【3】

ニューヨークの現場体験を日本へ

〜“ドラマターグ”小嶋麻倫子さんに訊く〜

 今年(05年)の 1月 23日、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで、『太平洋序曲 PACIFIC OVERTURES』のブロードウェイ公演を終えた、演出家・宮本亜門、美術デザイナー・松井るみ両氏による公開“帰朝報告会”が行われた。その舞台に、その 2人と共に登場したのが小嶋麻倫子さん。彼女は、ブロードウェイの宮本亜門版『太平洋序曲』のプレイビルに“ドラマターグ”としてクレジットされている。
 ニューヨーク在住の小嶋さんから初めてメールをいただいたのは、 2000年の秋。 [EXTRA!EXTRA!] の 2000年分に掲載した「ミュージカル・サイトの心得(2)」の事実誤認を指摘してくださる内容だった。
 以来、親しくお付き合いさせていただいている……わけではなく(笑)、ニューヨークで 2度ほどお目にかかってお話をうかがった他は、時折メールのやりとりをさせていただきながら、“ドラマターグ”としてのご活躍を観客として拝見していた。
 なので、世田谷パブリックシアターでは久々の再会。と言っても、こちらが勝手に楽屋をお訪ねしたのだが、快く迎えてくださり、なおかつ、お忙しい中、時と場所を変えてのインタヴューにも応じていただいた(お話をうかがったのは、 1月 27日。インタビューから掲載まで 1年近くかかってしまったのは、もっぱら僕の責任です。申し訳ありません)。
 話は、ここに記した、ミュージカルとの出会いから“ドラマターグ”の役割、ニューヨーク演劇界の現状、『太平洋序曲』アメリカ公演の実情の他、多岐にわたったが、補足説明抜きには理解しにくい部分は、やむなく割愛せざるをえなかった。そんな中にアメリカの新世代楽曲作者の話もあり、アダム・ゲテール Adam Guettel(このインタヴューの後、『ライト・イン・ザ・ピアッツァ THE LIGHT IN THE PIAZZA』で 04-05年シーズンのトニー賞楽曲賞を受賞)がリチャード・ロジャース Richard Rogers の孫だという事実を、この時、初めて小嶋さんから教えていただいたことだけは記して感謝したい。もちろん、その直後から、僕がその事実を知ったかぶって触れ回ったことは言うまでもない(笑)。

 宮本亜門版『太平洋序曲』観劇記は、新国立初演リンカーンセンター公演新国立再演&ブロードウェイ公演とアップしてあります。そちらをお読みいただくと、このインタビューの内容が、より理解しやすくなります。

●宝塚歌劇のファンから演劇の道へ

――まずは小嶋さんのバックグラウンドから。年齢をうかがってもいいですか?

 今、31(歳)です。昭和48年、1973年生まれ。
 生まれたのは福岡、北九州です、ずっと。八幡で生まれたんですけど、ほとんど小倉です。

――東京に一旦出て来られてからニューヨークに?

 そうです。東京に来たのが大学に入る時なので、 18(歳)の時。で、大学院終わるまでいたので、 24(歳)までいたんですかね。それからアメリカに行ったんですけど。
 元々は、私、宝塚の大ファンで、ずっと小さい時からオーケストラに入ってたんですね。私の夢は宝塚大劇場のオーケストラピットに入って、毎日、こうやって横を見ながら公演を観ることだったんです(笑)。なので、高校の時にはずっと音大に行こうと思ってて。
 でも、宝塚大劇場はよかったんですけど、東京宝塚劇場のオケボックスが低いことに気づいて、横を見ても舞台が見えない(笑)。これは、なんか違う方法を考えないといけない……。で、私は岩谷時子になるんだわ、と思って、英文科に行ったんですね。

――あ、そうか。越路吹雪の親友として……(岩谷時子は、宝塚歌劇→東宝のスターだった越路吹雪の、友人、ブレーンとして、作詞、訳詞などでも活躍)。

 そうそう。これはなんか、私は岩谷時子になって訳詞をするんだわ、と思って、英文科に行ったんですね。演劇とかじゃなくて。
 で、英文科に行ったものの、私は、普通の英文学とか、あと、お芝居でも自然主義とかに全く興味がないので、シェイクスピアを専攻したんですね。なので、演劇ではないけれども、まあ、演劇に限りなく近いと言えば近い道だったんですかね……。

――宝塚歌劇は頻繁に?

 九州だったので、そんなには頻繁には行けないんですけど。地方公演に行ったら、スターさん追っかけておんなじ電車に乗り、日帰りで宝塚大劇場に観に行って、出待ちをし、学校では文化祭で宝塚をやり(笑)。

――宝塚歌劇のことを話しだすと僕も長くなるので(笑)。で、大学に行かれて、シェイクスピアを……。

 シェイクスピアを専攻していたのですが、まあ、学校にはあまり行かず、サークルでミュージカルばっかりやってました。国産物から翻訳物まで、たくさん。
 あと、訳詞とかもそこでやって。楽しい落ちこぼれの毎日を送ってました(笑)。

――小嶋さんは演じてたんですか?

 はい、やってました。

――主役級ですか。

 いや、あの、そうですね。たまに(笑)。

――その後は。

 結局、大学院に行ったんです。私は就職したかったんですけど、母親に「あんたお茶汲み向いてないわよ」とか言われて。それで、あ、そうかなあ、と。もうちょっと演劇やるのもいいかなあ、と思って。ほんと、大学院はどうでもよかったというか、まあ、高校生の弟の面倒もみないといけなかったので、まあ、大学院にでも行きながら弟の面倒でもみるか、と。
 で、入学したんですけど、学校は半分ぐらいしか行かないで、ずっとミュージカルばっかりやってました。そこでも、また(笑)。

――それからニューヨークの大学に? コロンピア大学ですか?

 最初ですねえ、ニューヨーク市立大学 The City University of New York ってとこの大学院に 1年行ったんですけど。
 と言うのは、コロンビアの受験に間に合わなかったんですよ。大学院で修士論文書いてたんですが、コロンビアの受験は修士論文より締め切りが早かったんですね。で、全然間に合わなくって。で、どこでもいいやと思って、間に合ったニューヨーク市立大学の大学院のドラマタージ専攻ってのに行ったんですけど、入ってみたらあまりにつまらなかったんですね。そいで、こりゃいかんと思って、辞めて、次の年にコロンビア大学に入ったんですけど。

――それは、大学自体がつまらなかった?

 ジュリアーニ(当時の市長)の政策もあって、あまりお金もなかったんですね、大学院に。で、授業科目の数も少なくて、ドラマターグのクラスが全然オファされないし、やりたいことが出来ないなと思って。

――で、コロンビア大学に移られて。コロンビアでも、やっぱりドラマターグを? 留学される前からドラマターグのことはご存知だったんですか?

 いや、知らなかったんですけど。大学のカタログ読みながら、何の専攻に行こうかなと考えて。
 とにかく、まず、すごくアメリカが好きとか、すごく留学したいとかじゃなかったんですけど、また母親に(笑)「あんた、そんな中途半端な英語じゃ役に立たないんじゃない。どっか行ったら」とか言われて。私も、そうよね、ミュージカル観られるし、とかって(笑)。
 なんか適当にパラパラパラって見てたら、カタログに“ドラマタージー”っていうのがあって、それが、私が今まで演劇をやる時にやってた役目にすごい近いなと思ったんですね。例えば、作品を探してきたり、分析したり、翻訳したり。いわゆる、プロダクションの中のブレインっていう立場ですよね。言葉に関わる……。
 なんだ、これ、私がやってるのに近いじゃん、と思って。だったら、これが向いてんのかしら、と。
 

●ドラマターグの役割とコラボレーションの重要性

――ドラマタージーとドラマターグって?

 学問の専攻の名前自体は、ドラマタージー dramaturgy っていう学問なんですね。ただ、職業の名前はドラマターグ dramaturg って言うんですけど。
 たぶん、元はドイツ語のドラマツルグです。

――ドラマツルギー dramaturgie(戯曲創作の方法論。作劇法。あるいは、演劇論。演出法)のドラマツルグなんですね。で、具体的には、コロンビア大学では、どんなことを?

 コロンビアの演劇科の中には、役者と、演出家と、脚本家と、プロデューサーというかシアター・マネージャーと、ドラマターグのコースがあるんですけど、ドラマターグが一番割を食ってるっていうか……。
 ドラマターグってホントにいろんな仕事があって。まず、例えば、新作だったら、脚本家が書いてきたものにダメを出して書き直してもらうわけですよね。で、リハーサルに入ったら、(脚本に書かれた)二次元のものが、うまく三次元に表現されてるかっていうのを、「あれ? これって正しく伝わってないんじゃない?」ってチェックしたりとか。
 翻訳の場合は、例えば、チェーホフをやるとしますよね。そしたら、英語に翻訳されたチェーホフは、たくさんヴァージョンがあります。『三人姉妹』にしても、英語の翻訳って 20種類ぐらいとかあるわけですよね。それを全部かき集めてきて、このプロダクションの意図に一番合う翻訳はどれかって選んだり、合ってなければ自分で訳すなり、切って貼る(編集する)なり、とか。
 あと、必要なリサーチとかやったりするんですけど。学校で一番最初に習ったのは、ドラマタージーの基礎みたいな感じで、プロダクションに入る前に、どういう準備をして、それをどういう風にプレゼンテーションするかっていう。 1つのプロダクションをやる時に、こういう分厚いファイルを作るわけですよね。自分の分析ファイルとか必要な資料とか。その作り方を教えてくれるんですけど。
 そういう仕事なので、自分 1人では何も出来ないんですよね。あとは、もう、やってみるしかないわけですよね。

――つまり、他のスタッフの人たちと一緒に?

 そう。
 役者と演出家と脚本家とドラマターグたちのコラボレーションのクラスっていうのが、 1年生の 2学期目にあるんですね。それが、毎週、 6班に分かれる。っていうのは、専攻の中に、演出家が 6人、だいたい脚本家も 6人、ドラマターグが 6、 7人て感じでいるので、 1つの専攻から 1人ずつ加わった班になって、毎週 10分なりの作品を 6班に分かれて作るわけです。そこで、どうやって、お互いにコラボレートしていくかっていうのを学ぶんですよね。
 その次の学期は、もっと長い芝居になって、演出家とドラマターグが 1人ずつ、 2人組になって、古典……私たちのやったのはイプセンだったんですけど、それを組になってやる。そこで、また、リヴァイヴァルにおけるドラマターグと演出家のコラボレーションを学ぶっていうことなんですけど。
 また、同じ時期のクラスで、脚本家とは、ドラマターグと脚本家とのコラボレーションの仕方を学ぶっていうことで、彼らの書いた、ちゃんと長い 2時間ものとかの芝居を、お互いにコラボレーションして書き直していく。
 その他に、ドラマターグっていうのは、劇場の芸術監督の子分なわけですね。で、劇場で上演される作品を選ぶ時に、実際に芸術監督が全部の候補作品を読むわけはないじゃないですか。忙しいので。だから、例えば、アメリカの劇場だったら、芸術監督がいて、そのそばにドラマターグたちがいるわけですよね。それで、送られてきた 1500本なりの脚本を、ドラマターグたちが昼となく夜となく読んで、芸術監督に、これとこれはどうですか、って推薦するんですけど。
 そういうことが仕事としては多いので、例えば、マネージャー(プロデューサー)と私たちが組になって 1つのシーズンを製作する勉強をするクラスだったりとか、そういうのはあるんですけど、自分たちだけのクラスはあんまりないんですよね。ほとんどが、誰とこうやって働くかっていうので……。だから、あんまりクラスで学んだっていうよりは、もう、その後でインターンに出たりとかしてた方が勉強になりましたね。
 でも、先生たちは現場の実践的な人たちなので、そういう先生たちに会えたのは、やっぱり、なかなかない機会なので、それは面白かったんですけど。

――日本の大学の演劇科っていうところが、どういう教え方をしてるのか知らないんですけど、今うかがうと、少なくともアメリカの演劇は、コラボレーションで作るんだっていうのが、ハナから、もう……。

 それは、絶対基本ですね。私、シアター・ガイドに記事書いてるんで、ジョン・ワイドマン John Weidman(脚本家)に、この前インタビューしたんですけど、彼は、ホントにはっきり、「コラボレーションが出来ないとか興味がない人はミュージカルは作るべきではない」と。やっぱり、コラボレーションしてなんぼっていうか……。

――授業としてやった以外で、勉強も含めて、外に出られて、実際に公演する舞台には何本ぐらい関わられたんですか。

 いくつかなあ。もう覚えてないぐらい……。思いっきりたくさん(笑)。
 ま、一番有名なのは、『ザナ・ドント ZANNA, DON'T』『太平洋序曲』と。あと、アメリカで有名なのは、バジル・トゥイスト Basil Twist っていう、“人形使い”っていうと語弊があるんですけど、パペットを使わない人形劇っていう不思議なことをやってる人がいるんですけど。この前、オフ・ブロードウェイで『シンフォニー・ファンタスティーク SYMPHONIE FANTASTIQUE』っていうのをやってた。彼の新作を昨年 11月にドラマターグしたんです(この作品はベッシー賞を受賞)。あと、シヴィリアンズ The Civilians っていう、オービィ賞を獲ったグループの作品を 2本やったりとか。でも、あんまり日本では。言っても、「ハァ?」って(笑)。

――基本的には、アメリカの観客を相手にしたプロダクションで。

 はい。『太平洋序曲』までは、日本人と仕事をしたこともなかったので。
 

●『太平洋序曲』アメリカ公演の裏側

――リンカーン・センター公演の時は?

 通訳やってたんです。舞台裏で。
 日本語版の『太平洋序曲』が来るっていうんで、リンカーン・センターにメール出して、「私、日本人で演劇やってるんですけど、何か役に立つんじゃないですか?」って売り込んだんです(笑)。
 通訳は NYU(ニューヨーク大学)のデザイン学科から雇うって決めてたみたいなんですよね。ところが、ラッキーなことに 1人足りなかったんですね。それで、面接に行ったら、私を面接した人が、私が脚本を読んでたニューヨーク・シアター・ワークショップの芸術監督を知ってて、「なんだ、あそこでやってるんだ、だったら雇ってあげるよ」みたいなことになって。すごいラッキー。超よくある展開なんですけど(笑)。
 それで、最後に 1つ余ってたポジションに雇ってもらって。音響と小道具の通訳をやってたんです。日本人とアメリカ人の間で。

――リンカーン・センター公演の印象はどんなだったですか?

 新国立での公演は観ていないし、(1976年の)オリジナル(公演)は後からヴィデオで観たんですね。だから、その時は比べるものはなかったんです。しかも、私は、リンカーン・センターでは公演中も舞台裏で通訳していたので、 DCに行くまで正面から観たことがなかったんですけど……。

――DCの劇場は、どんな?

 本当に普通の劇場なんですよ。だから、花道は作ったんですけど、リンカーン・センターの長さの 3分の 2ぐらいですかね。
 リンカーン・センターの空間って、マジカルだったと思いません? 馬蹄形みたいに四角くなってて、(天井に)旗が出てきて、(1階客席中央に)あれだけ長い花道があって、あれってホントに、あれ以上の空間はないんだなって、 DCの劇場で観て、ちょっと思いました。

――新国立も 2階席のない劇場なので、そういうとこじゃないと、ちょっと。そういう意味じゃ、ブロードウェイの公演は、つらい……。

 (ブロードウェイ公演の)スタジオ54は使いにくかったですね。(松井)るみさんが、あの劇場を生かそうと、セットプランの変更をプロデューサーのラウンダバウト劇場に提案したんですが、経済的な理由で実現出来なくて。

――ところで、せっかく演出家が、たぶん偶然だけど、二重三重の文化的な屈折の中に投げ入れられて過ごしてきたっていうことを、宮本さんだけのことにしておくのが、ものすごくもったいない気がしてしょうがないんです。

 それで、この前の、世田谷パブリックシアターの報告会は、亜門さん的には、業界の人が来てくれて一緒に考えようよ、って言うか、これからブロードウェイに行く人たちのために情報交換しよう、って考えたら、業界の人はほとんど来なかったっていう(笑)。

――宮本亜門ファンだけが集まった(笑)。むしろ、僕は、観客の方が、例えば海外で観ている人とか、小嶋さんみたいに海外で仕事なすった方とかが外堀を埋めていかないと、日本のミュージカルは変わらないんじゃないかな、っていう気が、ずーっとしていて……。

 外堀っていうのは?

――舞台が観客と製作者のある種のコラボレーションなら、っていう意味で、観客の反応が舞台を変えると言うか。そのためにライヴでやってるわけですから。実際に向こうで舞台に携わっていて、そういうことを感じたことって何かあります?

 あの、でも、けっこうアメリカでも悲しい事実はあって。ブロードウェイの、今の観客の中で、観光客とニューヨーカーの比率っていうのは、ニューヨーカーが 4割しかいないんですよね、今は。なので、もう、オン・ブロードウェイに限っては、あんまり、お客さんは、日本人と変わらない、と。
 まあ、そこまで言うと語弊があるかもしれないですけど、でも、『マ(ン)マ・ミーア! MAMMA MIA!』なり、『ヘアスプレイ HAIRSPRAY』なり、ああいうものしか(観客が)入らないわけですよね。ソンドハイムなんて、トニー賞を獲った『アサシンズ ASSASSINS』でさえ、あれだけしか続かなかったので(04年 3月末にプレヴュー開始。元々期間限定公演だったが、 6月 6日のトニー賞ミュージカル作品賞受賞後、同年 9月中旬までの上演延長を発表。しかし、結局は 7月 18日に終了した)。
 しかも、ニューヨーカーの中でも、例えば、 MTC(マンハッタン・シアター・クラブ)やリンカーン・センターのサブスクライバー(会員)の人たちってのは、平均年齢がすごい高いわけですよ。
 なので、ものすごくアメリカの観客がいいかっていうと、そうではないんだけれども、やっぱり、子供の時から観てる人の割合は(日本に比べれば)アメリカの方が多いし。あとはやっぱり、なんだかんだ言って、ただ単にコピーじゃないものに触れる機会は多いので、作品を正しく評価する力っていうのは、ある程度、アメリカの方があるんですかね。
 でも、何が一番違うかっていうと、批評が出るわけですよね、プロの。で、その数が、ものすごく多いわけですよ。一番権威があるのはもちろんニューヨーク・タイムズですけど、ニューヨークでは、だいたい 5〜 6人の批評家は、まあ信頼に足ると思われていて、で、その他にも、全部で合わせて 20種ぐらい出るんじゃないんですかね、雑誌とかも合わせて。
 で、それはまあ、一応読むわけですよね。興味があって読むのか、どのチケットを買ったらいいかって読むのかは別として。なので、何がよくて、何が……ま、正しいかどうかは別として、何がいいとされているか何が悪いとされているかっていうのは、知らず知らずの内に、その基準というのは頭に入ってくるわけですよね。なので、あ、これはいいパフォーマンスなんだ、これはよくないんだ、ってのは、確かに基準はニューヨーカーはわかってる。それが、一番大きい違いじゃないかなと思うんですけど。
 

●オフ・ブロードウェイが消える!?

――アメリカでやった中で最も充実した仕事だと思うのはなんですか。

 やっぱり、ドラマターグとして充実してたのは、『ザナ・ドント』ですかね。あれ、 8か月もやってたんです。ずーっと。かなりの時間を費やしたので。

――あの作品も、もっと続いてもよさそうな感じだった……。客足は、やっぱ、落ちてたんですか?

 やっぱり、まず、オフ・ブロードウェイってのは、採算がなかなか取れないっていうところがあって。今すごい言われてるんです。オフ・ブロードウェイが消えるって。
 オフ・ブロードウェイって(最大席数が)499しかないじゃないですか。だから、どうしてもミュージカルって、オフ・ブロードウェイで採算が取れないんですよね。 1人、 2人の出演者で、伴奏がピアノだけとかだったら取れますけど。

――やっぱり、ユニオンの縛りが……(注/アメリカでは細かい職種別に労働者の組合があり、それぞれに権利を主張している。劇場関係でも、俳優の他、演奏家、いわゆる裏方等に分かれて組合があり、長い年月をかけて多くの権利を勝ち取っているが、それが、かえって、公演の実現や維持を困難にしている面があることが各方面で語られている)。

 ユニオン(の問題)もあると思います。必ず、ユニオンの人を使わなくっちゃいけないって……。ちょっとよく覚えてないんですけど。例えば、パブリック・シアターとかって、裏方はユニオンじゃないんですね。だけど、役者はユニオンじゃなくちゃいけないし、ステージ・マネージャーはユニオンじゃなくちゃいけないし、アンダースタディの数もユニオンで決まってるし、とか、いろいろあるので、なかなか採算が取れないですよね。
 だって、例えば、『ザナ・ドント』をやってた劇場って(席数が) 299しかなくって、それで、あのバンドの数とあの出演者の数とアンダースタディと裏方って考えると、やっぱり、ちょっとなかなか。よっぽどフルプライスでガンガン入らないと採算取れないですよね(注/ニューヨークでは売れ残ったチケットが公演当日に半額で売られたり、事前にディスカウントで売られたりするので、観客の誰もが当初の定価で買っているとは限らない)。だから、ちょっと客足が落ちると閉まっちゃう。

――オフの劇場経営自体はどうなんですか?

 オフはもう採算が取れないので、『ザナ・ドント』をやってた劇場、売られちゃったばっかりなんです。最後の公演が 5月かな、それでもう、売られちゃって。

――劇場じゃなくなる?

 何か違うものになるんですよ。維持出来なくて。で、その隣にも同じような劇場を持ってたんですけど、『フォービドゥン・ブロードウェイ FORBIDDEN BROADWAY』とかやってたダグラス・フェアバンクス劇場、あれも同時に売られちゃったんです(『フォービドゥン・ブロードウェイ』自体は劇場を移って上演中)。
 オフって、どうしても、今、採算取れない。だから、たぶん、なんとかやっていけるとしたら、例えば、リトル・シューバート(注/ブロードウェイの大資本シューバート・オーガナイゼーションの経営するオフの劇場)とかありますけど、オンに(劇場を)持ってるプロデューサーが、何かの理由で(席数) 499以下のものを作ってますよね。それならやっていけると思うんですけど、オフだけを持ってやっていくのは、すごい大変なんですね。オフは消えていくっていう。冗談でなく、どんどんダメになっていってますよね。
 だから、オフでサヴァイヴァルする方法は、もうノンプロフィット(注/会員制により運営される非営利公演組織。リンカーン・センターやラウンダバウト劇場がその代表)しかないんですよね。

――小嶋さんは日本に帰ってくるんですか?

 そうなんですよ。気づいたら、ちょっと(アメリカに)長居をしすぎたので。今年の夏に日本に帰ってくるんです。
 なんか、元から、私、アメリカに一生住むということは想像出来なくて。ミュージカルは大好きなんですけど。
 それと、私は将来、芸術監督になりたいんで。だったら、どこかに根を下ろして働かないとダメじゃないですか。だったら早く帰ってきた方がいいなあ、と。

 ニューヨーク演劇界で何年間か仕事をされてきたにもかかわらず、小嶋さんの視線は、けっして無条件な欧米礼賛ではない。それは、演劇界の“周辺”にいたのではなく、舞台を作り上げる最前線(と僕が言ったら、小嶋さんは「最前線かどうかわかりませんが」と笑っていたが)の“現場”で現実的に対処すべき問題と向き合っていたからではないだろうか。
 その後、小嶋さんは、インタヴューの最後の言葉通り、帰国して、演劇関係のお仕事に就かれた。今度は、ドラマターグではなく、プロデューサーだという。観客としては、彼女が日本でも“現場”の困難を乗り越え、ワクワクする舞台を作ってくださることを期待したい。
 そして、次回は、ぜひ、手がけられるミュージカル作品のお話で、このインタヴューにご登場ください。

(12/04/2005)

Copyright ©2005 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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