映画版『ナイン』をどう評価するか

 ロブ・マーシャル Rob Mershall による映画版『ナイン NINE』。昨年、クリスマス公開だったニューヨークで観た。すでに日本でも公開済みなので、ご覧になった方も多いだろう。これを、どう評価するか。
 個人的な結論を言えば、贅沢な失敗作、といったところだ。

 ご承知の通り、この作品の大元はフェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督映画『8 1/2』(1963)で、ということは、やはりロブ・マーシャルの監督したミュージカル映画版『シカゴ CHICAGO』同様、映画→ミュージカル舞台→ミュージカル映画、と変遷している。しかしながら、大きく違うのは、元の映画版『市俄古(公開当時の邦題)が元々ヴォードヴィル世界周辺を描いた、舞台に親和性の高い作品だったのに対し(ちなみに、『シカゴ』の場合は最初の映画の前にストレート・プレイの舞台があったし、途中に、『ロキシー・ハート ROXIE HART』というジンジャー・ロジャーズ Ginger Rogers 主演の、ダンス含みの第 2弾映画化作品もある)、『8 1/2』が映画についての映画的な性格を持った、舞台とは距離のある作品だ、というところだ。
 そんなメタ映画とも言うべき映画『8 1/2』を思い切って舞台ミュージカルに生まれ変わらせたところに、舞台作品『ナイン』の独創があった。それを再度スクリーンに移すことの意味は、もちろん商売としては“あり”だろうが、はたして面白いことなのだろうか。
 観る前に思った疑問がそれで、残念ながら、その危惧は当たっていた。具体的に言うと、映画の中で、現実を描く部分とショウ場面とが乖離してしまっているのだ。
 その直接的な原因は、映画版『シカゴ』の時には功を奏した「映画内現実部分」と「映画内“超”現実部分(ショウ場面)」との分離の意味づけが、うまくいかなかったことにある。

 『シカゴ』の場合、舞台ミュージカル版は初めから作品世界全体をヴォードヴィル・ショウとして描いている。人々は一夜の余興だけを求めている、それが世界だ、という認識の表現。全てをヴォードヴィル・ショウとして描くことに必然があった。
 それを映画化するにあたり、ロブ・マーシャルは、写実的な描写の現実部分と、ショウ場面として描く“超”現実部分とに分け、後者をロキシー・ハートの妄想という設定にした。ヴォードヴィルのスターになりたかったロキシーが、目の前で起こっている現実から逃避したいがゆえに妄想してしまう現実のショウ場面化。ヴォードヴィルへの憧れと現実逃避、その 2つが重なり合って、ロキシーの頭の中では現実が誇張された形のヴォードヴィル・ショウになる、という構造(だから、ロキシーが目撃出来ない、つまり、妄想のショウ場面になりえない「Class」のシーンは最終的に削られたのだと思われる)。その、現実と“超”現実とが交互に描かれている内に、しだいに境目がわからなくなり、写実的に描かれる現実もロキシーの妄想の“超”現実と違わないんじゃないか、いや、現実は“超”現実以上にヴォードヴィル・ショウのようなものなんじゃないか、という風に見えてくる。つまり、舞台版の世界観に近づいてくる。説明すると野暮ですが、「映画内現実部分」と「映画内“超”現実部分(ショウ場面)」とを描き分けたことが、そんな風に結実していく。そこが映画版『シカゴ』成功の重要な理由の 1つだろう。

 では、『ナイン』の場合はどうか。
 入れ替わり立ち替わり女優が登場してショウ場面を展開していく舞台版『ナイン』の印象は、『シカゴ』舞台版に似てヴォードヴィル・ショウ的。しかしながら、『シカゴ』が、その世界観をスタイルに反映させているほどには、ヴォードヴィル・ショウ的であることに意味はない。むしろ、「イタリア的な楽曲のミュージカルを書きたいという楽曲作者の欲求」と「女性に取り囲まれて混乱するグイドというイタリアの映画監督という設定」とを結びつけて舞台ミュージカルとして成立させようとし、(おそらくは『カンパニー COMPANY』あたりの成功を参考にしながら)ギリギリのところで、この形式でまとめ上げた、という風に見える。
 ともあれ、映画化にあたり、今回もロブ・マーシャルは、「映画内現実部分」と「映画内“超”現実部分(ショウ場面)」との分離という『シカゴ』同様の手法を採った。そして、「映画内“超”現実部分(ショウ場面)」が主人公(映画監督グイド)の妄想、というところも『シカゴ』と同じ。目の前で起こっている現実から逃避したいがゆえに、グイドが頭の中で展開してしまう現実のショウ場面化、というわけだ。
 しかしながら、実は、映画『ナイン』においてグイドの妄想が“ショウ場面化”する必然性はない。なぜなら、グイドはロキシーのようにはヴォードヴィルに憧れてはいないから。さらに、『ナイン』は、現実がヴォードヴィル・ショウのようなものだ、という世界観で描かれた作品でもない。したがって、「映画内現実部分」と「映画内“超”現実部分(ショウ場面)」とは平行線のまま、どこまで行っても交わることはなく、現実と妄想とが混濁して世界の見え方が変わるというような結実には到らない。ただただグイドの混乱を描き出すのみだ。
 結果、映画『ナイン』のショウ場面には“とってつけた感”が漂う。早い話、わざわざミュージカルにしなくてもよかったんじゃないか、という感じがするのが、映画『ナイン』だ。したがって、『シカゴ』を当てたんで、今回はお金をふんだんに遣い、豪華な女優を数多く揃え、イタリア現地ロケも行ないました、という贅沢な印象だけが残る失敗作となった、というのが僕の感想。
 いかがでしょう。

 ショウ場面の出来だけを取り出して話をすれば、特筆すべきは 1曲、ファーギー Fergie の「Be Italian」のみ。ずらりとダンサーたちが並んで砂をザバザバやるシーンは、ごまかし抜きで観応えがあった。
 予告で画像が使われ、ラジオでもよく流れていた、舞台版にはない楽曲「Cinema Italiano」の場面は、ダンスのカットを割りすぎで、完全に楽曲の PVと化していて感心しない。

(5/10/2010)

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