に“あざとい”作品群の翻訳上演だ。そうした作品はそうした作品で楽しめるからいいのだが、そこには欠落しているものがあることも観客として自覚しておきたい。作品の背景にある事実や文化を知らなくても楽しめる作品だけを繰り返し観ていては、僕らは成長しないし、観客が成長しない限り日本のミュージカルも成長しないのだ。
 ってことでどうでしょう(笑)。

 KJさん、ありがとうございました。
 みなさんからの、さらなる反論その他、お待ち申し上げております。

(11/6/1999)

Copyright ©1999 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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