ミュージカル批評の心得(2)

〜「ザッツブロードウェイミュージカル」徹底批判 2〜

 前回は、重政隆文著「ザッツブロードウェイミュージカル」(松本工房)の執筆目的の曖昧さを、前書きと第 1章から明らかに した。
 この曖昧さは困ったことに最後まで一貫していて、読者は疲れに疲れることになるのだが、今回は、もう 1つの大問題――著者がブロードウェイの劇場において異邦人(異文化人)であるという認識(逆に言うと、ブロードウェイ・ミュージカルがアメリカ固有の文化であるという認識)が希薄であり、かつ、著者はアメリカ文化に対する理解や知識が足りなすぎる――を具体的に明らかにする。

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曖昧な文化認識(ドコノ国ノ人?)

 前書きと第 1章で著者は、動機も目的もよくわからないが、 [絶讃調のブロードウェイ像に対する一つの異議申し立て] として [ブロードウェイの演劇が「盛ん」だとはけっして思えない] ことを明らかにする、と宣言した。続く第 2章がいきなり「ミュージカルに向かない題材」という、およそ心ときめかないタイトルなのは、そのせいだ。
 「ミュージカルに向かない題材」があると考えること自体が、この著者の想像力の貧しさを表していると思うのだが、それについてはまた別の機会にツッコムことにして、とりあえずここでは、先に挙げた著者の“文化認識の曖昧さ”を如実に示す事例を抜き出して論証する。

 この章で、著者は以下の作品を挙げて、これらがいかにミュージカルに向かない題材を扱っているかを説く。

 『予告された殺人の記録 CHRONICLE OF A DEATH FORETOLD』
 『タイタニック TITANIC』
 『グッバイ・ガール THE GOODBYE GIRL』
 『ハイ・ソサエティ HIGH SOCIETY』
 『蜘蛛女のキス KISS OF THE SPIDER WOMAN』
 『ウィル・ロジャース・フォリーズ THE WILL ROGERS FOLLIES』
 『ダイナ・ワズ DINAH WAS』
 『オールウェイズ…パッツィ・クライン ALWAYS...PATSY CLINE』

 この 8本、僕も全て観ているが、明らかに失敗作(興行的にもそうだが、むしろ質的に)だったのは、『グッバイ・ガール』『ハイ・ソサエティ』。それに構成のマズさを感じた『ダイナ・ワズ』を加えてもいい。けれども、失敗の原因が「ミュージカルに向かない題材」を扱ったことにあるとは思わないし、その他の作品は失敗作ですらない(別のところにも書いたが、 [結局、短命に終わった] と著者の言う『予告された殺人の記録』は、実は限定公演だった)――っていう風に話を持っていくと、見解の相違とかってことにもなりかねないので(実はそれ以前に、著者の記述は論理の一貫性もなく、全く説得力がないのだが)、ここでは後半の 3本についての批判をクロースアップ。その文化認識の傍若無人ぶりに驚いていただきたい。
 冒頭で触れた、著者の、ブロードウェイの劇場において異邦人(異文化人)であるという認識(=ブロードウェイ・ミュージカルがアメリカ固有の文化であるという認識)が希薄であることと、アメリカ文化に対する理解や知識が足りなすぎることの両方が見事に表れているのが、この箇所だ。

 著者は『ウィル・ロジャース・フォリーズ』『ダイナ・ワズ』『オールウェイズ…パッツィ・クライン』を [伝記物] というジャンルの作品として採り上げて、 [ミュージカルに特に向いている題材だとは思わない] と言う。
 その理由として、まず『ウィル・ロジャース・フォリーズ』についてこう書く。
 [少しずるいと思うのは、伝記の本人である人が有名な人であり、観客にどういう人であったかという予備知識があるために、構成で楽をしている点だ。日本人の私はこのミュージカルを見るまでウィル・ロジャースなど知らなかった。そういう観客にとって、すごく不利な出し物になってしまうのである。]
 そして、『ダイナ・ワズ』のダイナ・ワシントン Dinah Washington [は私のあまりよく知らない歌手であり] 、『オールウェイズ…パッツィ・クライン』のパッツィ・クライン Patsy Cline [はウィル・ロジャースと同じように、名前さえ知らなかった。しかし、おそらくアメリカ人なら誰でも知っている人物なのだろう。(中略)しかし、もし知らない人がいたとしたら、そのミュージカルの楽しみは半減する。本当は半減させてはいけない。その舞台を見るだけで、世界が形成され完結していなければならない。その意味からいっても伝記はミュージカルに向いていない題材だと思うのである。] と批判する。

 奇しくも『ダイナ・ワズ』観劇記で僕が書いたように、サブ・タイトルに“A Life in Revue”とある『ウィル・ロジャース・フォリーズ』は、ウィル・ロジャース Will Rogers という“ジーグフェルド・フォリーズのスターの人生をジーグフェルド・フォリーズのスタイルで見せるという、メタ・ミュージカルとでも言うべき複雑な仕掛けのある構成を持った”作品であり、どこをどう切っても [構成で楽をしている] などとは言えないのだが、その雑な鑑賞眼は置いといたとしても、著者がここで展開している論理は、内容も話の持っていき方もスゴすぎる。

 まず、アメリカ文化に対する理解や知識が足りなすぎることから行こう。
 [日本人の私は] ――という表現で、著者は、日本人なのだからウィル・ロジャースなど知らなくて当然だと暗に主張しているが、少なくとも、 [大阪芸術大学芸術学部文芸学科助教授 専攻は映画・演劇] と自ら(あるいは編集者が?)記すような人ならば、むしろ知っているのが普通だろう。
 この本の中でも、ことあるごとに(そこで言わなくてもいいような)映画の知識をひけらかす著者であってみれば、 1952年生まれという年齢からしてロジャースの出演映画を観ていないのはしかたないとしても、名前ぐらいは聞いていてもおかしくない。第 7章で [舞台でミュージカル、特にタップダンスを楽しむ以前に、私は MGM映画でそういうものに親しんでいた。] とまで言っておきながら、まさか『巨星ジーグフェルド THE GREAT ZIEGFELD』『ジーグフェルド・フォリーズ ZIEGFELD FOLLIES』を観てないなんてことはないだろう。前者では役者が、後者ではアニメーションの人形が、ウィル・ロジャースを演じている(それとも、映画館至上主義の著者はヴィデオで観ることを拒んでいるのか。だとしたら、なんという好奇心のなさか)。
 それに、著者がこの本の資料として使っている、おなじみスタンリー・グリーン Stanly Green の「Broadway Musicals SHOW BY SHOW」「ENCYCLOPEDIA OF THE MUSICAL THEATRE」にもロジャースのことは載っている。
 そんなこんなで、ミュージカル好きにとってはウィル・ロジャースの名前は常識なのだ。
 さらに言えば、日本で知られる機会の少ないパッツィ・クラインはともかく、ダイナ・ワシントンは、ジャズ好きでなくとも(ジャズ好きでないミュージカル好きも最近は多いのかもしれないから)、 1952年生まれの映画好きなら、『真夏の夜のジャズ JAZZ ON A SUMMER'S DAY』で彼女の歌う姿を観ていないのがおかしい。

 ところが著者は、“知らなくて当然と思い込んでいる [日本人の私] ”を、 [そういう観客] という言葉で、なんだかどこにでもいそうな人々というイメージに一般化し、そんな(仮想の)人たちにとって『ウィル・ロジャース・フォリーズ』が [すごく不利な出し物になってしまう] と批判する。
 これこそ、ブロードウェイの劇場において異邦人(異文化人)であるという認識(=ブロードウェイ・ミュージカルがアメリカ固有の文化であるという認識)が希薄であることの証左。あまりに強引な論理に、思わず「おいおい」と思ってしまう。
 だって、そうでしょう。歌舞伎好きだけれども日本のことをよく知らないアメリカ人が歌舞伎座で『仮名手本忠臣蔵』を観て、「少しずるいと思うのは、モデルになっているのが有名な人々であり、観客にどういう人々であったかという予備知識があるために、構成で楽をしている点だ。アメリカ人の私はこの歌舞伎を見るまで赤穂浪士など知らなかった。そういう観客にとって、すごく不利な出し物になってしまうのである」なんて文句を言ったとして、誰がまともに聞きますか。
 「アナタハ、ドコノ国ノ人デスカ?」って感じ。

 こうした、著者の文化認識の曖昧さと知識のなさは、第 8章に設けられた「人種」というテーマで炸裂する。

 ここで著者が挙げているのは以下の 4作。

 『カンチオーネ・デ・ミ・パドレ CANCIONES DE MI PADRE』
 『シラノ CYRANO』
 『努力しないで出世する方法 HOW TO SUCCEED IN BUSINESS WITHOUT REALLY TRYING』
 『王様と私 THE KING AND I』

 実際にはもう 1作、『ミス・サイゴン MISS SAIGON』についてもかなりのスペースを割いて語っているのだが、ともあれ、リンダ・ロンシュタット Linda Ronstadt のコンサートである『カンチオーネ・デ・ミ・パドレ』以外は、これまた全て僕も観ているので話は早い。

 その『カンチオーネ・デ・ミ・パドレ』だが、なぜ著者がこれを採り上げたかと言うと、ミュージカルだと思って観に行ったから。で、なぜミュージカルだと勘違いしたかと言うと、 [TKTSでチケットを売っているものだからてっきり] [ミュージカルだと思い込ん] だ、ということらしい。
 ここで著者は、 [大きく分けるとこれもミュージカル扱いされてしまう。] と謎の発言をする。が、まあいいや(この手のわけのわかんない発言にいちいちこだわってたら、ちっとも話が前に進まないから)。
 実はこの『カンチオーネ・デ・ミ・パドレ』というタイトルは、リンダ・ロンシュタットの、話題になったメキシコ音楽カヴァー・アルバムについたタイトルと同じで(邦題は忘れたが、英語によるサブタイトルは“Songs Of My Father”)、少しアメリカ音楽に興味を持っている人なら、そこから内容を類推することが出来たはず。さらに、2月 2日の [HELLO!] にも書いたように、リンダ・ロンシュタットはミュージカル(正確にはオペレッタ)『ペンザンスの海賊 THE PIRATES OF PENZANCE』の 1981年のブロードウェイ舞台版と 1983年の映画版の両方に主要キャストとして出ているのだから、ミュージカルも映画も好きなら、その人となりを知っていて当然。
 しかし著者はこう書く。
 [公演のタイトルがスペイン語だったので、当然ながら観客席はスペイン語圏の人々が圧倒的に多かった。談笑する言葉は、そこら中、すべてスペイン語である。この歌手は、名前から判断してドイツ系だと思っていたのが大間違いだった。このあたり何がどうなっているのか分からない。]
 再び「おいおい」だ。こうした、様々な位相での著者の知識の乏しさには、ちょっと驚く。はっきり、視野が狭いと言い切ってもいい。

 だが、これはまだ序の口だ。
 ここから先、この章のテーマである「人種」をめぐって(あるいは、めぐらず?)、著者の、全くもって珍なる、論理とも言えないグダグダが始まる。この“グダグダ”を説明するのは非常に面倒なのだが(と言うのは、論理性に欠ける上に、著者が確たる見解を持っていないから、話が右往左往している)、ざっとまとめると次のようになる。

 まず、『カンチオーネ・デ・ミ・パドレ』については、そのステージで、歌はもちろん、あいさつからアナウンスにいたるまで、ほぼ 100%スペイン語だけが使われていたことを、暗に非難する。
 ニューヨークではスペイン語に限らず英語以外の言語が語られることが多いという(当たり前の)ことを、自分がいかに承知しているかをクドクドと述べた後で、著者はこう書くのだ。
 [しかしそれにしてもブロードウェイはアメリカ演劇の中心地である。アメリカ演劇の一つの目標地点である。そういう場所で、一つの公演がほとんど英語なしにスペイン語だけで終始したのである。そしてこのコンサートがスペイン語で通されることは初めから知っているかのように、観客の多くはスペイン語圏の人たちだったのである。]
 ね。はっきり書いてないけど、気分的に非難してるでしょ。しかも筋が通ってない。
 どう筋が通ってないかというと――、
 1). アメリカ演劇の中心地・目標地点での公演がスペイン語で終始していけない理由の説明がない(いけないはずがないだろう)。
 2). それ以前に、この公演は演劇ではなくコンサートなのだから、スペイン語で終始していけないはずが、さらにない。
 3). もちろん観客はスペイン語の公演であることを [初めから知って] ([いるかのように] ではなく)観に来たわけで、それが何か問題なのか。
 思うに、著者のこの非難がましい物言いは、自分が思わぬ疎外感を味わってしまったことへの意趣返しの色合いが濃い。自分が異邦人だという意識が薄い人ならではの屈折した自己正当化だ。
 それが証拠に、 [今までブロードウェイのミュージカルでたくさんの歌を聴いてきた耳から判断すると] なんていう、よくわからない判断基準を持ち出して、リンダ・ロンシュタットの歌をこき下ろす。この本の主旨と全く関係ないのに。一応、 [ブロードウェイの歌唱の通常レベルがいかに高いかということが、このコンサートに来て聴いてみてよく分かったのである。] なんていう、もっともらしい意味づけをしているが、僕には、著者の見識が足りないせいでロンシュタットの歌のよさがわからなかっただけだとしか思えない。
 ロンシュタットの歌 [一曲ごとに歓声を上げたり拍手を送っていた] [多くのスペイン語圏の観客] を揶揄するような文章を書く著者は、そうした「人種」の人々を自分より下に見ていないか。

 お次は『シラノ』。ここでは、黒人の役者がフランス人であるシラノを演じていることを問題にしている。
 [私はシラノ役が黒人であることに不自然さを感じた。(中略)視覚的には、間違いなく黒人が舞台上でフランス人・シラノを演じている。フランス人を白人と決めつける必要はないし、現実にも黒人のフランス人はたくさんいる。しかしシラノ・ド・ベルジュラックを私は今まで黒人であると思ったことがなかったので、意外だったのだ。]
 そんなわけで、著者にとって『シラノ』は、 [人種のことなどまったく無頓着に行われる公演] ということになる。
 で、 [黒人俳優デンゼル・ワシントンが、シェイクスピアの『リチャード三世』を演じるのを見た] 話になり、 [白人役を演じる黒人俳優に何の不自然さも感じず舞台に見入っている] [観客の成熟した態度に驚いてしまった] と言いながら、 [しかしシラノはフランス人、リチャード三世はイギリス人である。たとえばリンカーン大統領の役を黒人が演じてもアメリカの観客は正当な評価を下すことができるかどうか、私は疑問に思う。] と言う。
 にもかかわらず、この後、日本版『ミス・サイゴン』のことなどを持ち出してきた上で、著者はこの話を最終的にこんな風に日米の役者の演技力の差に落とし込む。
 [結論を言ってしまえば、アメリカやヨーロッパでは、そういう視覚的な不自然さを無視してでも、演技力のある俳優に堂々と主演をさせるということだ。俳優の演技力と観客の想像力によって生み出される印象は、視覚に訴えてくるものより強い場合があるのだということだ。視覚を裏切る演技力がアメリカやヨーロッパの俳優にはあると言い換えてもいい。]
 そして最後に、言い訳がましく、こうつけ加える。
 [一九九九年九月、ロンドンのウエストエンドで見た『美女と野獣』では、美女役に黒人女優が配されていた。見ていて気が落ち着かなかったのは、私の中の人種意識が曖昧だったせいかもしれない。]

 ここまで読んでおわかりだと思うが、著者の論理は明らかに破綻している。
 リンカーンを黒人が演じたらどう思うのだ、などという言いがかりとしか言いようのない発言までして、役柄と違う人種の役者の起用を批判しておきながら、最後にはそれを、日本の役者の力量のなさなどというお門違いの要素を持ち出して、一転肯定に回っているのだ。
 なぜこんなことになったかと言えば、著者が自分のいい加減な人種意識及び人種問題についてのいい加減な歴史的認識を正面から認めようとしないからだ。
 以下、そういう人物ならではの無神経な表現を列挙する。
 ●『シラノ』に関して、 [主演を黒人俳優が堂々と演じていたのである(注/どうでもいいことだが、「主演」と「演じる」は重複表現)。もっとも劇場で渡されるパンフレット「プレイビル」誌には人種は明記されていない。私が舞台で彼を見た時に黒人だと知ったのであり、プロフィールの写真で確認したことである。]
 ●『オセロ』の話になり、映画版で [主役の黒人を演じた白人のローレンス・オリビエや(中略)オーソン・ウェルズはわざわざ顔を黒く塗ったのである。(中略)映画は演劇以上にリアリズムの世界だからだ。最近年の『オセロ』(中略)では、やっと黒人のローレンス・フィッシュバーンが演じた。もちろん色は塗らない。『シラノ・ザ・ミュージカル』はその逆の場合であるのに、ロバート・ギロームは顔を白く塗って白人役を演じてはいないのである。]
 ●先のデンゼル・ワシントンのリチャード三世について、 [まさか悪党というキャラクターを念頭において黒人俳優を起用したわけではないだろう。(中略)彼はイギリスのあくどい王様役を当然のごとく演じていた。もちろん顔を白塗りにするようなことはなかった。]
 どうだろう。これを英語に翻訳してアメリカで(あるいはウェブサイトで)発表したらどんな反応があるか、想像してみてほしい。
 著者は、本来「人種」について書く立場になかったとは言えないだろうか。

 ところで、この『シラノ』話のマクラとして著者は『ミス・サイゴン』に触れ、 [ブロードウェイで初上演された時、その作品が含むアジア人への偏見やアジア系俳優の雇用に関することが問題となり、劇場前でデモがなされたという。] と書いているが、これは事実誤認。正しくは次のような事態だった。
 ロンドン産の同作品がニューヨーク公演を開始することが発表された後で、 [ブロードウェイの役者ユニオンが「イギリスの俳優ジョナサン・プライス(ロンドン出演中)の異人種による異人種の役を演じることはけしからん。あるべき役は同人種のアメリカ系俳優に演じさせたらよい」という主張(中略)をプロデューサーに通告。] [この問題は、ブロードウェイ対ウェスト・エンドという八〇年代以来の両演劇社会の摩擦の背景の延長線上の一問題としてとらえられる。] (大平和登「ブロードウェイを歩く」読売新聞社)

 さて、すでに「人種」に対する著者の曖昧さが露わになっているので、残りは簡潔に行こう。
 『努力しないで出世する方法』では、日系の役者がアメリカの演劇界でやっていくことの困難さを、『王様と私』では、アジア系人種に対する偏見を採り上げているが、こういう著者であってみれば、切れ味が鋭いはずがない。グダグダ書いたあげくに、 [アメリカ人は人種に関して鈍感なのだろうか敏感なのだろうか、私にはまだまだ分からない。敏感でもあり鈍感でもある。] という元の黙阿弥的結論にたどり着くだけだ。
 それよりも、『努力しないで出世する方法』に出ていたアイコ・ナカソネ Aiko Nakasone の顔と名前から、 [彼女を日本人だと信じて疑わなかった] 著者のニブさに驚く。

 “徹底批判”と謳ったので、残る章についても書いていくべきなのだろうが、前回、今回と読んでいただいてわかる通り、とにかく著者の姿勢や知識のなさがひどく、しかも徹底批判するに値するほどの主張もない内容なので、このへんで止めにしたい。はっきり、時間の無駄という気がしてきた。
 でありますので、前回の冒頭に書いた、これを他山の石としてミュージカル批評のあり方について考える、ってことをここでやっておきます。

 1). ミュージカルは観て楽しめばいいのであって、誰もが批評をする必要はない。
 2). 批評をするのであれば、誰に向かって何のためにするのかをはっきりさせるべし。
 3). ブロードウェイ・ミュージカルはアメリカ固有の文化だということを自覚するべし。

 とりあえず、この 3つかな。実りが少なかったなあ(笑)。

 最後に、もう 1つビシッと言っておこう。
 あとがきで著者が、ニューヨーク・タイムズの名劇評家だった故ブルックス・アトキンスン Brooks Atkinson が演劇関係者と交遊関係を持たなかった清廉な人だったことを書いた上で、自分も [演劇関係者と付き合いが少ない] と、暗に自分をアトキンスンになぞらえているのは笑止。 [その時、感じたことを誰に遠慮することなく素直に書] くことは、インターネット上でみんながやってること。問題は、書いたことに意味があるかどうか、書くだけの見識があるかどうかなのでありますよ。

(3/4/2000)

Copyright ©2000 Masahiro‘Misoppa’Mizuguchi

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