ロンドン産ミュージカルは“あざとい”

 ウェストエンド・ミュージカルとブロードウェイ・ミュージカルの違いって、何だと思います?

 先日(3/15- 3/18/1999)のロンドン観劇旅行の直前に、ロンドン在住のミュージカル・ファンの方からメールをいただいて、ウェストエンドとブロードウェイの違いについて意見交換をしたのだが、その時ロンドン産ミュージカルについての考えを自分なりにまとめた。その直後、訪れた 3度目のウェストエンドでの観劇で自分の分析の確かさを思い知った僕は、ミュージカル評価の常識に一石を投じるべく(!)、その考えをさらに追求し、ここに発表することにしたのであります(笑)。
 さて、ブロードウェイ・ミュージカルとはひと味もふた味も違うロンドン産ミュージカルの特徴とは――!?

1)ヒネりのない伝記とコンサート的ノリ

 ひと言で言うと、ロンドン産ミュージカルは根本的に“あざとい”。
 “あざとい”を広辞苑で引くと――、
 1) 思慮が浅い。小利口である。
 2) 押しが強くて、やり方が露骨である。
 ――とある。
 ロンドン産ミュージカルの“あざとい”には、この両方の要素がある。
 そして、その“あざとい”の背景には、ミュージカルを舞台芸術の中でワンランク低く見る観客の視線と、ブロードウェイに比べて製作費(劇場の使用料やギャラなど)が安くてすむという事実とがある。
 これが、僕の分析。

 具体例で行こう。
 ロンドン産ミュージカルの話をする時に、僕がたびたび引き合いに出すのが、『バディ BUDDY』
 この作品、脚本は時間軸に沿って主人公(バディ・ホリー Buddy Holly)の半生を追うだけでヒネりがなく(思慮が浅い)、見せ場はそっくりショウ的モノマネ演奏(小利口)、というお手軽なもので、装置などもチープ。当然のようにブロードウェイでは短命に終わったのだが、ウェストエンドでは劇場を移りながら今なおロングラン中で、コンサート的なライヴ演奏(押しが強くて、やり方が露骨)に観客は大ノリだ。

 『バディ』のような実在の歌手や役者を主人公にした伝記的作品は、ロンドン産ミュージカルの十八番で、数多く作られている。
 実際に僕が現地で観たのは、『バディ』の他には『ジョルスン JOLSON』(アル・ジョルスン Al Jolson)だけだが、小柳ルミ子のやった『ジュディ・ガーランド JUDY GARLAND』や宝塚の『ディーン DEAN』(ジェイムズ・ディーン James Dean)も元はロンドン産だったし、ロイ・オービソン Roy Orbison、エルヴィス・プレスリー Elvis Presley、ジョン・レノン John Lennon なんて人たちを採り上げた作品の新聞広告や看板を見たこともある。先日ブロードウェイでの公演がすぐに終わった『マレーネ MALRENE』(マレーネ・ディートリッヒ Malrene Dietrich)もウェストエンドからやって来た舞台だった。
 未見のものについては何とも言えないが、観たものは全て、基本的には『バディ』と同じ作りになっている。すなわち、ヒネりのない脚本+モノマネ(あるいは名場面の再現)。
 この辺、観劇記を書いたもので言えば、『オールウェイズ…パッツィ・クライン ALWAYS...PATSY CLINE』『ダイナ・ワズ DINAH WAS』と比べてもらえるとわかるが、オフの小規模な作品であっても、アメリカ産の実在モデルものは切り口がもっと絞られている。オンのヒット作『ウィル・ロジャース・フォリーズ THE WILL ROGERS FOLLIES』などになると、ここでは説明しきれないような複雑な構造を持っていたりもするのだ。

 さて、『バディ』には、そうした伝記的素材ということの他に、前述したコンサート的なノリという要素があり、これもまたロンドン産ミュージカルに多く見られる特徴だ。
 僕が観た中から例を挙げれば、これは翻訳上演(未見)もあった『スライス・オブ・サタデー・ナイト A SLICE OF SATURDAY NIGHT』、観た人はほとんどいないと思う『ホット・スタッフ HOT STUFF』、そして今度ブロードウェイにやって来る『サタデー・ナイト・フィーバー SATURDAY NIGHT FEVER』などがそうで、ドラマ部分とは関係なく歌や踊りの場面で観客が盛り上がる。特にカーテン・コールは総立ちで、文字どおりコンサート会場状態。
 うがった見方をすれば、こうしたコンサート的場面をつなぎ合わせるためにストーリーをでっち上げたんじゃないか、と思えるほどだ(『サタデー・ナイト・フィーバー』は映画が元だから、また別ではあるんだけど)。

 実在の人物の伝記的作品もコンサート的ノリの作品も、根っこは同じで、要するに、ほぼワン・アイディアで出来上がっていて、そのアイディアそのものが“あざとい”と同時に、“ウリ”が 1つあればそれでいいという姿勢もまた“あざとい”。
 「バディ・ホリーそっくりに歌えるやつがいるんだけど、こいつを使って再現ドラマ風のミュージカルってどうだろう。最後にコンサート・シーンをくっつけて」(『バディ』
 「50年代のロックンロールっぽい曲を書くの得意だろ。小さなクラブを舞台に、『グリース GREASE』みたいなノリのやつを作らないか」(『スライス・オブ・サタデー・ナイト』
 「TV で人気の○○って、けっこう踊れるらしいんだけど、あいつにトラボルタのポーズさせたら絶対ウケるぜ」(『サタデー・ナイト・フィーバー』
 全部想像だけど(笑)、こういう感じで作られているとしか思えない。

 そういう意味で、いかにもロンドン産という舞台があったのを思い出した。最近『リトル・ヴォイス LITTLE VOICE』というタイトルで映画化された『リトル・ヴォイスの栄光と挫折 THE RISE AND FALL OF LITTLE VOICE』。イギリスからやって来たこの舞台を、僕は 5年前にブロードウェイで観たのだが、実に変わった作品だった。
 形態は明らかにストレート・プレイなのだが、見どころは主役を演じる娘によるモノマネの歌なのだ。
 男にだらしのないアル中の母親との 2人暮らしの中で心を閉ざしてしまった少女、リトル・ヴォイス(話し声が聞こえないほど小さいから、こう呼ばれる)の心の安らぐ時間は、好きなレコードに合わせて歌を歌う時だけ――という設定で少女が歌うのが、ジュディ・ガーランド、エディット・ピアフ Edith Piaf、ビリー・ホリデイ Billie Holiday、マリリン・モンロー Marilyn Monroe、バーブラ・ストライザンド Barbra Streisand などのナンバーで、これがソックリ(特に初めの 2人)。
 初めは自分の部屋で歌っているだけだったのが、金もうけになるからと母親の愛人が企んで、少女がステージに立つことになるショウ場面があるなど、作品のねらいがどこにあるかは誰の目にも明らかだ。
 これを“あざとい”と言わずに何と言う。

 ここまで読んで、誰も納得していなのが目に浮かぶ(笑)。なにしろここには、アンドリュー・ロイド・ウェバー Andrew Lloyd Webber 作品も『レ・ミゼラブル LES MISERABLES』も登場していない。ロンドン産ミュージカルと言えば、むしろ、そういうブロードウェイでもロングランを続けている作品を思い浮かべる人の方が圧倒的に多いにもかかわらず、だ。
 ご心配なく。間もなく俎上に載せます。

2)ロイド・ウェバーや『レ・ミゼラブル』の検証

 まず言っておくと、そうした有名作品も、ほとんどが根本的には“あざとい”と僕は考えている。ただ、『キャッツ CATS』以降の何作品かは、スケールが大きかった(金がかかっていた)ために、人々にある種の感動を与え、ブロードウェイのミュージカルにも影響を及ぼした。
 具体的に見ていこう。

 まずはアンドリュー・ロイド・ウェバー作品から。

 『ジーザス・クライスト・スーパースター JESUS CHRIST SUPERSTAR』(作詞/ティム・ライス Tim Rice)。
 71年 10月に、ウェストエンドより先にブロードウェイで幕を開けたこの“ロック・オペラ”が元々はレコード作品だったことは、ごぞんじの通り。これはアメリカでのデータだが、シングル「Superstar」の発売が 70年 1月(ポップ・チャート最高位 14位)、同年 11月にリリースされた 2枚組のアルバムが翌 71年に No.1になる。で、ブロードウェイに登場するまでの間、コンサート形式のライヴ・ツアーを全米で行なった。だから(この目では観てないけど)初演のキャストはハンド・マイクを使っていたわけ。
 こちらにも書いたが、音楽的にスワンプ・ロックをいただいた趣のあるこの作品、 69年のメンフィス録音をきっかけに復活し、ラスヴェガスでのライヴを始めたエルヴィス・プレスリーにインスパイアされていると僕は思う。それプラス、(イギリスのことは知らないが)アメリカで当時盛り上がっていた“ジーザス・フリーク”と呼ばれる人たちなどの新たなキリスト教運動。言い換えると、(ビートルズと同じくらい有名な)キリストを主人公にした伝記的作品で、聖書の名場面が(ひねってはあるが)再現され、ノリはコンサート。

 舞台化は 2番目だが実質的な処女作と言われる『ヨセフと不思議な天然色のドリームコート JOSPH AND THE AMAZING TECHNICOLOR DREAMCOAT』(作詞/ティム・ライス)も、コンサート及びレコードが先行した作品。そのせいか、コンサート的ノリは共通している。よく知られた聖書中の人物伝であるのも同じ。音楽的には、かなりストレートなポップ・ソングで、こちらにはエルヴィスのパロディ場面が登場する(エルヴィスの影は『キャッツ』にも表れている)。

 興行的に失敗し、ブロードウェイには登場しなかった『ジーヴス JEEVES』(作詞・脚本/アラン・アイクボーン Alan Ayckbourn。後に『バイ・ジーヴス BY JEEVES』に改訂)については後述するとして、次が 78年ロンドン、 79年ニューヨークで幕を開けた『エヴィータ EVITA』(作詞/ティム・ライス)。
 「BROADWAY MUSICALS Show By Show」によれば、この作品も最初はレコード用企画だったらしい。そして、舞台版の興行的成功には、シングルとしてリリースされた「Don't Cry for Me, Argentina」のヒットが貢献したという。その流れは『ジーザス・クライスト・スーパースター』とよく似ている。また、内容的にも、独裁者の妻として悪名が高いにもかかわらず地元では“聖女”(マドンナ !?)と崇められる主人公の人生の真実を暴く、というスキャンダラスな感触が共通している。
 英語版上演を観たことがないので四季版を元に語るしかないのだが、この作品の“あざとい”ところは、そうしたスキャンダラスなヒロイン像を際立たせるというねらいだけで作られていることにある。そのため、主人公エヴァや狂言回しチェ・ゲバラのキャラクターに深みはなく、ある意味、荒唐無稽ですらある。
 楽曲的にも、前述の「Don't Cry for Me, Argentina」以外に際立ったものはなく、“南米っぽい”エキゾティシズムをねらったマガいものの印象が強い。
 この作品で最も重要なのは、そうした中途半端な素材を強力にまとめ上げたハロルド・プリンス Harold Prince の演出の手腕で、“あざとい”ミュージカルも一流の演出家が手がければ整って見える、という 80年代への布石は、この時打たれた。

 後に『ソング&ダンス SONG & DANCE』に組み込まれる TV用の『日曜日に言って TELL ME ON A SUNDAY』(79年)は、全く観たことがない。

 81年 5月、ロンドンに『キャッツ CATS』(作詞/T・S・エリオット T. S. Eliot に基づく)登場。ニューヨーク上陸は翌 82年 10月。
 “あざとい”ものも豪華に作ればうまくいく、という典型的成功例。そして、その背後に、“あざとい”発想を生かすべく、演出家(トレヴァー・ナン Trevor Nunn、ギリアン・リン Gillian Lynne)と振付家(ギリアン・リン)に全力を出させ、資金を調達したプロデューサー=キャメロン・マッキントッシュ Cameron Mackintosh が姿を現す。
 しかし、この作品は冒険だったと思う。登場するのは全員、猫。でもって、けっして子供向けじゃない。しかも、話らしい話はない。ヘタをすれば、ただ“あざとい”だけの駄作になりかねない。
 僕は、アンドリュー・ロイド・ウェバーの音楽は野暮ったくて好きではないが、それでも、『キャッツ』を作ったという一点で、尊敬に値すると思う。これが、彼のかかわったミュージカルの中で最もオリジナリティのある作品だと断言する。
 とは言え、この作品が結果的に成功を収めたのも、初演地がロンドンであったればこそだ。あえて観劇記には書かなかったが、ウェストエンド版を観て確信したのは、そのことだ。
 まず前提として、ロンドンでは上演のための基本的な費用が安いのでリスクが小さくて済む、ということがある。その上さらに、この作品のプロデューサー(マッキントッシュとリアリー・ユースフル・カンパニー=ウェバー)はこう考えた(に違いない)。
 「ロンドンの客が相手なら、金のかけ方がそこそこでも、このネタで押し通せる。きっとウケるはずだ」
 それを証明するのが、ウェストエンド版とブロードウェイ版の最大の相違点、すなわち、第 2幕に出てくる大がかりな船のセットの有無だ。このセット、前者にはなく、後者にある。なぜか。ニューヨークでは豪華にしないとダメだと考えたから。裏返すと、ロンドンでは新奇さだけでもイケると読んだ。でしょ?
 そして、予想通りロンドンで当たりをとると、効果的な宣伝で大いに期待感を煽りつつ、 1年半後、劇場を大改造して作り上げた(当時としては)超豪華な“ニュー”『キャッツ』を、ニューヨークにお目見えさせた(この辺の事情は、先日こちらで紹介した、大平和登「ブロードウェイ PART2」に詳しい)。こうして、“あざとい”発想から生まれた作品も、金のかかったケレンという衣装をまとえば一流の仲間入りをすることが出来るという図式が生まれ、ミュージカルの世界も一気にバブルに突入する。

 間に前述の『ソング&ダンス SONG & DANCE』(ロンドン 82年、ニューヨーク 85年)を挟んで、次が『スターライト・エクスプレス STARLIGHT EXPRESS』(作詞/リチャード・スティルゴー Richard Stilgoe)。
 84年にロンドンで幕を開けて大当たり(今でもヴァージョンを変え、劇場を移りながらロングラン中)、その評判を受けて 87年開幕のニューヨーク公演の前売りは記録的に伸びたが、いざ始まってみれば 2年と続かなかった。こちらは、“あざとい”ものを豪華に作ったものの失敗した例。ちなみに、演出は『キャッツ』同様トレヴァー・ナンだが、プロデューサーは全く別。
 猫に代わって登場するのはオモチャの汽車。(ローラースケートを履いた)様々な国の機関車たちがレースで速さを競い合う、という話で、“友情・努力・勝利”的ドラマ展開も、恐ろしいほど単純化されたナショナリズムにのっとったキャラクター設定も、子供でさえ喜ぶかどうか怪しい杜撰(ずさん)なもの(機関車が男で女は食堂車などの客車だという振り分けも時代錯誤)。“あざとい”の連発だ。
 僕が観たのはブロードウェイ版で、ロンドン版にあるといわれる劇場内を周回するようなコースこそなかったが、機関車が走るための通路を何層にも重ねて天井の方まで組み上げたセットは壮観。しかし、初めは驚かされる豪華セットが、観ている内に無用の長物に見えてくるのは、後の『サンセット大通り SUNSET BOULEVARD』と同じ。

 さて、ここで一旦ロイド・ウェバーを離れる。
 キャメロン・マッキントッシュのプロデュースによる『レ・ミゼラブル』(作曲/クロード=ミシェル・ショーンベルク Claude-Michel Schonberg、作詞/ハーバート・クレツマー Herbert Kretzmer)の登場だ。ロンドン上演開始が 85年、ニューヨークの正式オープンは『スターライト・エクスプレス』より 3日早い 87年 3月 12日。
 79年に作られたというフランス版については観たことがないので語れないが、英語ヴァージョンに色濃く見えるのは、『キャッツ』同様の、マッキントッシュ(プロデューサー)のハッタリであり、トレヴァー・ナン(演出家)の大きな素材をまとめ上げる手腕だ(この作品ではジョン・ケアード John Caird が共同演出)。『レ・ミゼラブル』を英米で通用する舞台に仕上げたのがこのロンドン版首脳陣だという推測は、この後の仕事でも見せる彼らの一貫した方法論から考えて、間違っていないと思う。そういう意味で、この作品を準ロンドン産ミュージカルと呼ぶことに異論はないだろう。
 ところで、最終的にこのミュージカルほどのレヴェルで仕上がってしまうと、どこが“あざとい”のか見えにくくなってくるが、実に、あの長大な物語を一見しただけでは筋を追えないほどのダイジェストにしてたった 2幕で上演してしまおうという発想そのものが、ブロードウェイ・ミュージカルにはない“あざとい”ものだ。もちろん、その要素はあらかじめフランス版が持っていたものだが、そうした要素に目をつけて資金を注ぎ込み、アッと驚くセットの数々でメリハリをつけて、観客に考える暇を与えないスピーディなスペクタクル・ミュージカルに仕立て上げるところに、ロンドン産ならではの“あざとい”感覚を見る。

 さて、再びロイド・ウェバー作品。『オペラ座の怪人 THE PHANTOM OF THE OPERA』(作詞/チャールズ・ハート Charles Hart、リチャード・スティルゴー、脚本/リチャード・スティルゴー、アンドリュー・ロイド・ウェバー)のオープンは、ロンドン 86年、ニューヨーク 88年。ここまで『ジーヴス』以外ではクレジットのなかった脚本家名が、この作品以降登場。プロデューサーは再び、キャメロン・マッキントッシュとロイド・ウェバー(会社はリアリー・ユースフル・シアター・カンパニーと改名)
 ケン・ヒル Ken Hill 版を観れば明らかなように、現代においては半ば冗談でしかありえないような 100年前のゴシック・ロマンを、マジなラヴ・ストーリーとして押し通してしまうところに、ロイド・ウェバーの“あざとい”精神を見る。
 その“あざとい”精神を生かすべく、効果的に金を使って“あざとい”セットを準備、ハロルド・プリンスにケレン味たっぷりの演出をさせたマッキントッシュの力技で、豪華で楽しみやすい、なおかつ文学的香りさえするかのような舞台が出来上がった。
 現時点では、ロイド・ウェバー最後の成功作。

 『アスペクツ・オブ・ラヴ ASPECTS OF LOVE』(作詞/ドン・ブラック Don Black、チャールズ・ハート、脚本/アンドリュー・ロイド・ウェバー)は四季版しか観ていない。ロンドン 89年、ニューヨーク 90年のオープン。リアリー・ユースフル・シアター・カンパニーの単独プロデュース作品。演出はトレヴァー・ナン。
 四季版を観た限りでは、“あざとい”要素に乏しい。それが失敗の原因。こんな人間関係の上っ面をなぜただけの薄っぺらい脚本では、ケレンに変わりうる“あざとい”要素なしに、当たる舞台になるわけがない。楽曲にもいつものハッタリがなく、せいぜい、前作『オペラ座の怪人』で徹底させた、執拗な繰り返しによるメロディの刷り込みが効果を上げていたぐらい。
 おそらくロイド・ウェバーは、スティーヴン・ソンダイム Stephen Sondheim に対抗して、この作品を作ったのだと思う。神や猫や汽車や怪人ではない、普通の人間の登場する文学的ミュージカル。そこに彼の自分の才能に対する誤解がある。
 人間的に深みのないロイド・ウェバーだからこそ“あざとい”ミュージカルを臆面もなく作れるのであり、それが彼の作品の魅力となっているのだ。したがって、どんなに逆立ちしても、彼にはソンダイムのような作品は作れないし、逆にソンダイムからは、ロイド・ウェバーのような“あざとい”ミュージカルは生まれない。それが持ち味というものだ。

 巨大な失敗作『サンセット大通り SUNSET BOULEVARD』(作詞・脚本/ドン・ブラック、クリストファー・ハンプトン Christopher Hampton)のオープンは、ロンドン 93年、ニューヨーク 94年。プロデュースのリアリー・ユースフル・シアター・カンパニー、演出のトレヴァー・ナンは前作同様。
 この作品で最も“あざとい”のは、息を飲むほど豪華な屋敷(上下動可)のセット。ところが、この仕掛けはロンドン公演でも功を奏さず、辛い批評が出た。するとロイド・ウェバーは、出来の悪さを主演女優パティ・ルポン Patti LuPone のせいにして、アメリカ公演ではグレン・クロース Glenn Close を起用。幕切れなどに手を加え、スター芝居に仕立てた。
 僕の観た限り、ウェストエンド版にしろ、手を加えたブロードウェイ版にしろ、映画版を舞台で再現しようとする切り口に無理があるのと同時に、金のかけどころを間違っていた。
 ロイド・ウェバーの過去の成功作は、発想の大元に“あざとい”部分があり、それをケレンにまで昇華させる形で資金をつぎ込んでいた。ところが、この作品や次の『汚れなき瞳 WHISTLE DOWN THE WIND』(観劇記もアップしていないので、ここでは具体的には語らないが)などは、金をかけてあるセット自体が“あざとい”という本末転倒状態に陥っている。

 そしてまた、こと金のかけどころに関しては間違いのなかったキャメロン・マッキントッシュも、似たような自家撞着を起こし始める。
 『ミス・サイゴン MISS SAIGON』(作曲/クロード=ミシェル・ショーンベルク、作詞/アラン・ブーブリル Alain Boublil)のヘリコプターのセットなど、まさに、そうした本末転倒の象徴だ。
 89年に幕を開けたロンドン公演はようやく終わりを迎えるが、91年からのニューヨーク公演はまだ続いている。このミュージカルがなぜこれほどのロングランを記録するのか、僕には大いなる謎なのだが、ともあれ、オペラ『蝶々夫人 MADAMA BUTTERFLY』の枠組みをいただいて作り上げた作品の空々しさは、同じプッチーニ Puccini のオペラ『ボエーム LA BOHEME』から生まれた『レント RENT』の生々しさと比べるまでもなく明らか。
 ヴェトナム戦争に材をとったヴェトナム人とアメリカ人の悲劇を、フランス人とイギリス人が思いっきり感傷的に描いて感動させようとするのだから、“あざとい”と言う他ない。しかも、イタリア人が(エキゾティシズムをねらって)オペラにした日本人とアメリカ人の“あざとい”話を下敷きにしているのだから、二重の確信犯だ。
 逆に言うと、そうしたエキゾティシズムに彩られた感傷的な悲劇というものが、欧米ではまだまだ有効だということか。

 マッキントッシュはその後、『モーという名の 5人の男 FIVE GUYS NAMED MOE』という小品をロンドンからニューヨークに送り込むが、これはリズム&ブルーズのアーティスト、ルイ・ジョーダン Louis Jordan の持ち歌を、ちょっとしたドラマ仕立てで並べていく半ばレヴューのような作品で、傾向としてはコンサート的ノリのもの。豪華さのない分、小さなヒットで終わった。
 そして、ショーンベルク&ブーブリルと組んでブロードウェイ入りを目指した『マルタン・ゲール MARTIN GUERRE』は、明らかに第 2の『レ・ミゼラブル』をねらった作品だったが、ロンドンでのロングランも終わってしまい、捲土重来を期して地方公演を行なっているという。これまた金のかかったセットのみに目が行く失敗作だった。

3)“あざとい”ミュージカルの功罪

 ロンドン産ミュージカルが根本的に“あざとい” [背景には、ミュージカルを舞台芸術の中でワンランク低く見る観客の視線] があると最初に書いたが、それがなぜなのかは、ロンドンに詳しくない僕には正確なところはわからない。ただ、「大英帝国はミュージック・ホールから」井野瀬久美惠・著(朝日選書)などを読むと、階級のはっきりしているイギリスでは、ミュージック・ホール(後にヴァラエティ・シアター)が労働者階級の娯楽の場であったことなどが関係しているのかもしれない、と思ったりもする。

 僕が初めてロンドンに行ったのは 93年の秋だが、劇場に行っていちばん驚いたのは、幕間になると食べ物売りが客席を歩いて回ることだった。その時に、ああ、この街の劇場文化はニューヨークとは違うんだ、と気づいた。以来、まだ都合 3度しか訪れていないが、行くたびに空気の違いを肌で感じる。ロンドンの観客は、とにかくミュージカルは楽しければ、ノセてくれれば、あるいは驚かせてくれればそれでいいと思っているようだ。
 そういう意味では、出世作『ジーザス・クライスト・スーパースター』が偶然アメリカからスタートしたことがきっかけになったのかもしれないが、アンドリュー・ロイド・ウェバーは初めからブロードウェイにねらいを定めて作品作りをしていて、ウェストエンドでの公演はその試金石にすぎないと考えているように見える。特に『エヴィータ』からはそうで、以降、金のかけ方が大きくなってきている。だから一見、他のロンドン産ミュージカルとは異質に見えるが、本質が同じことは前述してきた通り。しかし、金をかけて豪華にすれば、観客にとっては別の楽しみが増えるのも確かで、それが 80年代の一連のヒット作につながったわけだ。

 見方を変えると、ロイド・ウェバー作品は豪華にしないとコケる可能性を大いにはらんでもいたわけだが、そうしたこととは関係なく、ニューヨークでも、金をかけた豪華なミュージカルに観客が慣れてきてしまうという事態が起こった。
 一方に豪華なミュージカルがあれば、普通程度の舞台が貧相に見えるのは道理で、それがちょうど経済的なバブル期とも重なったために、各プロダクションとも争うように資金を注ぎ込み始め、結局は慢性的な回収不能状態を招くことになる。その反動が 96年の『ノイズ/ファンク NOISE/FUNK』『レント』で、今プロデューサーたちは、豪華さの名残と本質的な新しさの狭間で揺れているように見える。『君はいい人、チャーリー・ブラウン YOU'RE GOOD MAN, CHARLIE BROWN』などはその典型だろう。

 功罪ということで言えば、こうした資金の面での影響は“あざとい”ミュージカルの“罪”だが、同時に“功”もあったと思われる。
 これについてはリアルタイムで体験していないので想像だが、ノスタルジックな作品や規模の小さいレヴュー的作品、それにリヴァイヴァルが主流を占めるようになっていたブロードウェイに、ある種の風穴を開けたのが、一連の“あざとい”ロンドン産ミュージカルだったのではないだろうか。
 もちろん、“あざとい”作品に追従する動きがすぐにあったわけではなく、おそらく影響は、自国産のしっかりしたミュージカルを作らなくては、という精神的な面で表れたと思われる。自作の見直しをして明日への糧にしようという意図があったと思う『ジェローム・ロビンズ・ブロードウェイ JEROME ROBBINS' BROADWAY』や、過去のブロードウェイ・レヴューのスタイルを借りながら国民的スターの生涯をミュージカルならではの方法論で描いた前述の『ウィル・ロジャース・フォリーズ』などに、それは垣間見える。
 もっとも、最近になって、『ジキル&ハイド JEKYLL & HYDE』など、直接ロイド・ウェバーに影響された作品も現れるようになったが。

 本来が作曲家であるロイド・ウェバーと違って、プロデューサーのマッキントッシュは、ブロードウェイを目指した最近の新作はやはり失敗しているが、ロンドンではリヴァイヴァルを当てている。考えてみれば、ブロードウェイがミュージカルの頂点であるとは言え、別にロンドン産はロンドンで当たればそれでいいのだ。明らかに文化が違うのだし。
 そしてロンドンには、初めからそういうスタンスで作られているミュージカルもあり、そちらの路線には“あざとい”面があまり見られない。その多くは、チャールズ・ディケンズ Charles Dickens をはじめとするイギリスの作家の作品を原作にするものであり、全くの新作であっても舞台をイギリスにしたローカルな作品であるのが特徴だ。『ジーヴス』(→『バイ・ジーヴス』)もそういうイギリス臭の強い作品で、同時に、ロイド・ウェバー作品にしては珍しく“あざとい”ところがない。
 やはり、自分の文化を扱う時には、作者も“あざとい”アイディア以前に考えるべきことが出てくるということなのではないだろうか。

 ところで蛇足だが、今年のトニー賞の演出と振付部門を受賞した『スワン・レイク SWAN LAKE』も、芸術の仮面をかぶってはいるものの、実はかなり“あざとい”作品だと思うのだが、どうだろう。

(7/5/1999)

Copyright ©1999 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

previous/next


[HOME]