ミュージカル批評の心得(3)

〜新書「劇団四季と浅利慶太」批判 1〜

 まず初めに。この文章は、松崎哲久著「劇団四季と浅利慶太」(文春新書)批判であって、劇団四季批判ではない。
 って、別に、劇団四季や四季ファンの人たちの目を気にして断っているわけじゃない。そこのところ(本の批判と劇団の批判)を混同して受け取られると、「劇団四季と浅利慶太」批判の意味がボヤけてしまうからだ。
 「劇団四季と浅利慶太」批判の核心は、舞台評なき劇団評価、というところにある。
 僕がこのウェブサイトで徹底してやってきたのは、自分の目で観た舞台(や映画)の出来について語ること。なぜなら、それを抜きにして演劇(や映画)についてウンヌンしても意味がないと考えるからだ。ところが、この本は、興行組織としての劇団四季については語っているが、劇団四季の舞台の出来については(それ以外のどんな舞台の出来についても)全く語っていない。多くの観客を動員し、確実に利益を上げることの出来る興行組織として劇団四季を賞賛するのはいい。しかし、そこに舞台の評価が伴わなければ、劇団四季“論”とは言えないのではないか(著者は自ら [本書は、本邦初の「劇団四季論」] と書いている)。全ての劇団論は、舞台の出来から帰納的に語られなければ、少なくとも僕ら観客にとっては、まるで意味がない。そして、それは、“経営者”浅利慶太はともかく、“演出家”浅利慶太や四季の役者たちにとっても同様ではないかと思ったりもするのだが、どうだろう。
 つまり、ここで僕が展開しようとしている批判の対象は、「劇団四季と浅利慶太」という本の“演劇に対する考え方”であって、劇団四季の“演劇に対する考え方”ではない(仮に、ここで劇団四季の“演劇に対する考え方”を批判しようと思ったとしても、具体的な舞台評が書かれていないこの本を通じてでは批判のしようがない、というのが現実だ)。
 井上一馬著「ブロードウェイ・ミュージカル」(文春新書)や重政隆文著「ザッツブロードウェイミュージカル」(松本工房)のように明らかな事実誤認があったりするわけではないのだが、舞台の評価をせず、興行の“経済的”成功のみをもってよしとしている「劇団四季と浅利慶太」の姿勢は、もっと根本的なところで誤っているとも言える。
 この本を、ここで批判するゆえんだ。
 

* * * * * * * * * *

舞台評なき劇団評価の詭弁

 「まえがき」というのは本の内容の向かうところを読者にあらかじめ示しておくために書かれる部分だが、この本の「まえがき」(「オーバーチュア」と題され、ごていねいに「overture=序曲」という説明が付けてある)で著者がやっているのは、詭弁を弄して、自分が舞台の出来について書いていないことをごまかすことだ。その証明から始める。
 回りくどい説明になるが、この本の本質にかかわる事柄なので、おつきあいください。

 問題となるのは、「オーバーチュア」(=「まえがき」)の 2ページ目に出てくる次の一節。

 [私は本書で、高踏的、観念的な演劇論を展開するつもりは全くない。それどころか、劇団四季の成功の鍵は、その主宰者である浅利慶太の極めて実際的かつ周到なアプローチに――すなわち親友だった江藤淳が「浅利慶太は楽しませ手であって、演劇の極北を目指す人ではない」と評したごとく、高踏的な姿勢をとらなかったところにあったという結論を導く積もりである。にもかかわらず本書をジュヴェの言葉で始めるのは、この引用をした当時の浅利の透徹した眼と気分こそ、四季の今日の隆盛をあらしめている原点だと思うからである。] <引用 1>

 よーく読んでみてほしい。どこか変な感じがしないだろうか。
 「。」で区切られた 3つのセンテンスが一見分かちがたく結びついているような印象を受けるが、実は、それが怪しいのだ。
 以下、その 3つのセンテンスを、順に <A> <B> <C> として話を進める。
 

●疑問 1

 まず、センテンス <A> とセンテンス <B> だが、この 2つは、 [それどころか] という強調の接続語でつなげられている。ということは、内容的に <A> ≦ <B> という関係になるはずだが、実際には無関係。
 [高踏的、観念的な演劇論を展開するつもりは全くない] ということと、 [劇団四季の成功の鍵は、その主宰者である浅利慶太][高踏的な姿勢をとらなかったところにあったという結論を導く] ということは、全く関係がない。なぜなら、 [高踏的、観念的な演劇論を展開] しながら [劇団四季の成功の鍵は、その主宰者である浅利慶太(が)高踏的な姿勢をとらなかったところにあったという結論を導く] ことも可能だからだ。
 当然と言えば当然のこと。センテンス <A> とセンテンス <B> とは [高踏的] という語こそ共通に使われているものの、 <A> の [高踏的] は著者の執筆姿勢を指し、 <B> の [高踏的] は浅利慶太の姿勢を指しているのだから、関係があるはずがないのだ。
 では、なぜ著者は、内容的に関係のない 2つのセンテンス <A> と <B> を [それどころか] という強調の接続語でつなげたのだろう。これが「疑問 1」
 

●疑問 2

 3つ目のセンテンス <C> と、センテンス <A>、センテンス <B> との関係はどうか。。
 センテンス <C> に出てくるジュヴェとは、フランスの演出家・俳優ルイ・ジュヴェという人のことらしい。浅利慶太がかつて引用したジュヴェの発言を、著者は「オーバーチュア」の冒頭近くに孫引きしていて、その孫引きの理由について述べているのがセンテンス <C>。
 そのセンテンス <C> の始まりは、 [にもかかわらず] という接続語。ということは、それ以前のセンテンスを逆説で受けているということだ。でもって、それ以前の 2センテンスが [それどころか] という強調の接続語でつなげられているわけだから、文法上は、センテンス <C> は、センテンス <A> とセンテンス <B> 両方で言っている同じ内容についての逆説ということになる。強引に数式にすると、(<A> ≦ <B>)≠<C>、か。
 しかし、実際には「疑問 1」の項で述べたように、センテンス <A> とセンテンス <B> とは、 [それどころか] でつながっているにもかかわらず、内容的に関係がない。
 と言うことは、内容的には、センテンス <C> は、センテンス <A> とセンテンス <B>、どちらか一方の逆説になっているはずだが、それはどちらなのだろう。
 センテンス <A> [高踏的、観念的な演劇論を展開するつもりは全くない。] の逆説だとすれば、 [高踏的、観念的な演劇論を展開するつもりは全くない] [にもかかわらず] [高踏的][ジュヴェの言葉で始めるのは] ――と続くことになる。
 一方、センテンス <B> [劇団四季の成功の鍵は、その主宰者である浅利慶太の極めて実際的かつ周到なアプローチに――すなわち(中略)高踏的な姿勢をとらなかったところにあったという結論を導く積もりである。] の逆説だとすると、 [高踏的な姿勢をとらなかった] 浅利慶太を高く評価しようとしている [にもかかわらず][高踏的][ジュヴェの言葉で始めるのは] ――と続く。
 <A>、<B>、どちらの逆説だと考えても、とりあえず筋は通ることになる。
 なぜ、センテンス <C> は、内容的に関係のない 2つのセンテンス <A> と <B>、その両方の逆説でありうるのだろう。これが「疑問 2」
 

●「疑問 1」の謎解き

 キーワードは、[高踏的] という語。
 [高踏的] という語が登場するのは、 14ページに及ぶ「オーバーチュア」の中で 2か所だけ。 <引用 1> のセンテンス <A> とセンテンス <B> に 1回ずつしか登場しない。
 まず、センテンス <A> を再度引用してみよう。

 [高踏的、観念的な演劇論を展開するつもりは全くない。]

 [演劇論] を修飾するにあたって、なぜ [高踏的、観念的な] と言葉を重ねたのだろう。 [観念的な演劇論を展開するつもりは全くない。] ではいけなかったのか。
 一般的に考えれば、もちろん、いけない。なぜなら、あらゆる論理は [観念的] であり、 [観念的] でない [演劇論] など存在しないからだ。つまり、 [観念的な演劇論を展開するつもりは全くない。] というのは、 [演劇論を展開するつもりは全くない。] と宣言するのに等しい。
 ここは、正確に表現するなら、「高踏的、観念“論”的な演劇論を展開するつもりは全くない。」だろう。あるいは、ただ、「観念“論”的な演劇論を展開するつもりは全くない。」でもいい。 5ページ後ろで「観念論」という語を使っているから、(その使い方が正しいかどうかは別にして)著者はその語を知らなかったわけではない。
 にもかかわらず、あえて [観念的] と言っている。 <引用 1> に続く、すぐ次の段落でも、センテンス <A> の [観念的] を受ける雰囲気で「観念的」という語を使っているから単なる間違いだとは思えないが、もしかしたら無意識の内に言い間違えて真情を吐露してしまったのかもしれない。
 まあいい。どういう理由からかはわからないが、著者がここで、 [観念的な演劇論を展開するつもりは全くない。] と書いて事実上の“演劇論棚上げ宣言”を行なっているのは間違いないし、その宣言通り、この本の中でいかなる演劇論も展開していないという事実も動かない。
 そうした、字面通りに受け取れば“演劇論棚上げ宣言”であるセンテンスに、わざわざ [高踏的] という語を重ねたのはなぜか。
 それは、 [高踏的] という語を付け加えることで、なにか [観念的] ではない [演劇論] なるものは展開しているかのごとき錯覚を読者に与えようとしている、ということではないのか。

 センテンス <B> に登場する [高踏的] はどうだろう。

 [それどころか、劇団四季の成功の鍵は、その主宰者である浅利慶太の極めて実際的かつ周到なアプローチに――すなわち親友だった江藤淳が「浅利慶太は楽しませ手であって、演劇の極北を目指す人ではない」と評したごとく、高踏的な姿勢をとらなかったところにあったという結論を導く積もりである。]

 これ、よく考えれば、 [高踏的] という語を使わない次のような表現で何ら問題がないのではないか。

 [それどころか、劇団四季の成功の鍵は、] [親友だった江藤淳が「浅利慶太は楽しませ手であって、演劇の極北を目指す人ではない」と評した] [主宰者である浅利慶太の極めて実際的かつ周到なアプローチに] [あったという結論を導く積もりである。]

 それに、こちらの方が、意味を理解しやすく読みやすい。それを、 [――] まで使って、あえて読みづらい構造にしたのはなぜか。後から付け足したように見える [高踏的] という語を、ここでどうしても使いたかったからではないだろうか。
 では、なぜ、 [高踏的] という語を使いたかったのか。
 前述のように、センテンス <A> では、 [観念的] ではない [演劇論] は展開しているような錯覚を読者に与えようとして、“わざわざ” [高踏的] という語を使っているように見えた。そのセンテンス <A> における [高踏的] の“わざわざ”感を払拭するための布石、というのが、センテンス <B> で [高踏的] という語を使った理由だろう。
 つまり、まず、センテンス <B> で必要もないのにセンテンス <A> 同様 [高踏的] という語を使い、その上で、元々関係のない <A> と <B> を強調の接続語 [それどころか] でつなげて、両者の [高踏的] という語が、その 2つのセンテンスが関係するために必要な語であるかのように見せ、センテンス <A> で“わざわざ”使ったことを隠そうとした。
 これが、「疑問 1」の答。
 

●「疑問 2」の謎解き

 となると、それらに続く [ジュヴェの言葉] うんぬんというセンテンス <C> は、結局は、センテンス <A> とセンテンス <B> で“わざわざ”使った 2つの [高踏的] という語をさらに自然に見せようとして書かれただけのことではないのか。
 と言うのは、「疑問 2」のところで、センテンス <C> はセンテンス <A> とセンテンス <B> のどちらの逆説なのかを検討したけれども、その際ポイントになったのも [高踏的] という語だからだ。センテンス <A>、センテンス <B>、それぞれを受けた場合に考えられる論理展開を、 [高踏的] という語に着目しながら再度載せてみる。

 [高踏的、観念的な演劇論を展開するつもりは全くない] [にもかかわらず] [高踏的][ジュヴェの言葉で始めるのは] ――(<A> を受けた場合)

 [高踏的な姿勢をとらなかった] 浅利慶太を高く評価しようとしている [にもかかわらず][高踏的][ジュヴェの言葉で始めるのは] ――(<B> を受けた場合)

 注目していただきたいのは青字[高踏的]。黒字の [高踏的] は本文からの引用だが、青字の方は、 [にもかかわらず] でのつながりを考える際に僕が補ったもので、実際には、著者は、 [ジュヴェの言葉] について [高踏的] という表現はしていない。
 しかし、ここで、 [高踏的] という語を補わなかったとしたら、センテンス <A>、センテンス <B>、どちらについても、センテンス <C> がなぜ [にもかかわらず] という接続語でつながるのかがわからなくなる。そして実際、 [それどころか] でつながれたセンテンス <A> とセンテンス <B> が内容的に関係がないように、センテンス <A> とセンテンス <C>、センテンス <B> とセンテンス <C> も、わざわざ [にもかかわらず] でつながなければならないほど関係があるわけではないのだ。
 余計な接続語を省き、 [高踏的] を補わずに、 <A> とセンテンス <C>、センテンス <B> とセンテンス <C> を並べてみる。

 [私は本書で、高踏的、観念的な演劇論を展開するつもりは全くない。]
 [本書をジュヴェの言葉で始めるのは、この引用をした当時の浅利の透徹した眼と気分こそ、四季の今日の隆盛をあらしめている原点だと思うからである。]

 [劇団四季の成功の鍵は、その主宰者である浅利慶太の極めて実際的かつ周到なアプローチに――すなわち親友だった江藤淳が「浅利慶太は楽しませ手であって、演劇の極北を目指す人ではない」と評したごとく、高踏的な姿勢をとらなかったところにあったという結論を導く積もりである。]
 [本書をジュヴェの言葉で始めるのは、この引用をした当時の浅利の透徹した眼と気分こそ、四季の今日の隆盛をあらしめている原点だと思うからである。]

 どうだろう。センテンス <A> とセンテンス <C> とは全く関係がないし、センテンス <B> とセンテンス <C> に到っては、むしろ、「そして」という順接的な接続語でつなぎたくなるぐらいではないか。
 これは、どういうことなのか。
 著者は、自らは“[ジュヴェの言葉][高踏的]”とは言わないまま、“[ジュヴェの言葉][高踏的]”という印象を作りたかったのではないか。実際、 [高踏的] という語を含むセンテンス <A> とセンテンス <B> を、センテンス <C> が [にもかかわらず] で受けることで、その目論見は成功している。
 そして、さらに、そうやって作り上げた“[ジュヴェの言葉][高踏的]”という印象を使って、逆に、センテンス <A> とセンテンス <B> の [高踏的] という語の存在の“わざわざ”感を払拭しようとしてはいないか。

 先に考察した、 [それどころか] で結ばれているセンテンス <A> とセンテンス <B> の関係も含めて、ここまでの著者の論理の運び方を、読者にこう思わせたいのだろうという視点から整理すると次のようになる。

 1). [高踏的] という語を共通項にして [それどころか] という強調の接続語でつなげられているセンテンス <A> とセンテンス <B> とは、内容的に強く結びついているはず。
 2). そのセンテンス <A> とセンテンス <B> を、[にもかかわらず] という接続語で受けているんだから、当然センテンス <C> は、センテンス <A> とセンテンス <B> の共通項である [高踏的] という語に関しての逆説となるはず。
 3). だとすれば、センテンス <A> とセンテンス <B> の内容が [高踏的] という語について“否定”のニュアンスなのだから、センテンス <C> ではそれが肯定的なわけで、となると、“[ジュヴェの言葉][高踏的]”ということになる。
 4). ということは、当然、逆もまた真なりで、センテンス <A> で使われている [高踏的] という語とセンテンス <B> で使われている [高踏的] という語は、どちらも、逆説であるセンテンス <C> の“[ジュヴェの言葉][高踏的]”に対応する存在ということになる。
 5). ということは、やはりセンテンス <A> とセンテンス <B> とは [高踏的] という語を共通項にして……(再び 1). へ)

 作為的な接続語使用による錯覚の堂々巡り。ご理解いただけただろうか。
 この堂々巡りに巻き込まれると、読者は、 [高踏的] という語の存在をなんとなく納得してしまうに違いない。

 というわけで、「疑問 2」の答は次の通り。
 センテンス <C> は、内容的に関係のない 2つのセンテンス <A> と <B>、その両方の逆説でありえたわけではなく、まるで両方の逆説であると錯覚するように書かれていたのだ。
 

●著者の意図は?

 さて、ここで、 [ジュヴェの言葉] というやつを引いてみよう。

 [演劇の問題及び法則は次の如きものである。他のあらゆる考察に先立って、演劇は先ず一つの事業、繁昌する一つの商業的な企業であらねばならぬ。しかるのちに初めて演劇は芸術の領域に自己の地位を確保することを許容される。当りのない劇芸術はない。観客が耳を傾け、生命を与えないかぎり、価値ある脚本は存在し得ないのだ。(芸術性と商業性、現実的なものと精神的なものという)二つの目標を同時に結びつけなければならぬ怖るべきニ者選一、それは演劇の地位をあらゆる追従とあらゆる妥協、時としては流行との妥協の面の上に置くのである。]

 言い回しこそ硬いけれども、 [高踏的] というほどの内容ではない。砕けた言い方をすれば、「芝居は当たってなんぼ」ということ。[ジュヴェの言葉] はけっして [高踏的] などではないのだ。
 そして、もちろん、著者にはそのことがわかっていた。だからこそ、自ら“[ジュヴェの言葉][高踏的]”と言うことなく、“[ジュヴェの言葉][高踏的]”という印象を読者に抱かせようとした。
 ここまで来れば、著者の意図は明らかだ。
 説明しよう。

 著者が「オーバーチュア」でぜひとも書いておきたかったのが、[私は本書で、高踏的、観念的な演劇論を展開するつもりは全くない。]というセンテンス <A> だった。
 というのは、「疑問 1の謎解き」のところで解き明かしたように、これは“演劇論棚上げ宣言”であり、事実その通りに本の内容は進むのだが、そこに用心深く [高踏的] という語を紛れ込ませることによって、逆になんらかの [演劇論] を展開しているかのような錯覚を読者に与えることが出来るからだ。舞台評なき劇団評価を確信犯的に進めようとする著者にとっては、その読者の錯覚が、どうしても必要だった。
 しかし、センテンス <A> を単独で書くと、 [高踏的、観念的な演劇論] について説明しなければならなくなる。その説明をするということは、自分がどんな演劇論を展開して、どんな演劇論を展開しないかを具体的に言わなければならないということで、それでは、いかなる演劇論も展開するつもりのない自分としては、自ら墓穴を掘ることになる。
 そこで著者は、冒頭近くで引用した [ジュヴェの言葉] をきっかけに使って、強引に、 [高踏的] という語がキーになった堂々巡りの文章 <引用 1> を作り上げて、なにはともあれ、センテンス <A> を、違和感なく「オーバーチュア」に紛れ込ませた。そういうことだろう。

 簡単にツッコまれるようなウソを書くことなく、自分の言いたいことだけを証明抜きで都合よく書いていく。それが、この著者のやり方だ。人はそれを“詭弁”と言う。
 

* * * * * * * * * *

 結論だけでもよさそうなところを長々と書いたが、むしろ、こうやって細かく解き明かしていかないと本質が見えてこない曖昧な言い回しの中に、この著者の本質があるので、あえて“くどく”説明しました。ご精読感謝。
 とりあえず、今回はここまで。続く。

(12/24/2002)

Copyright ©2002 MIZUGUCHI‘Misoppa’Masahiro

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